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【独ソ不可侵条約】なぜスターリンはナチスと手を組んだのか【ヨシフ・スターリン】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【独ソ不可侵条約】なぜスターリンナチスと手を組んだのか【ヨシフ・スターリン】」というお話です。

 

 世界史を見ていくと、ロシアという国は常に領土拡大を狙い、チャンスがあれば、見境なく攻め入る過激な国だということがわかります。
 あれだけ広大な国土を持ちながら、なぜロシア(ソ連)は領土拡大を目論むのでしょうか。
 その理由は非常に簡単で、寒いからです。ロシアは最低気温マイナス30度~40度、中にはマイナス60度という人間が数分で凍死してしまうような地域も抱えている国です。
 ロシア人も暖かい地域に住みたいのです。

 ということで今回は、そんな領土拡大を目論むスターリンの野望を見ていきながら、当時の世界情勢や独ソ不可侵条約の締結などについて解説していきたいと思います。

スターリンは東アジアの日本とのノモンハン事件があったので、ヨーロッパの憂いをなくしたかった。そこで、スターリンはドイツとイギリスを戦争させ、ヨーロッパを混乱に招こうとした。そこでスターリンポーランドの分割統治を条件にドイツと手を組み、(独ソ不可侵条約)ドイツはイギリス・フランスと戦争を開始しました。(第二次世界大戦の勃発)一方のスターリンはどさくさに紛れて、バルト三国の併合など火事場泥棒をやってしまうのでした・・・。

 ロシア革命で成立したソビエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連)は、指導者レーニンの死後、彼の意思を継いだヨシフ・スターリンが実権を握るようになりました。    1925年に五ヵ年計画を終えたソ連は農業や重工業の分野で大躍進し、社会主義国家であったため、1929年に始まった世界恐慌の影響も受けず、国力は急速に成長しました。
 その一方で、集団農業による収奪や大量の人々の酷使によって最大1000万人を超える犠牲者を出していたことが、後世明らかにされました。
 さらに、スターリンは体制を一枚岩にするために容赦ない粛清を開始しました。

 

 1933年。この年は今後の世界情勢を大きく変える出来事がありました。

 まず、2大強国のトップが強力な支配者にとって代わられたのです。
 1人は、ナチス党党首のアドルフ・ヒトラー。ドイツは世界恐慌と、第一次世界大戦の敗北による超高額の賠償も重なり、経済は大きな重圧を受けた。その時、国民の不安や怒りを利用して、勢力を拡大したのがヒトラーでした。

 もう1人は、フランクリン・ルーズベルト。彼は世界恐慌に対処できなかったフーバー大統領にかわり、32代アメリカ大統領に就任しました。

 

 次に、日本が国際連盟を脱退したことです。前年(1932年)9月に満州国の建国を宣言したものの、結局連盟の承認が得られず、日本全権団が総会から退場する事態になりました。

 

 そして世界覇権を握るイギリスはこれらドイツ・アメリカ・日本という現状打破勢力に囲まれる中、どのようにして世界の秩序とブリテン島を守るかに腐心していました。

 

 こうした激動の世界情勢の中、スターリンはこれらの勢力に打ち勝ったうえで領土拡大を図らねばなりません。

 まず、アメリカですが、ルーズベルト大統領は就任早々、ソ連を国家承認するなどやたらと媚びへつらってくる。ソ連の恐ろしさを知っているからだ。コイツを手なずけるのはたやすい。

 ヨーロッパの秩序は、大きく変化するだろう。
 国際連盟とは、通称「ヨーロッパの揉め事処理機関」のようなものだが、常任理事国であるイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・日本の中で唯一、中立的な視点でまとめられる日本が国際連盟を脱退したことで、ヨーロッパは当事者同士の駆け引きとなる。
 スターリンの予想とおり、ヨーロッパの平和秩序はヴェルサイユ体制の完成から十数年で崩壊してしまいました。
 その手始めとして、ドイツは1933年8月に日本の後を追うようにして国際連盟を脱退し、ヴェルサイユ条約を打破したうえで、国防軍編成法を発布して再軍備に踏み切りました。こうした大拡張政策が功を奏し、ナチスドイツは世界恐慌からいち早く脱出することに成功しました。

