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【資本主義VS社会主義】冷戦構造をわかりやすく

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【資本主義VS社会主義】冷戦構造をわかりやすく」というお話です。

冷戦とは、第二次世界大戦後に生じた、アメリカを中心とする資本主義諸国(西側陣営)と、ソ連を中心とする社会主義諸国(東側陣営)との対立構図のことです。
両陣営がイデオロギー的に対立し、競って軍備拡張に走りながら、戦争には至らない状態だったため、冷戦(冷たい戦争)と呼ばれました。
「恐怖の均衡」とも言われるように、米ソ両国が互いに地球を滅亡させられるだけの核兵器保有していたという理由から、全面戦争が回避されていたという逆説的な理屈のうえに保たれるというバランスでした。

ことの発端は1945年2月にソ連クリミア半島にあるヤルタで行われたヤルタ会談でした。
ヤルタ会談にはアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連スターリン書記長の三巨頭が出席し、ドイツへの総攻撃と戦争が終わった後の世界体制をどうするかが話し合われました。
ドイツから解放したポーランドギリシャバルト三国といった国々の政策、そして間もなく降伏するであろうドイツの分割占領について決定されました。これらは当時国の意見など一切反映されず、大国同士のみで決定されたものでした。
(これが国際社会の現実です。)
この時、ルーズベルトは、アメリカは太平洋戦線における対日戦で完全な優勢に立っているが、日本はまだ戦う気力が残っていると予測していました。
そこで、アメリカは対日戦による自国の損害・消耗を避けるため、ソ連に対日戦への参戦を要請しました。

しかし、ソ連は日本と中立条約(日ソ中立条約)を結んでおり、その期間がまだ1年残っています。
そこでルーズベルトは対日参戦への見返りとして40年前の日露戦争で失った南樺太(サハリン)の返還や満州権益の回復、千島列島の領有化を認めました。
これを受けてスターリンはドイツ降伏後の3カ月後、日本に宣戦することを約束しました。(ヤルタ協定
しかし、この協定はソ連が日本との中立条約が継続していることから密約とされ、日本はその情報を知ることは出来ませんでした。

さて、領土を見返りとするこの取り決めは、1943年に発表されたカイロ宣言の中にある帝国主義植民地主義)の克服に反するものでした。
同1943年9月のイタリア降伏を受けて、ルーズベルトチャーチル中国国民党政府主席の蒋介石を加えて同年11月~12月に開かれたカイロ会談では、対日戦の徹底的遂行と日本の領土はく奪が決定されました。
つまり、日本が戦争で奪った台湾・満州を中国に返還し、併合していた朝鮮も独立させることとしたのです。
二度にわたる大戦は各国の植民地野心から引き起こされたものでした。
日本の植民地主義を否定する以上、自分たちもそれを克服するというのが、カイロ宣言の理念でした。
しかし、ヤルタ密約は、対日戦の早期終結を図りたいというアメリカの思惑だけでいとも簡単にこれを反古し、そして冷戦の引き金となったのです。

ヤルタ会談が開かれたあと、1945(昭和20)年4月にソ連軍がベルリンに侵攻し、アメリカ軍と合流すると、ヒトラーは自殺、そして翌5月にドイツは連合軍に降伏しました。

これを受けて、7月から8月にかけてベルリン郊外にあるポツダムで、アメリカ、イギリス、ソ連の3巨頭の会談が開かれました。
アメリカは、ルーズベルトの死去後に大統領を引き継いだトルーマン、イギリスは会談の途中で国内総選挙に大敗したチャーチルに代わってアトリーが、そしてソ連スターリン書記長の3首脳による会談が行われ、ドイツの賠償問題やヤルタ協定後にこじれたポーランド問題について話し合われました。

この会談では、対日戦における取り決めはされなかったものの、トルーマン、アトリー、そして蒋介石が加えられた連名で無条件降伏を求めるポツダム宣言が出されました。この時点でソ連の名は伏せられていました。
アメリカは日本を降伏させるために本土上陸なども検討しましたが、犠牲が多くなることを恐れ、ヤルタ会談から引き続き、ソ連に参戦を求めていました。
7月17日、スターリントルーマンに対して参戦の意向を伝えてきました。
しかし、その翌日、16日に行われた原爆実験が成功したという報告を受けたトルーマンソ連の助けを求めずに日本を降伏させる方針に転換します。
戦後の国際社会における主導権争いを見すえたとき、ソ連に借りをつくるのは得策ではないと考えたからです。
ポツダム宣言の中には、領土不拡大の条項も含まれており、アメリカはヤルタ密約でのソ連への見返りを黙殺するつもりでいたのです。
そのためには日本占領における主導権は何としてもアメリカが握らなくてはいけません。そのためにアメリカは8月6日の広島、続く8月9日の長崎へ原爆を落としたのです。
これを見たソ連は広島への原爆投下からわずか2日後の8月8日に、日本に宣戦布告して満州に侵入してきました。
ソ連は、アメリカの一人勝ちで日本の権益をゴッソリ持って行かれることに危機感と焦りを感じました。

したがって、8月14日、日本がポツダム宣言を受諾しますが、ソ連は侵攻を止めませんでした。ソ連は何とか分け前にありつくために、8月28日~9月3日にかけて千島列島の択捉島色丹島国後島歯舞群島に侵攻し、占領しました。(東京湾ミズーリ号で降伏文書に調印されたのは9月2日です。)
島民は故郷である島を追われました。こうしたソ連の行為が北方領土問題として、現在に大きな課題を残しているのです。

こうして第二次世界大戦が幕を閉じたわけですが、同時にアメリカとソ連の対立は深まり、冷戦構造が誕生したのでした。

西側陣営(資本主義) 東側陣営(社会主義)
政治 トルーマン・ドクトリン   (対ソ連封じ込め政策) コミンフォルム   (共産党情報局)
経済 マーシャル・プラン    (ヨーロッパ経済復興援助計画) コメコン      (東欧経済相互援助会議)
軍事 NATO(北大西洋条約機構) ワルシャワ条約機構

原子爆弾の威力で戦争を終結させたアメリカは、その圧倒的な国力を背景に、イギリスに代わって世界の指導・管理に乗り出しました。
一方、ソ連は占領した東欧諸国に共産主義政権を樹立させ、衛星国化していきました。
ソ連バルト海のシュテッティンからアドリア海トリエステを結ぶラインで交流を断っており、チャーチル元首相は1946年にアメリカのウェストミンスター大学で行った演説で、その閉鎖性を「鉄のカーテン」として批判しました。
これに対してアメリカはトルーマン大統領が1947年にソ連「封じ込め」政策の必要をとなえました。(トルーマン=ドクトリン)ついで1947年にアメリ国務長官マーシャルの提案に基づいてマーシャル=プランに基づいて2度の世界大戦に疲弊した西欧諸国の復興を援助することで取り込むことで、ヨーロッパにおける共産主義勢力との対決姿勢を鮮明にしました。(マーシャル=プランは当初、全ヨーロッパの復興援助計画であったが、ソ連をはじめ東欧諸国はこれを拒否しました。)
こうして政治・経済・軍事のあらゆる面で冷戦構造が形成されていったのでした。

以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
朝日おとなの学びなおし! 昭和時代 保阪正康=著 朝日新聞出版
昭和史を読む50のポイント  保阪正康=著   PHP
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
教科書よりやさしい日本史  石川晶康=著   旺文社