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【第二次世界大戦】なぜ世界は2つの勢力に分かれたのか(改訂版)

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【第二次世界大戦】なぜ世界は2つの勢力に分かれたのか」というお話です。

 第二次世界大戦の対立構造とは、簡単にいうと「持てる国」と「持たざる国」の対立であるとされます。
 「持てる国」とは、世界各地に植民地を持つ国または広大な国土を持つ国のことを言います。これが後に連合国陣営(イギリス、フランス、アメリカ、ソビエト連、中国)を形成します。
 一方、「持たざる国」とは、世界各地に植民地を持たない国のことを言い、これが後に枢軸国陣営(イタリア、ドイツ、日本)を形成します。

 ということで今回は、そんな第二次世界大戦の対立構造はどのようにして形成されていったのかについて見ていくことにしましょう。

 本題に入る前に、外交や安全保障における「ある法則」をご紹介してから。それは、「敵の敵は味方になる」という法則です。
 例えば、お互いに不仲で緊張状態にあるA国、B国、C国があったとします。
 ある日、A国はB国に侵攻しました。A国の侵攻を受けたB国は当然、A国に宣戦布告します。さらにA国はC国にも侵攻しました。C国もやはりA国に宣戦布告します。
 B国にとっての最大の敵A国は、C国にとっての最大の敵でもあります。すると、B国とC国はA国という共通の敵を倒すため必然的に手を組むようになるのです。
 これが「敵の敵は味方になる」という法則です。
この知識を踏まえたうえで、本題に入りたいと思います。

世界恐慌に対し、植民地を持つ「持てる国」はブロック経済で対応。その一方で、植民地を持たない「持たざる国」は、個人の生活を統制し、国益を優先しようとする全体主義ファシズム)に傾いていくのでした・・・・。

 20世紀初頭(1910年代)、世界に多くの植民地を持っていたのはイギリスとフランスでした。
 特にイギリスは世界の総面積の約4分の1を植民地としており、世界人口の5分の1の4億人を支配下に置く超帝国主義国家でした。

 一方、ドイツやイタリア、そして日本は後発の帝国主義国だったこともあり、イギリスやフランスのような広大な植民地を保有しえませんでした。

 しかし、同じ後発の帝国主義国家でもアメリカのように、豊富な資源を有する広大な国土を持つ国もありました。アメリカはさらに米墨戦争で、石油が採掘できる旧メキシコ領のテキサスなども併合するなどして、よりいっそう資源に困らない強国へと成長していきました。
米墨戦争・・・1846年~1848年までに起きたアメリカとメキシコの戦争)

 さらに、ロシア革命で成立したソ連も、指導者レーニンの死後、スターリンが実権を握り、五ヵ年計画による重工業と農業の大躍進を推し進めました。

 

 1914年に勃発した第一次世界大戦(第二次じゃないですよ。注意してください。)は、ヨーロッパの荒廃とともに、膨大な犠牲者を出してしまいました。近代兵器を駆使し、すべての国民を巻き込む国家総力戦に、滅亡の淵をみた人類は、これまでの帝国主義に基づく海外進出を反省し、一転して平和協調の時代へと移っていきました。

「二度とこんな過ちは起こしてはならない。」

 そんな願いを込めて、1920年にイギリス、フランス、イタリア、日本を常任理事国とした国際連盟が発足、1926年にはドイツも加盟し、ヨーロッパの国際秩序が完成しました。(ヴェルサイユ体制)
 以降、軍縮条約が次々に締結されていき、世界規模での和平プランが完成していきました。(ワシントン体制)

 しかし、そんな秩序は脆くも崩壊し、人類は2度目の世界大戦を経験することになるのでした。

 そのきっかけとなったのは、世界恐慌です。

 1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落。世界経済の中心であるアメリカで発生したこの恐慌を発端とした大不況は世界に波及し、各国はその対応に迫られました。

 イギリスやアメリカなどの「持てる国」は保護貿易ブロック経済)を開始しました。
 ブロック経済とは、他国からの輸入品に高い関税をかけることで、国内への流入を防ぎ、本国と植民地との間だけの経済圏(ポンド・ブロックやドル・ブロック)をつくり、経済の回復を図る政策のことです。
 しかし、そんなブロック経済は「持てる国」しかできない政策で、ドイツやイタリア、日本などの「持たざる国」は苦境に陥りました。

 それでも、輸出大国であった日本は円安を利用して輸出を増大させ、景気をV字回復させました。
 しかし、輸出大国である日本にとって、イギリスやアメリカは大事な貿易相手国です。そんな英米ブロック経済という事実上の輸入制限を行ったのですから、日本が世界経済から閉め出されてしまうのは当然です。
 この状況を打開するには、日本も円ブロック(経済圏)をつくるしかありません。そのためには台湾、朝鮮だけでは足りず、豊富な資源と多くの人口を抱える中国大陸にも進出する必要がありました。
 そこで日本は1931年9月に満州事変を起こし、翌1932年3月には満州国を建国するも、国際連盟に認められず、翌1933年に国際連盟を脱退しました。

