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【岩倉使節団】彼らは欧米で何を見てきたのか【岩倉具視】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【岩倉使節団】彼らは欧米で何を見てきたのか【岩倉具視】」というお話です。

 

 今回は、岩倉使節団による欧米視察ということで、日本史と世界史のクロスオーバー作品になります。

 是非、最後まで読んでいただきますよう、よろしくお願いします。

岩倉使節団条約改正西欧文明の視察を目的に横浜港を出港します。しかし、岩倉らは条約改正を断念し、目的を西欧文明の視察のみに集中しました。この頃、西欧諸国も、フランス帝国の崩壊やドイツ帝国の誕生など変革期を迎えていました。

 

  1871年(明治4年)に廃藩置県を達成し、全国を完全に新政府の直轄地とすることが出来ました。国内での中央集権国家の確立に目途がたったところで、今度は対外政策です。

  明治政府には大きな課題がありました。条約改正です。江戸時代末期にアメリカと日米修好通商条約を締結したことをはじめ、列強諸国と通商条約を締結しますが、その条約は不平等な条約であったことが明るみになり、領事裁判権の廃止関税自主権の撤廃を急いでいたのです。

 また、明治天皇は苦慮していました。西欧の文明の進み具合のショックを受けており、近代国家樹立にはその文明を取り入れるしかないと感じ、一刻も早く追いつくべく産業育成をしなければならないと。

 そこで、政府は欧米への使節団の派遣を計画しました。右大臣・岩倉具視を団長に、木戸孝允大久保利通伊藤博文など錚々たる面々です。その他、留学生や女学生を含めた総勢100人を超える大集団となり、同年11月にサンフランシスコに向け、横浜港を出発しました。

  この岩倉使節団渡航目的は以下の2つ。

1.欧米列強に不平等条約を解消させ、彼らの欧米列強と同じ立場に立つこと。

2.欧米列強の政治、制度、文化、教育を日本に取り入れ、列強と同等レベルにまで進歩させること。

 

 しかし、現実は甘くなかった。

 最初の訪問国であるアメリカのサンフランシスコに到着した一行は、アメリカの盛大な歓迎に喜び、条約改正は簡単に進むかに思われました。

 しかし、交渉に必要な委任状を持っていないことを指摘され、大久保と伊藤が委任状を取りに日本に戻るという事態が発生してしまいました。

 

 大久保と伊藤が委任状を取りに日本に戻っている間、岩倉と木戸は条約改正の話をアメリカ首脳部に持ちかけます。しかし、アメリカ側は全く聞く耳を持ちません。アメリカからすれば不平等条約自国にとって有利に貿易を進められる条約であり、そうやすやすと手放すはずがなかったのです。これ以上条約改正の話をすると関係が悪化するとみた岩倉らは条約改正を断念。目的を欧米文明の視察だけに絞りました。

 

 この後、一行はアメリカ国内を視察するわけですが、日本との相違点に驚愕するばかりでした。

 当時のアメリカも変革期を迎えていました。1865年に南北戦争が終わり、黒人初の上院議員が誕生。1867年にはロシアからアラスカを買収。1869年には大陸横断鉄道が開通し、現在のアメリカの国土がほぼ確定。本格的な西部開拓に乗り出していました。

 

 ワシントンで大久保・伊藤と合流した一行は、大西洋を渡り、ロンドンに向かいました。

 当時、民主主義の先頭を走っていたイギリスやフランスでも大きな社会変革を迎えてしました。

 イギリスでは18世紀に起きた産業革命によって大量生産・大量消費の時代を迎えるも、一方で労働環境は劣悪で、大きな社会問題となっていました。1868年にグラッドストンを党首とした自由党が誕生したことで、教育法や労働組合法を制定し、労働者階級の地位向上が図られていました。

 

 フランスでもドイツとの普仏戦争に敗北したことでナポレオン3世が退位し、1870年に第三共和政が誕生していました。しかし、パリにコミューンと呼ばれる労働者によって結成された自治政府が誕生します。ヴェルサイユの臨時政府はドイツからの援軍を受け、市街戦を展開。自治政府を鎮圧することに成功しました。

 使節団は、議会政治や産業振興だけでなく、当時の日本ではまだ顕在化していなかった労働者問題にも触れることが出来たのです。

 

 一行はさらに、イタリアとドイツに向かいます。

 長らく国家として成立していなかったドイツとイタリアもこの頃、統一国家として誕生します。

 イタリアは9世紀のフランク王国分裂以降、実に1000年以上ものあいだバラバラの状態が続いていました。これを統一したのがサルディーニャ王国でした。国王であるヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と宰相カヴィールのコンビは1866年にオーストリア帝国からヴェネチアを奪取、ローマ教皇が占領していたローマも統合し、1870年には現在のイタリア王国として統一されました。

  ドイツは18世紀に台頭したプロイセン王国が中心となり、オーストリアを排除するカタチでドイツの統一が勧められます。これに反対したフランスはドイツと普仏戦争を開始。ドイツはビスマルクの活躍により、フランスに勝利。1871年に国王ヴィルヘルム1世が皇帝として即位し、ドイツ帝国が誕生しました。

 

岩倉使節団の首脳部はこのイタリアとドイツの偉業に思わず共鳴してしまいます。

「自分達もつい最近まで倒幕のために実に多くの戦争をし、ようやく新しい国家を樹立出来たことを。」

 

同じ運命をたどった両国のうち、特にドイツ帝国には強い印象を受けます。後に伊藤博文は再びドイツを訪れ、憲法草案の調査研究を行います。なぜ日本はイギリスやフランスではなく、新興国であったドイツの憲法を模範にしたのかがわかるエピソードだと思います。

 

彼らが帰国したのは、1873(明治6)年で、この年の1月1日から「1日は24時間、1年は365日」という太陽歴が採用され、福沢諭吉森有礼を中心とした明六社が結成されるなど本格的な文明開化が推し進められていました。

 

団長の岩倉は数年前までは筋金入りの攘夷派で外国人を毛嫌いしていましたが、西欧の近代化にただただ圧倒されるばかりで、もはや条約改正どころの話ではなくなったのでした。

 

同行した留学生達は留学生活を終え、帰国した後、いろいろな分野の専門家としてお雇い外国人に代わって日本の近代化を牽引していくのでした。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

父が子に語る 近現代史      小島毅=著   トランスビュー

斎藤孝の一気読み!日本近現代史  斎藤孝=著   東京堂出版

もういちど読む 山川日本近現代史 鳴海靖=著   山川出版社

教科書よりやさしい日本史     石川晶康=著  旺文社