日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

尊王攘夷運動に影響を与えた学問 国学とは。【本居宣長】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「尊王攘夷運動に影響を与えた学問 国学とは。【本居宣長】」というお話です。

  これまで、江戸時代の幕府公認の学問として普及した朱子学。それに対立するカタチで民間を中心に普及した陽明学を紹介してきました。

朱子学については以下のリンクから 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

陽明学については以下のリンクから 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 しかし、これらはいずれも、中国の儒学を元にした海外から伝来した学問・思想です。江戸時代には、こうした海外からの移入思想を排除し、日本古来の思想を道理とする学問も誕生しました。

 それが今回紹介する国学という学問です。「国学」とは日本に仏教や儒教が伝わってくる以前の日本人の思想を研究した学問です。日本に初めて仏教や儒学が伝来したのは6世紀の古墳時代です。

 

 つまり、言葉は悪いですが、「仏教や儒教に汚染される以前の日本は実は凄い国だったのではないか」と主張する人達が現れたのです。

  ということで今回は江戸時代における「国学」誕生の経緯と、それを大成したあの人物を紹介するとともに、国学がその後の時代にどのような影響を及ぼしたのかを述べていきたいと思います。

 江戸時代は様々な学問が誕生した時代。国学もその中の1つ。家康によって水戸藩には尊王思想が信奉されました。それはやがて国学へと発展し、あの人物によって国学は大成されます。この思想はやがて幕末の尊王攘夷運動を引き起こす1つのきっかけとなりました。

  国学誕生の経緯を紹介するにあたり、時代を江戸幕府初代将軍・徳川家康にまで遡る必要があります。

 家康は江戸時代の士農工商の序列と徳川家の支配体制を強化するために、儒学の中の朱子学に注目します。

 そこで家康は林羅山朱子学を受容し、体系化することを命じました。こうして朱子学徳川将軍家公認の学問として確立します。

 一方で家康は、徳川御三家のうち、水戸藩にだけは尊王思想を信奉するよう命じます。これは将来的に江戸幕府が倒され、武家社会以前の天皇中心の国家に戻っても、徳川家の血筋が絶えないようにするためです。仮に天皇中心の国家になり、徳川家が全て処刑されても尊王思想が徹底されている水戸徳川家は生かしてもらえるのではという考えです。

徳川御三家・・・親藩の中でも徳川将軍家に連なる格式の高い大名。家康の子供、秀忠は徳川将軍家を継ぎ、その他3人の男児にはそれぞれ領地を与え、尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家の3家としました。)

 

 そこで、水戸黄門でお馴染みの水戸2代藩主・徳川光圀朱子学を学ぶ一方で、尊王思想の確立のために日本の古典の諸資料との収集と研究にあたりました。以来、水戸藩大日本史の編纂を中心に、古代の日本史を藩財政が圧迫するほど研究します。それは尊王攘夷論を基調とした水戸学も創始されるほどでした。 

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

 

 同時に光圀は僧の契沖(けいちゅう)に日本最古の和歌集・『万葉集』について研究するよう命じています。契沖は万葉集を分かりやすく説明した注釈書として『万葉代匠記』を書きます。これが後の国学発展の礎となるのでした。

 その後、荷田春満(かだのあずまろ)によって日本の古典研究は正式に「国学」と名付けられます。さらに、架茂真淵(かものまぶち)は万葉集の研究から中国の儒学を批判し、日本古代の道へ回帰することを主張しました。

 

 このように江戸時代初期から徐々に発展していった国学ある人物によって大成されるのでした・・・。

 

 その人物こそ、真淵の弟子である本居宣長(1730~1801)です。契沖に始まった国学は最終的に宣長によって大成されるわけですが、宣長は元々、医者を目指しており、23歳のときに京都で医学を学んでいます。その傍ら、宣長は契沖の著書を読み、国学に興味を持ち始めます。その後、宣長は、昼間は町医者として働く一方で、夜は国学者として研究に励みます。

  34歳の頃、師匠である真淵に出会い、『古事記』の研究を奨励されて以来、古今和歌集源氏物語を研究するなど、生涯を通じて国学の研究に励みました。そして宣長の代表作である古事記伝が完成したのです。