 国際連盟は、通称「ヨーロッパの揉め事処理機関」ともいわれていますが、常任理事国だったイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・日本のうち、唯一中立的にまとめられる日本が脱退したことで、揉め事の当事者同士が残る結果となり、以後、ヨーロッパの平和秩序はあっという間に崩壊していくのでした。

 イタリアでは、すでに政権をにぎっていたファシスタ党のムッソリーニが経済政策の失敗を取り戻すために、リビアエチオピアへの侵攻に踏み切りました。
 エチオピアは独立国ですが、資源はもちろん、人口も多く、マーケットとしては喉から手が出るほど欲しい国です。
 しかし、エチオピアの周辺にはイギリス、フランス、イタリアの植民地がひしめき合い、3国はエチオピア侵攻を互いに牽制し合う関係でした。
そんな中、イタリアだけが「抜け駆け」的にエチオピアに侵攻したため、イギリスとフランスは大激怒。
 「敵の敵は味方になる」という法則から、イギリスとフランスは、イタリアという共通の敵を倒すべく手を組むようになりました。

 ドイツでは1932(昭和7)年に台頭したヒトラー率いるナチス党(国家主義ドイツ労働者党)が第一党となり、実権を握ります。
 ヒトラーの目的はヴェルサイユ体制の打破と再軍備政策でした。
 ヴェルサイユ体制は報復的な性格が強く、敗戦国のドイツは超高額の賠償に苦しみ、世界恐慌も重なったことで、大きな重圧となりました。この時、国民の不安や怒りを利用して勢力を拡大したのがヒトラーだったのです。
 ヒトラーヴェルサイユ体制を打破するべく1933(昭和8)に日本の後を追うように国際連盟を脱退、1935(昭和10)年3月には国防軍編成法を発布して再軍備に踏み切りました。
 こうした大拡張政策によってドイツはあっとう間に世界恐慌から脱出しました。
 以後、ナチス・ドイツは、海外の植民地獲得ではなく、ゲルマン民族統一国家樹立にこだわり、ヨーロッパでの勢力拡大に乗り出していくのでした。

 イギリス・フランスから非難を受けたムッソリーニは仲間が欲しくなり、やがてドイツに接近するようになりました。
 当初、ヒトラームッソリーニオーストリア併合問題などにより、どちらかといえば対立的関係にありました。
 そんなイタリアとドイツが手を組むきっかけとなったのはスペイン内戦です。 1936(昭和11)年2月、スペインで反ファシズムを掲げる人民戦線内閣が成立したのに対し、フランコ将軍に指揮されたファシズムを掲げる軍人たちが暴動を起こし、反乱はスペイン全土に広がりました。
 ヒトラームッソリーニはこの機に乗じてスペイン全土を手中に収めたいと考えるようになりました。
 ヒトラーはスペインの鉄鉱石など地下資源を手に入れたいと考え、ムッソリーニはスペインから地中海の覇権を奪い、「イタリアの海」にしたいと夢見ていました。
 そんなヒトラームッソリーニの野望を邪魔するかのように現れたのが、反ファシズムを掲げる共産主義勢力のソビエト連邦(以下、ソ連)でした。ソ連社会主義国家であったため、世界恐慌の影響を受けず、急速にその国力を増大させていました。
 現代では、このスペイン内戦は第二次世界大戦のリハーサルだったともいわれており、反ファシズム勢力のソ連がスペインの人民戦線内閣(政府側)を支援し、ヒトラームッソリーニファシズム勢力であるフランコ将軍を支援するカタチとなりました。
 こうして「敵の敵は味方になる」という法則から、ドイツとイタリアはソ連という共通の敵を倒すべく互いに手を組むようになりました。
 なお、イギリス・フランスはスペイン内戦に対しては、不干渉政策をとっています。先の世界大戦でドイツの脅威を経験しているからです。

 こうして1936(昭和11)年11月10日、ドイツとイタリアは友好協定を結びました。ファシズム勢力の完成です。
 ムッソリーニはこの独伊関係を称えて「枢軸」という言葉を初めて口にしました。

 また、ソ連とはヨーロッパからアジアにまたがる超大国であり、ファシズム勢力はそんなソ連をアジア方面から牽制してくれる日本と手を組みたいと考えるようになりました。こうして1936年11月にドイツと日本による日独防共協定が結ばれ、翌1937年11月にはイタリアも加わり、日独伊三国防共協定が結ばれました。(同年、イタリアも国際連盟を脱退しました。)

