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【日韓併合】なぜ伊藤博文は韓国を植民地ではなく、保護国としたのか【伊藤博文】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【日韓併合】なぜ伊藤博文は韓国を植民地ではなく、保護国としたのか【伊藤博文】」というお話です。

 日露戦争後の日本の外国との関係はどうなったのでしょうか。日韓、日露、日米における関係を見ていきたいと思います。今回は韓国を保護国としたことについて解説していきたいと思います。

日露戦争の勝利によって日本は韓国の支配権を正式に得ることが出来ました。元老・伊藤博文統監府を置き、初代韓国統監に就任しました。伊藤は韓国(朝鮮)人の潜在能力を見抜いており、ロシアや中国、列強諸国からの侵略にも対抗出来るよう韓国(朝鮮)を植民地ではなく、保護国として統治しました。伊藤は、韓国に資金を投資し、産業や教育水準を近代化させ文明国に成長させようとしました。 

「我が国軍の韓国内での自由な軍事行動を容認して頂くようお願い申す。」

 1904(明治37)年2月、日露戦争が始まると、間もなく元老・伊藤博文は、韓国に対し戦争協力を要求する日韓議定書を調印させました。なお、朝鮮は1897年、国号を大韓帝国に改定しています。 

 戦争中には第一次日韓協約を結ばせ、韓国(朝鮮)政府の財政顧問・外交顧問に日本人あるいは日本政府が推薦する顧問を登用することを認めさせました。 

 もちろん、韓国側は猛反発しましたが、国力が違いすぎるためどうにもなりません。

 翌1905(明治38)年、日露戦争に勝利した日本は講和条約であるポーツマス条約でロシアに韓国に対する日本の指導・監督権を認めさせました。ロシアはまもなく、韓国から手を引きました。

 日本は韓国の保護国化をより確実なものとするため、ロシアとの間だけでなく、イギリスやアメリカとも調整を図ります。イギリスとは日英同盟を改定し、同年、第二次日英同盟を締結。アメリカとは同年、桂・タフト協定で、日本の韓国指導権が認められました。

 このように日本は列強諸国の了解をとりつけたうえで韓国の支配権を獲得したのです。 

 その後、元老である伊藤博文特命全権大使として韓国に出向き、第二次韓国協約の締結を要求しました。その内容は韓国政府から外交権を奪い、首都・漢城(かんじょう)に統監府という日本の組織を置き、これに外交を委ねるというものでした。

漢城・・・現在のソウル)

 なお、この統監府には韓国に駐屯する日本軍の指揮権も持っていました。これに対し、陸軍大臣寺内正毅(てらうちまさたけ)は反対します。

「軍の指揮権は天皇にあり、それを委任されているのが我が陸海軍である。韓国の統監府が軍の指揮権を有しているのはおかしい。」

 1906年、明治天皇は寺内と、参謀総長大山巌(おおやまいわお)を呼び出し、こう伝えました。

「朕は、韓国の統監に対して指揮権を与えている。寺内殿、大山殿、どうかご理解いただきたい。」

 これによって寺内率いる陸軍反発は抑えられました。寺内は後に初代朝鮮総督に就任します。(後述) 

 さて、こうした日本の支配に対し、当然韓国皇帝や韓国政府は強く抵抗しました。これに対し、伊藤はこう述べます。

「これは日本政府の確定案であり、もし受け入れないのであれば韓国は極めて不利な状況に陥るだろう」

 韓国王宮は日本軍に包囲され、日本閣僚が一人一人意見を述べるなどの脅しをかけ、強引に協約に調印させたのである。

 さらに伊藤は自ら進んで初代韓国統監に就任し、韓国の外交を担うことになりました。

 これに対抗するように韓国政府の重臣達が抗議の自殺をしました。韓国民も大いに憤慨。各地で反日運動が活発化するようになりました。

 

 1907(明治40)年、日本では第一次桂太郎内閣が総辞職し、第一次西園寺公望内閣が誕生していた頃、韓国皇帝は密かに国内の抗日運動を支援し、ハーグの万国平和会議に密使を送り、日本の不当支配を訴えました。

 派遣された密使はアメリカやイギリスなどの列強諸国の代表を訪ねて懐疑への参加を依頼するも、既に日本が韓国を支配下におくことを条約等で容認していたので、密使の要求は却下されました。

 この密使事件を知った伊藤統監は大激怒。

「なんて無礼な奴らだ。自分達の立場というものがまるで分かっていない。」

 伊藤は現在の韓国皇帝を退位させ、その皇太子を皇帝に就任させました。さらに第三次日韓協約を押し付けました。これにより韓国は外交権だけでなく、内政権も奪われ、軍隊も解散させられることになりました。

 こうして韓国は事実上、日本の保護国となりました。

 韓国内の反日感情は頂点に達し、武装した国民が各地で反日闘争を繰り広げるようになりました。これに解散させられた韓国兵士が参加したことで義兵運動として発展しました。その数は十数万人に及び、運動は活発化していきました。日本は軍隊を出動させ、その鎮圧を図ります。韓国側は1万8000人ほどの戦死者を出したのに対し、日本側の戦死者は数百人と軽微なものでした。

 

 ところで伊藤博文はなぜ韓国を保護国にしようとしたのでしょうか。伊藤は4度の総理大臣を経験し、元老として天皇の厚い信頼を得ていました。さらに大久保利通の意志を継ぐリアリストであり、地に足ついた考えが出来る政治家です。