 宣長は江戸時代の主流であった中国の思想である儒学を徹底的に排除し、日本古来の学問を研究することで仏教や儒教が入ってくる前の日本人の姿を明らかにしようとしました。そこで、『古事記』や『源氏物語』を繰り返し読み耽ります。

 ここで、中国の儒学と日本古来の国学の違いを表で確認しておきましょう。

儒学 国学
理性を重視する道徳心 感情を重視する「もののあはれ
厳格主義を重視 素直な「真心」を重視
万物の原理は「理」である 神は規定不能である

 

  宣長は特に『源氏物語』には人の真心であるもののあはれが深く描かれているとして文学の基準は、理性を重視する道徳心ではなく、感情を重視する「もののあはれにあるとした。

 

 宣長はこの「もののあはれ」こそが、日本古道の核心であるとしました。「あはれ」とは、感動や驚きを示す間投詞「あ はれ」に由来するものであり、それは言葉では言い表せないけれど、「ああうれしい」とか「ああいいな」とか「ああ悲しい」などの感動から「ああ仕方ない」といった運命を受容するような場合などその意味は、非常に多岐に渡ります。

 

 確かに日本の自然の中に身を置くと、どこか心地よいの感情が湧きあがってきます。それこそ言葉では言い表せない感動を自然は私達に与えてくれます。

例えば森林から得られる癒しです。日本人なら誰でも一度は感じたことがあると思います。森林の中に身を置いたときの「ひんやり」としたあの心地よさです。あの心地よさを古代の日本人も感じていたのでしょう。

 

 また、儒学では万物の原理である「理」を人間のよるべき規範や規律であるとし、こうした厳格主義こそが文学作品や人間性の本質であるとした。

 これに対し、宣長は人間が自然などの「もの」に触れた時に湧きあがるしみじみとした感情こそが文学作品や人間性の本質であるとした。つまり、感じたことを素直に表現する真心(たをやめぶり)こそが道理であるとしたのです。

 

 さらに、儒学では「理」こそが万物を生成している神のような存在であると規定していますが、宣長神を1つに規定することは不可能だと述べています。

 といのも、日本人は古来、豊かな自然と四季の明瞭さの中で暮らすうちに自分達を取り巻く、自然のあらゆるものに神が宿っていると信じられてきました。

 それが八百万の神(やおよろずのかみ)というの万物のあらゆるものに神が宿っていると思想であり、例えば山には山の神が、川には川の神が、畑には畑の神が、さらには米粒の中にさえも神が宿っていると信じていました。したがって、豊作となれば、人々は手を合わせ、神に感謝を意を示したのです。

 その証拠に現在の日本国内には、もの凄く沢山の神社がありますよね。さらに「便所の神様」とか「台所の神様」、「お天とさんが見ている」などという言葉もありますが、それらはこの八百万の神が由来しています。

 

 しかし、こうした宣長の思想の中には極端な日本中心主義も含まれていました・・・

 それが、「神の道は日本にのみ伝わり、外国は既に古来より神の道の伝承が失われていた。」という内容です。

 つまり、日本だけが神の国であり、その他の海外の国は全て悪魔の国であるという極端な思想に走ってしまったのです。

 人間は物事を極端から極端に走らせてしまう傾向があります。だからこそ、ドイツの哲学者、ヘーゲルはアウフヘーゲンと呼ばれる思想を唱えています。これは、物事を否定する時は、それとは対の極端な物事へと走るではなく、第3案として高い次元の思想へと昇華していく必要があるとしたものです。

 宣長も長期間、国学を研究する中で、日本古来の素晴らしさを見出したと同時に、極端な日本中心主義者へと変貌してしまったのです。

 このような極端な自国中心主義は宣長の死後、弟子の平田篤胤によって神道が加えられ、復古神道が唱えられます。これが幕末の天皇を尊ぶ「尊王」と、外国を武力で追っ払う「攘夷」を合わせた尊王攘夷運動に大きな影響を与えます。

 日本はペリー来航と同時に開国し、たくさんのアメリカ人やイギリス人が日本に入ってきます。復古神道は、そんな外国人を追い払おうとする攘夷派の運動を強める結果となりました。

以上。

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。