 一方、満州国を建国した日本ですが、意外にも資源が取れず、中国大陸へさらなる領土拡大を狙っていました。
 そうした中、1937年7月7日に起きた盧溝橋事件を機に日本と中国は全面戦争に突入することになりました。
 こうした日本の中国進出に対し、イギリスは敵対心を強めます。
 イギリスは日本よりもずっと前から中国を巨大市場として開拓しており、それが日本の侵攻によって損なわれていることに反発していたのです。
 日本とイギリスは決定的に対立しました。
 イギリスは中国政府に物資を支援し、蒋介石率いる中国政府も国際世論を味方につけるべく、国際社会の同情を集めることに奔走し、イギリスをはじめ世界各国からの支援を得ることに成功しました。
 その中にはアメリカも含まれていました。
 中国進出に出遅れていたアメリカは中国に対する門戸開放・機会均等を唱えて中国市場の獲得をひたすら主張していました。中国への門戸開放・機会均等に関しては九ヵ国条約によって取り決めがされており、満州事変に続く日本の権益獲得や、日中戦争による日本の勢力拡大は九ヵ国条約違反として日本を強く非難するようになったのです。
 日本を敵視するようになったアメリカは、やがて石油などの対日輸出の制限を始めました。
 こうして「敵の敵は味方になる」という法則から、それまで犬猿の仲であったイギリスとアメリカは日本という共通の敵を倒すべく手を組むようになりました。

 その頃、ヨーロッパでは、ナチス・ドイツが、隣国オーストリアの併合を済ませ、さらに1938年にチェコスロバキアゲルマン民族が多く住むズデーテン地方割譲を求めました。
 これを解決するべく1938年9月に開かれたミュンヘン会談では、英首相のチェンバレンヒトラーに対し、「これが最後の領土要求とせよ。これ以上の領土拡大は認めない。」という約束をしたうえで、ドイツのスデーデン併合を認めました。
 しかし、ヒトラーは舌の根も乾かぬうちにその約束を破り、翌1939年3月、プラハに進駐し、チェコスロバキアの軍事占領を完了させてしまいました。
 これに怒ったイギリス・フランスは、それまでの譲歩の姿勢から、強硬姿勢に出るようになりました。それはポーランドに対するイギリスの保証でした。それは「もし、ドイツがポーランドに侵攻したら、英仏はドイツに宣戦布告することを約束する」というものでした。

 そして、1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻したことで、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が勃発したのでした。
 しかし、ドイツの侵攻はすさまじく、翌1940年4月にはデンマークを占領し、ノルウェーも制圧、5月に入るとベルギー、オランダ、ルクセンブルクにも兵を進めました。そして6月にはパリが陥落したことでフランスが降伏、ヨーロッパでドイツに対抗できるのは、イギリスのみとなりました。

 ヨーロッパでの破竹の勢いを続けるドイツを目の当たりにした日本はドイツとの関係をさらに深めたいと考えました。それは日独伊三国同盟と呼ばれ、ソ連に対抗するべく締結した防共協定をアメリカやイギリスにも拡大しようとする軍事同盟です。

「いずれこの大戦はドイツの勝利に終わる。バスに乗り遅れるな!」

 こうして1940年9月7日、日独伊三国同盟が結ばれました。その内容は、3国のうちの1か国が英・米・ソのいずれかと開戦した場合、他の2か国も参戦するというものでした。

 この同盟にアメリカ・イギリスは大激怒しました。
 アメリカのルーズベルト大統領は、日独伊がめざす世界新秩序は「全人類を支配し奴隷化するための権力と金力との邪悪な同盟」だとラジオで呼びかけ、悪の枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)に対し、正義の連合国軍(アメリカ・イギリス・フランス)としてやさしく図式化し、国民に訴えました。

 そして1941年6月、ドイツはそれまで警戒していたソ連にも侵攻しました。これを受けてソ連ナチス・ドイツを倒すべく連合国側に参戦しました。

 そして同1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃によって日米開戦が勃発。ドイツは三国同盟に則ってアメリカに対しても宣戦布告。これによってアジアとヨーロッパの戦争がひとつになり、中国も連合国側として参戦するようになりました。

 以上、第二次世界大戦の対立構造である枢軸国陣営(日本・ドイツ・イタリア)と、連合国陣営(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国)が完成しました。

 このように悪の枢軸国として仕立て上げられてしまったドイツ・イタリア・日本ですが、それは「持たざる国」であるがゆえに、経済から閉め出されてしまったという経緯があったのです。それは遅れてきた資本主義国の宿命だったのかもしれません。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。

参考文献
「昭和」を変えた大事件              太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
今さら聞けない日本の戦争の歴史         中村達彦=著      アルファポリス
教科書には載ってない 大日本帝国の真実     武田知弘=著      彩図社
知識ゼロからの太平洋戦争 入門         半藤一利=著      幻冬舎
ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著       祥伝社
教科書よりやさしい世界史                        旺文社