 こうして国際連盟を脱退し、お互いに国際的孤立を深めた日本とドイツは、互いに手を組むようになりました。1936年11月に締結された日独防共協定です。
 これは、共産主義を防ぐための協定という意味ですが、日独がソ連を仮想敵国としてユーラシアの東側と西側から挟み撃ちにするという悪夢のような同盟だ。特にヒトラー共産主義を毛嫌いする非常に厄介な存在だ。こののち、日本、ドイツに続いて同じく国際連盟を脱退したイタリアも翌1937年に加わり、日独伊三国防共協定が結ばれました。
 このような共産主義包囲網をスターリンはどうにかして振り切らなくてはなりません。

 

 まず、東アジアの日本はどうするか。直接戦争をしようにも、日本軍はかなり強力な軍事力を持っていることが予想されるし、ロシアは過去に負かされている。(日露戦争
 しかし、そんなスターリンの窮地を脱する格好の出来事がすぐに起こりました。
 1937年7月に起きた盧溝橋での事件以来、日本は中国国民政府中と戦争を始めたのです。
 中国大陸に多くの権益を持つイギリスは日中戦争を収拾させようと必死だ。チェンバレンは日本ともう一度、日英同盟の復活を目論んでいるらしい。
 日英同盟といえば、ソ連を警戒するために組まれた同盟だ。成立すれば、これまた厄介だ。
 しかし、日本ときたら、チェンバレンの誘いをずっと断り続けている。過去に日英同盟を一方的に破棄されたことを恨んでいるらしい。
 やはり日本の外交能力は無視できるほど低い。

 

 アメリカは中国大陸で勢力を伸ばす日本を敵視し始めた。これは好都合だ。日本が中国で戦線を拡大すればするほど、アメリカの反発は強まるばかり。これはもう笑いが止まらない。
 日本には、このまま中華民国と戦争をし続けてもらい、国力を弱らせ、‘その時‘が来たら、国境をかじりとってしまおう。
 こうして日中戦争勃発から1年半後の1939年、スターリンは遂に東側での領土拡大に乗り出しました。
 しかし、いきなり侵攻するのではなく、日本の傀儡政権である満州国の国境を少しずつ挑発するのだ。しかも、それはソ連の傀儡国家であるモンゴルにやらせる。
こうして起こったのが、1939年5月のノモンハン事件です。
 しかし、この戦いで、スターリンは日本軍の強さを思い知ることになります。
 日本との戦いに、予想以上に戦力を割かなければいけないこと悟ったスターリンは東側での領土拡大はしばらく延期することにしました。
「日本と戦争するのは、危険だ。」

 スターリンが東アジアでの領土拡大と、ノモンハン事件に躍起になっている頃、ヨーロッパではヒトラーの領土拡大が目まぐるしい勢いで進んでいました。
 ゲルマン民族統一国家樹立を理想として掲げるヒトラーは、1938年3月にオーストリアを併合したり、チェコスロバキアゲルマン民族の多く住むスデーデン地方の割譲を要求しました。
 これを解決するために1938年9月に開かれたミュンヘン会談では、英首相のチェンバレンは「これが最後の領土要求とする。これ以上はダメだ。」と約束が結ばれたうえ、ドイツのスデーデン併合が認められた。
 しかし、ヒトラーは舌の根も乾かぬうちに約束を破り、1939年3月、チェコスロバキアの軍事占領を完了させてしまいました。
 これに怒ったイギリス・フランスは、それまでの譲歩の姿勢から、強硬姿勢に出るようになりました。それはポーランドに対するイギリスの保証でした。これは「もし、ドイツがポーランドに侵攻したら、英仏はドイツに宣戦布告することを約束する」というものです。

 ヨーロッパの事実上リーダー格であるはずのチェンバレンは、ミュンヘン会談にソ連を呼ばなかった。スターリンが東アジア情勢に気を取られている間に、勝手にドイツの領土承認をしていたのだ。
 ヒトラーの領土獲得は承認しても、スターリンの領土獲得は承認しないのか。スターリンのヨーロッパに対する不信感は高まりました。
 しかしながら、チェンバレンは、ナチス・ドイツはもちろん、スターリンへの警戒も全く怠らない世界の番人です。
 コイツが見張っている限り、ヨーロッパ方面での領土拡大は難しいだろう。

