日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【日独防共協定】なぜ日本とドイツは手を組んだのか【アドルフ・ヒトラー】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【日独防共協定】なぜ日本とドイツは手を組んだのか【アドルフ・ヒトラー】」というお話です。

 日本とドイツは第二次世界大戦で互いに同盟を結んでいた国として知られています。

 今になって思えば、なぜ日本はあのナチスドイツと手を組んでしまったのかと疑問が沸いてくることでしょう。

 当時のドイツははっきり言って、評判の良い国ではありませんでした。まさに‘ヨーロッパのならず者‘として各国から非難を浴びていました。

 一見、何も関係なさそうな西洋の国と、東洋の国がなぜ手を組んだのでしょうか。そんな日本がなぜドイツと手を組んだのでしょうか。どんなメリットがあったのでしょうか。

 今回はそれを見ていこうと思います。

陸軍参謀本部は政府の意向を無視して1936年、日独防共協定を結びました。これは、ソ連共産主義の拡大を防止するためのもので、日独が協力してソ連に対抗するためのものでした。そのはずだったのですが・・・・。


 本題に入るまえに、外交や安全保障におけるある法則をご紹介します。

 それは、「敵の敵は味方になる」という法則です。

 例えば、お互いに不仲で緊張状態にあるA国、B国、C国があったとします。

 ある日、A国はB国に侵攻しました。A国の侵攻を受けたB国は当然、A国に宣戦布告しました。さらにA国はC国にも侵攻しました。C国もA国に宣戦布告します。

 B国にとっての最大の敵A国は、C国にとっての最大の敵でもあります。すると、A国という共通の敵を倒すためにB国とC国は必然的に手を組むようになるのです。

 これが「敵の敵は味方になる」という法則です。これを踏まえたうえで、本題に入ります。

 

 日本は歴史的にドイツに憧れの念を持っていました。

 その歴史は明治初期、岩倉使節団の欧米視察の頃にまでさかのぼります。

 使節団は1871年に誕生したドイツ帝国の視察に行きました。ドイツは18世紀に台頭したプロイセン王国が中心となり、19世紀にかけてオーストリアを排除するカタチでドイツの統一が勧められます。

 これに反対したフランスはドイツと普仏戦争を開始。ドイツはビスマルクの活躍により、フランスに勝利。そして国王ヴィルヘルム1世が皇帝として即位し、ドイツ帝国が誕生したのでした。

 ビスマルクは国家の統一に必要なのは、‘鉄‘と‘血‘、つまり武器と兵士であるとする鉄血演説をしました。

 この演説内容に伊藤博文大久保利通など政府要人は強い影響を受けました。その証拠に帰国した明治政府は、陸軍草創にあたり、お雇い外国人は、いずれもドイツの軍人で、彼らから陸軍編成から戦術、戦史、武器の習熟を教わりました。

 そしてドイツ軍人の規律正しい生真面目さは、武士道や清貧を好む日本人には大変好印象なものでした。

 

 20世紀に入り、ドイツ帝国は1919年にドイツ共和国となりました。

 そして、日本が満州事変を引き起こした頃、世界はニューヨークに端を発した大恐慌にあえぐようになりました。

 広大な植民地を持つイギリスやフランスのような‘持てる国‘は、植民地を利用して、独自の自給と市場の経済ブロックをもって、大恐慌に対抗しました(ブロック経済)。

 しかし、ドイツは第一次世界大戦の敗北によって、植民地を没収された‘持たざる国‘であり、危機に陥りました。さらに第一次世界大戦の賠償金
も重なり、その危機はさらなる重圧となりました。

 この時、国民の不安や怒りを利用して、勢力を拡張したのがアドルフ・ヒトラーを党首とするナチス国家社会主義ドイツ労働者党)でした。

 共産主義を毛嫌いしていたヒトラードイツ国会議事堂放火事件をドイツ共産党の仕業であるとし、同党を解散させ、実権を握っていきました。

 そして、1933(昭和8)年早々にはナチス党による内閣が成立し、翌1934(昭和9)年にヒンデンブルク大統領が死去すると、その地位も兼ねるとしてヒトラーは大統領と首相の権限を合わせもつ総統の座に就きました。

