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【タワラ・マキン島陥落】連合国軍の反攻、始まる(後編)

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【タワラ・マキン島陥落】連合国軍の反攻、始まる(後編)」というお話です。

 第二次世界大戦の形勢は、1943年を転機にアメリカ、イギリス、ソ連の連合国側の有利に傾きつつありました。
 今回も、1943年の第二次世界大戦の情勢を見ていきながら、マキン・タワラ島の陥落についてご紹介します。

 1941(昭和16)年12月に開戦した日本とアメリカを中心とした連合国軍による大東亜戦争は、開戦当初は日本が優勢でした。しかし、そんな大東亜戦争は1943(昭和18)年を転機として徐々にアメリカ側の有利に傾き始めていきます。

 その先駆けとなったのが、アリューシャン列島のアッツ島キスカ島の米軍上陸でした。アッツ島の日本守備隊は全滅し、キスカ島も失陥してしまいました。これを受けて大本営は絶対国防圏を策定し、「戦線を縮小して兵力を集中すること」、「防御に徹して、その間に戦力を整備し、反撃に移る」

 ヨーロッパ戦線においても形勢は連合国軍の有利に傾いていきました。
 1943年7月、連合国軍は約48万の大軍勢を率いてイタリアのシチリア島に上陸し、イタリア本土へと進軍を開始しました。
 イタリア国内でもファシスタ党に対するクーデターが起きており、同月25日、ファシスタ党が解散、ムッソリーニも逮捕されました。新政府が誕生したイタリアは連合国軍と秘密裏で交渉し、同1943年9月8日、イタリアは降伏しました。
 これを知ったドイツ軍は直ちにローマに進軍し、9月12日、ムッソリーニを救出。ドイツは傀儡政権としてムッソリーニに新政権(サロ共和国)を樹立させ、連合国軍への抗戦に備えた。

 東部戦線では同1943(昭和18)年7月にドイツ軍がソ連南部に位置するクルスクを攻撃し、一大会戦が発生(クルスクの戦い)。しかし、ソ連は十分な兵力を整えて大反攻に転じ、占領されていた領土を奪い返していきました。
 大西洋では大量の護衛艦艇がUボードを次々に駆逐していき、イギリス・アメリカの爆撃機がドイツを中心に枢軸国陣営各地の軍事施設や都市を昼夜問わず空襲しました。

 このように第二次世界大戦の形勢は、1943年を転機にアメリカ、イギリス、ソ連の連合国側の有利に傾きつつありました。

 そんな連合国陣営は1943(昭和18)年11月22日、エジプトのカイロにおいて首脳会談を開催しました(カイロ会談)。これは同年1月にモロッコカサブランカで開かれた米大統領ルーズベルトと英首相チャーチルによる首脳会談に続き、2回目で今回は中国の蒋介石も加わっています。
 この会談でも、日本やドイツに対してはやはり無条件降伏以外は認めないことを再度宣言し、日本がこれまで獲得した満州、朝鮮、台湾、南洋諸島などの植民地を全て没収し、相手国へ返還させるというカイロ宣言が発表されました。
続いて同11月28日にはイランのテヘランで開かれた会談ではソ連スターリンも書記長として加わり、連合国軍の今後の基本的方針が固められていきました。
こうした連合国陣営の発表に対し、日本の首相・東条英機は世界に向けた声明の中で、「カイロ宣言は暴挙であり、まったくの夢物語だ」として批判しました。
さらに、連合国軍のこうした動きに対抗するように、日本も東京において大東亜会議を開きました。この会議では日本、満州国中華民国汪兆銘政権)、タイ、フィリピン、ビルマ、自由インドなどの代表者が一同に集まり、アジア諸民族が一致団結して欧米の支配に対抗することが約束されました。

日本で大東亜会議が開かれた直後の1943年11月13日、米軍はギルバード諸島への航空攻撃を開始しました。
アッツ島などの北太平洋地域に続き、米軍はギルバード諸島やマーシャル諸島などの中部太平洋地域でも反攻を開始したのです。米軍の猛反撃が始まったのです。
ギルバード諸島やマーシャル諸島は大正時代から日本が領有していた島ですが、先述の絶対国防圏の範囲の外に置かれており、補給が絶対的に不足し、結局は玉砕戦が繰り広げられる結果となりました。