 

 日本を負かすことが出来ないと悟ったスターリンは西に取って返して、ヨーロッパの‘ならず者‘ヒトラーを手なずける方法を考え始めました。
 何とか、イギリスの監視の目をドイツだけに集中させないといけない。イギリスとドイツが喧嘩をしてくれれば、どさくさに紛れてヨーロッパでの勢力拡大が出来る。
 そういえば、ドイツとポーランド犬猿の仲になっている。ポーランドは小国のくせにイギリスが味方についたせいか、やたらとドイツを挑発している。
 ポーランドは真っ平な国なので、侵攻は簡単だ。ドイツもポーランドを欲しいと思っているに違いない。
 ドイツがポーランドに侵攻すれば、条約違反として、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告するだろう。一方で、ソ連はそんな条約を結んでいないので、英仏の宣戦布告は免れる。
 世界の嫌われ者であるヒトラーと手を組むのは、勇気が入るが、ポーランドの東側も手に入るし。
 こうして1939年8月、スターリンポーランドを山分けすることを条件にヒトラーと手を組むことにしました。独ソ不可侵条約の締結です。これによってドイツとソ連の間には互いに侵略の邪魔をしないという取り決めがされました。
 ソ連と不可侵条約を結ぶことはドイツにとってもメリットがありました。日独伊三国防共協定でソ連を敵に回した状態では、対ポーランド及び、対ソ連という二面作戦を強いられることになる。ドイツは西ヨーロッパを占領するまではソ連と手を組んで、東の憂いをなくしておきたいと考えたのです。

 しかしながら、共産主義を毛嫌いしていたはずのヒトラースターリンと組んだことは、世界を驚愕させました。
 それが最も顕著だったのは日本で、それまでノモンハン事件ソ連との紛争が続いており、その対抗策として、日独伊防共協定を日独伊三国協定に発展させようという意見がささやかれていた中、独ソ不可侵条約の知らせを聞いたのです。日本は何も知らされておらず、寝耳に水です。この時、平沼騏一郎が内閣を組織していましたが、「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職する混乱を招きました。

 この後日本は、それまでの親独政策の根拠を失ったことで、外交において完全に迷走してしまうことになります。

 

 一方、ヨーロッパでは1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、その2日後にイギリス・フランスはドイツに宣戦布告しました。遂にヨーロッパの和平は破られ、第二次世界大戦の幕が開いたのです。
ソ連もドイツに遅れること2週間後、ポーランドに侵攻し、予定通り、東側を占領しました。
その後、ナチス・ドイツは西ヨーロッパへと戦線を拡大させ、翌1940年4月にデンマークを占領、続けてノルウェーも制圧、5月に入るとベルギー、オランダ、ルクセンブルクにも兵を進めました。そしてドイツ軍は遂にフランスにも侵攻し、英仏軍をダンケルクに追い詰めて潰走させ、同年6月14日、パリを占領しました。

こうしたヨーロッパが戦火に巻き込まれる中、その混乱に乗じて、スターリンは東ヨーロッパでの領土拡大に乗り出し、1940年6月にバルト三国リトアニアラトビアエストニア)に侵攻、同年8月には三国を併合しました。
どさくさに紛れたスターリンの火事場泥棒です。
スターリン共産主義の包囲網を潜り抜け、他国(小国)の立場を犠牲にして自国の領土拡大をやってのけたのです。

その後、調子に乗ったスターリンフィンランドに攻め込みました。
しかし、フィンランドのマンネルヘイム将軍は世論の強硬姿勢に押され、ソ連を迎え撃つことを決意。ソ連軍はフィンランド軍に惨敗しました。
結果的に領土の少しをかじり取るも、こうした思わぬ反撃にソ連は侵攻を断念しました。
こうしたソ連の火事場泥棒ぶりにイギリス・フランスは激怒しました。
「お前、調子乗りすぎ。いい加減にしろ!」
その罰として、ソ連国際連盟から除名処分を受けることになりました。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
「昭和」を変えた大事件 太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
負けるはずがなかった!大東亜戦争 倉山満=著  アスペクト
教科書よりやさしい世界史              旺文社