 

 ヒトラー総統の目的はヴェルサイユ条約の打破と再軍備でした。

 しかし、ドイツ共和国は国際連盟常任理事国なので、このままでは軍備増強は出来ません。

 国際連盟とは第一次世界大戦後に発足されたいわばヨーロッパの揉め事処理機関ですが、常任理事国のイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本の中で、中立な立場でまとめられるのは日本だけでした。

 ところが、1933年に日本が国際連盟を脱退したことで、ヨーロッパの揉め事が、ぶり返してしまったのです。

 日本の国際連盟脱退から1か月後、ヒトラー政府も国際連盟から脱退しました。

1935(昭和10)年3月には再軍備宣言として国防軍備編成法を発布し、徴兵制を復活し、ドイツを中心とした強力な世界秩序の再編成を目論むようになりました。

 こうして国際的孤立の道を歩みはじめたヒトラーが、同じく孤立化を歩み始めた日本に接近するようになったのは、むしろ必然なのかもしれません。

 

 そんなヒトラー政権が警戒を強めた国がソビエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連)でした。

 ロシア革命で成立したソ連は、指導者レーニンの死後、ヨシフ・スターリンが実権を握り、五ヵ年計画による重工業と農業の大躍進を推し進めました。

 共産主義を危険思想とみなすドイツは、勢力を伸ばすソ連を警戒(仮想敵国と)するようになりました。

 一方、ソ連を警戒していたのは日本の陸軍も同じでした。

 つまり、ドイツと日本にはソ連という共通の敵が現れたのです。

 ここで「敵の敵は味方になる」という法則にのっとり、日本とドイツは接近していくようになります。

 日本陸軍がドイツとの関係を密接に要求するようになるのは、二・二六事件後に成立した広田弘毅ひろたこうき)内閣の時でした。

 陸軍少将の大島浩(おおしまひろし)は、ドイツ大使として赴任するや、外務省の意向など一切無視してドイツの外交主任リッペン・トロップと交渉して日独防共協定をまとめ上げてしまいました。

 このように陸軍参謀本部は外交にまで口出しするくらい勢力を強めており、広田内閣は、完全に陸軍の言いなりとなる政権だったのです。

 この「防共協定」は、「共産主義」を「防ぐ」ことを目的とした協定であり、もしソ連との戦争になった場合、両国はお互いに採るべき道を協議し、場合によってはソ連を東側と西側で挟み撃ちにすることも辞さないとしました。そして、この協定があるうちはソ連との条約は結ばないと明記されていました。

 

・・・・の、はずでした・・・・・。

 

 しかし、こんな取り決めは一切構わずにドイツは1939(昭和14)年秋にソ連との間で独ソ不可侵条約を結びました。

 このとき、日本陸軍ノモンハン事件で、ソ連軍の機動力の前に徹底的に叩きのめされていました。日本はソ連と軍事的に対決をしているのに、ちゃっかり同盟を結び、ポーランドの割譲などの取り決めをしている。

 仰天動地した時の平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)首相は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という‘名言‘を残して総辞職しました。

 ドイツは、独ソ不可侵条約を結んだ1週間後の9月1日、ポーランドに侵攻の電撃戦を展開、ヨーロッパは戦火に巻き込まれるようになりました(第二次世界大戦)。

 

 最後に、日本がドイツと手を組んだことは、アメリカからの怒りを買いました。つまり、「敵の敵は味方になる」という法則によって、日本はアメリカと対立するようになってしまいました。

 1939(昭和14)年、日本はアメリカから日米通商航海条約の破棄通告を受けました。日本はアメリカへの資源依存を理解せず、猪突猛進でドイツに近づいていった結果、独ソの提携に強いショックを受けたのでした・・・・。

以上。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。

それでは。

参考文献
教科書には載ってない 大日本帝国真実      武田知弘=著 彩図社
昭和史を読む50のポイント           保阪正康=著   PHP
これだけ読めばよくわかる「昭和」を変えた大事件 太平洋戦争研究会=著 世界文化社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史        中村達彦=著   アルファポリス