同11月20日、8000人の米海兵隊はタラワ島へ上陸しました。
これを迎え撃つのは堅固な陣地を築いた日本軍のタワラ守備隊5000人弱。
米軍は激しい空襲と艦砲射撃を行ってから、上陸を試みます。
午前9時、日本軍が怯んだと判断した米軍海兵隊は上陸第一波の水陸両用戦闘車両で環礁の内海に侵入し、上陸を果たそうとしました。
しかし、沈黙させたはずの日本の海岸砲から猛烈な射撃を受けた米軍は大混乱に陥り、大きな損害を受けました。
日米両軍は海岸線にて一進一退の攻防を続けたが、米軍の戦力は凄まじく、増援部隊が次々に海岸線に上陸。日本軍も激しく攻撃を加えるも、司令部が砲弾の直撃を受けて全滅し、タワラ守備隊を指揮する柴崎恵次(しばさきけいじ)海軍少将が戦死する事態が発生。
司令塔を失ったタワラ守備隊は組織的な抵抗が出来なくなり、各陣地にて各自攻撃をし続けるしかありませんでした。
しかし、米軍の猛攻になす術もなく、守備隊は次々に玉砕していきました。
そして11月22日夜、最後まで抵抗を続けていた日本陣地が陥落し、タワラ島は陥落しました。4690人が戦死し、日本守備隊は、ほぼ全滅した。
一方で、米軍に与えた損害も大きく、水際撃退が可能という幻想を日本軍に抱かせ、サイパン戦まで同じ戦術を続けさせる要因にもなりました。

タワラが米軍の猛攻を受けていた同じ11月21日、同じくギルバード諸島に属するマキン島にも6500人の米海兵隊が上陸しました。日本の守備隊700名が迎え撃つも、その日の内に大半の陣地が破壊され、700名は24日までにほぼ全滅した。

米軍はギルバード諸島のタワラ・マキン島に続き、マーシャル諸島にも攻撃を仕掛けました。
翌1944年(昭和19)年2月1日、米軍はマーシャル諸島のクェゼリン島への上陸作戦を敢行。ここは世界最大の環礁があるため、大艦隊の停泊地としては最適の島でした。さらに今後、マリアナ諸島侵攻のための前線基地にしようという意図もありました。
米軍は上陸にあたり、またしても徹底的な空爆と艦砲射撃を加え、さらにタワラ島などからも多数の米航空機が参加し、空爆を行いました。
一方、日本軍は約4100名の守備隊のほかに約1000名の陸軍もおり、激しい抵抗を見せました。しかし、米軍は新兵器の火炎放射器を投入して、次々に守備隊を撃破。
日本軍も5日間にわたって抵抗するも、同月6日、遂に玉砕した。

同じくマーシャル諸島のブラウン環礁でも日本軍は米軍の猛攻を受ける。日本軍はここにも3500人ほどの守備隊を配していたが、2月19日から始まった米軍の上陸になす術なく、玉砕している。

次に米軍が狙うのは連合艦隊の前線基地であるトラック島と予想された。しかし、トラック島には空母が1隻もない状態で、迎撃は不可能と判断した日本軍は、連合艦隊主力を後方のパラオへと移した。
その直後の2月17日、トラックは米軍の激しい空襲を受けました。トラック島にあった航空機約300機が破壊され、補給も断たれたトラックは孤立しました。
しかし、米軍はそれ以上攻撃をせず、上陸もしませんでした。孤立したトラック島は放っておけば自滅していくだけと見た米軍は、次の島を攻略するという「蛙飛び作戦」を実行したのです。結局、トラック島は終戦に至るまで飢餓と戦いながらの日々が続くことになるのでした・・・。

そして同1944(昭和19)年3月30日から31日の2日間にわかって今度はパラオが大空襲を受ける。これを受けて山本長官の後を襲っていた連合艦隊司令長官・古賀峰一大将は31日、ミンダナオ島のダバオへ移動することを決意し、大型飛行機に乗り込んでパラオを出発した。
しかし、その途中で悪天候に見舞われ消息を絶ってしまう。
太平洋戦争の第二段作戦として約13万人の人員と約70隻の艦艇、約8000機の航空機を投入した南東方面作戦はこうして終わりを告げた。


つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
知識ゼロからの入門 太平洋戦争 半藤一利=著  幻冬舎
太平洋戦争「必敗」の法則     太平洋戦争研究会=著  世界文化社
日本の戦争 解剖図艦 拳骨拓史=著  X-knowledge