 そんな伊藤は、韓国を保護国におくべきとかんがえていたが、植民地にすることには反対していました。ここがポイントです。

 保護国というのは、条約に基づき、他国の主権によって保護を受ける国。内政および特に干渉、制限を受ける。国際法上の半主権国のことを言います。

 対して植民地とは、単なる宗主国の市場であり、資源の供給地であり、国として権利を持っていない完全なる従属国のことを言います。

 「日韓併合」とは、日本が韓国を自国の領土にしたということですが、現在の韓国では、これを「日本の植民地支配」と言われています。

 確かに文明未発達の朝鮮人に対する差別など欧米列強の植民地支配と共通する部分もありました。しかし、それはあくまで政治が悪く、教育も未整備で民度が低いためにこのような状態になっているのであり、教育や殖産興業に力を入れることで韓国を日本と同等の文明国家として成長させようとしていました。

 伊藤は韓国(朝鮮)人は潜在的に日本人に劣らないほど優秀であり、日本のように近代化を成し遂げることが出来ると考えており、それによって、韓国(朝鮮)に侵略を考える周辺諸国に対抗できるだけの国力をつけさせようとしたのです。

 日本としても韓国が中国やロシアの「干渉国」となってくれるのは、非常に好都合です。伊藤は保護国である韓国に道路網や鉄道、発電所、学校など社会インフラの整備を積極的に行いました。

 また、伊藤は韓国を植民地にするという欧米の真似ごとにうしろめたさも感じており、韓国を植民地ではなく、保護国という位置づけにしたのです。

 

 そのことが当時の韓国の人々にも伝わったのでしょう。韓国国内でも一部の知識人の中から「日本と韓国を合併させよう」という運動が起こってきました。

「弱小国である韓国は、どのみち他国の植民地支配を受けるだろう。ならば日本と韓国を合併させるべきだ。先に近代化に成功した先輩国家である日本から学び、積極的に国力を上げていくべきだ。」

 

 そして1909(明治42)年、親日団体である一進会の李容九(りようきゅう)は伊藤統監に対し、「日韓併合」を提案しました。

 しかし、伊藤はこの提案を拒否します。

「現在、我が国は韓国の財政権や外交権、内政権などあらゆる権限を有している。その上で韓国の独立を推し進めているのだ。今の韓国に自国を守る国力はない。日本と韓国は対等な立場であるはずがない。」

 これに不満を持った韓国国民の中から伊藤の暗殺を企てる者が現れ始めまたのでした・・・・。

 

 同じ頃、第二次桂太郎内閣でも日韓併合が叫ばれ始めました。小村寿太郎外務大臣は1909(明治42)年3月、桂と面会し、「対韓大方針」を差し出して提案しました。

「韓国を併合することを閣議で決定してほしい」

「わかった。しかし、それには統監である伊藤殿の許可が必要だ。」

 同年4月、伊藤は日本に帰国。桂と小村は伊藤の説得に当たった。

 意外にも伊藤はこの提案を受け入れます。韓国で高まる一方の反日運動を受け、韓国支配がうまくいかなかった状況に嫌気がさし、あっさりと韓国併合に同意したのです。

 こうして同年7月、日本政府は韓国を併合することを正式に閣議決定されました。

 

 すっかり韓国人の恨みを買っていた伊藤はその後、韓国人青年に射殺されてしまいます。

 翌1910(明治43)年、日本と韓国の間で韓国併合条約が締結され、韓国皇帝は明治天皇に永久に統治権を譲ります。こうして韓国は日本の領土となったのでした。

 

 以後、韓国では日本主導の土地調査事業などが行われ、韓国の多くの土地が日本人資本のもとに没収されていきました。この時に大韓帝国の韓国という国号を否定し、地域名として再び朝鮮という名前が強要され、韓国統監府に代わって朝鮮総督府がおかれました。そして、統監には寺内正毅(てらうちまさたけ)がそのまま初代朝鮮総督に就任しました。

 

 以上、今回は日本の韓国支配を見てきましたが、その支配は列強諸国のそれとは違っていました。イギリスやフランスなどの植民地支配は一方的な収奪という徹底的な搾取でしかありませんが、それとは違います。

 その証拠に第二次世界大戦後、日本が朝鮮(韓国)の支配権を失ったあとの日本の決算は大幅な赤字となってしまいました。これは朝鮮から資源を調達したり、企業活動をして設けた利益よりも韓国の社会整備のために費やした費用の方が多かったからです。

 そのくらい日本は韓国に一生懸命投資したのです。

 無論、他民族を支配することは良いことではありません。日本も決して良いことばかりしたというわけではありません。

 しかし、韓国がもしロシアの支配を受けていたら、どうなっていたでしょうか。歴史に「もし、○○だったら~」はタブーですが、もしロシアの支配を受けていたら、徹底的に搾取される植民地となっていたかもしれません。

 また、韓国(朝鮮)はそれまで中国の従属国でしたが、中国の支配を受けていた結果、韓国は近代化が遅れてしまいました。

 日本に支配されたからこそ、韓国には近代化の下地が出来たのだと考えられるのではないでしょうか。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

魂の昭和史                   福田和也=著 小学館文庫

明治大正史 下                 中村隆英=著 東京大学出版

斎藤孝の一気読み!日本近現代史         斎藤孝=著  東京堂出版

風刺漫画で日本近代史がわかる本         湯本豪一=著 草思社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社