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【ガダルカナル攻防戦4】なぜ3度の撤退作戦は成功したのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【ガダルカナル攻防戦4】なぜ3度の撤退作戦は成功したのか」というお話です。

 前回に引き続き、ガダルカナル攻防戦の4回目をお伝えします。
 結果的に日本はガダルカナル島を失陥してしまうわけですが、素晴らしかったのは、その後、3度に及ぶ救出作戦をいずれも成功させている点です。
今回はそれについて見ていこうと思います。

 1942(昭和17)年の8月に米軍がガダルカナルに上陸して以来、日本軍はその奪還のために陸・海・空の3面において攻撃を仕掛けました。
しかし、最大の目的であるヘンダーソン飛行場の奪還は成しえませんでした。
 ガ島の制空権は完全にアメリカにあり、兵を送り込む輸送船団は軒並み撃沈され、あるいは輸送に成功しても、弾薬や食糧の増援が出来ないため、結局、白兵突撃につながるという悪循環に陥っていました。
 こんな消耗戦を続けていれば、今後の戦線にも支障が出るということで、1942(昭和17)年12月に入ると、大本営でもガダルカナル島の奪還を断念する声がささやかれるようになりました。そして、12月31日の大本営御前会議によって、ガダルカナル島の奪還を断念し、全部隊を撤収させることが正式に決定され、翌1943(昭和18)年1月4日付けで命令が発せられ、撤収作戦は同1月下旬から実施されることになった。

「これより、ガダルカナル島に滞陣する将兵を全軍撤退させる。しかし、その意図を米軍に覚られてはならない。そのため、我が軍は新たな部隊の増援と近く大攻勢をかける意図を示さなくてならない。そのスキに撤退作戦を成功させる。」

 しかし、それは後方での決定事項で、現地の兵にとってはまだまだ過酷な戦いが続いていました。まったく、いかにも官僚らしい大本営の対応の遅さに、現地の兵士たちは次々に倒れていきました。

 1943(昭和18)年1月の時点で、ガ島にはおよそ1万5000人の陸海軍の将兵が残留していました。
1人も欠けることなく撤収させるために、海軍では駆逐艦による高速輸送が計画されました。駆逐艦で深夜にガダルカナル島に接近し、将兵を乗せてから高速を利して敵航空機圏内から離脱するという作戦です。
 先述通り、この撤退作戦で重要なのは、敵に撤退行為を知られてはならないということです。
 ガ島を占領するアメリカ軍は、補給を断たれた3万人の日本兵を殲滅するようなことはせず、このまま自滅していくと見て、総攻撃を仕掛けることはしませんでした。下手に手を出して、思わぬ被害を受けることを危惧したからです。
 しかし、そんな3万の日本軍が撤退しているのなら話は別です。撤退した兵士たちが態勢を立て直して反撃してきたら大変です。
 もし、撤退作戦をアメリカ軍に察知されれば、必ず総攻撃を仕掛けてくる。そうなったら、さらに被害が拡大してしまいます。
 いわゆる「敵に背を向けて逃げてはいけない」というやつです。
 これは武士道にもあることで、敵が一番襲いやすいのは、正面ではなく、背後です。

 1月に入ってから、アメリカ軍は陣地を広げるべく、日本軍に攻勢を仕掛けてきました。しかし、将兵たちは絶食で身動きが取れず、応戦することが出来ず、日本軍の陣地はひとつひとつ陥落していく。このままでは全滅は免れない。
大本営は我々を見捨てたのか。」
 島に残る日本兵の誰もがそう思ったとき、ようやく撤収作戦の報が現地にもたらされました。1月14日のことでした。
 これを連絡したのは大本営から派遣された井本参謀率いる第8方面軍であり、ガダルカナルに上陸した。この上陸を支援していたのは矢野桂二少将率いる大隊でした。
 健常な矢野大隊が敵の真正面に立ち、しんがりを努める。その間に餓えで疲れ切った兵士達を救出しようというのだ。
1月20日、ガ島の日本兵たちは各隊ごとにエスペランス岬に向かいました。ここで救出部隊と落ち合うのです。救出の順番は最後に上陸した第38旅団、次に第2師団、そして残りの兵士達ということになり、合計3回に分けての撤退作戦が行われることになりました。
 しかし、どの師団にも、もはや歩く力も残っていない兵士もかなりいた。そのような兵士に対しては以下のような軍命令が下されました。
「独歩できない者は、武士道の見地より、非常措置を施すように」
 つまり、歩けない兵士は手榴弾等で自決せよというのです。全軍撤退作戦は実際のところ、自力で歩くことの出来る兵だけに限られてしまったのです。

1月31日、ショートランド島より20隻の駆逐艦が出港し、全速力でガ島に向かった。
それに伴い、トラック島の基地から近藤信竹中将率いる艦隊が南下を開始、それは戦艦2隻、重巡4隻、軽巡3隻、駆逐艦9隻という大艦隊でしたが、彼らは撤退作戦を支援するべく、アメリカ軍に行動を察知させ、注意をそらす囮となる部隊でした。

矢野大隊もアメリカ軍の攻勢に猛烈に対抗し、1月31日まで戦い続けた結果、どうにかアメリカ軍の攻勢を弱めることに成功しました。
翌2月1日、20隻の第一次撤収艦隊はガ島に向かう途中、アメリカの策敵機に引っ掛かり、ヘンダーソン飛行場から飛び立った約30機の米軍爆撃機の攻撃を受けました。これによって駆逐艦1隻を失う事態となりました。しかし、残り19隻は構わずガ島を目指します。
そして同日午後9時にはエスペランス岬に到達する出来、陸軍兵士5164名、海軍兵士250名を無事乗艦させ、午後1158分にはガ島を出港しました。

第二次撤収艦隊は2月4日に実施されました。こちらも駆逐艦20隻でしたが途中、米軍機に空襲を受け1隻が撃沈。しかし19隻は無事にエスペランス岬に到着。陸軍兵士4458名、海軍兵士519名を乗艦させ、ガ島を出港しました。

そして、最後の撤収艦隊は2月7日に実施されました。米軍の警戒網が厳重になっているかと思いきや、意外にも航行途中で空襲されることはありませんでした。こうして同日午後8時にエスペランス岬に到着した最後の撤収艦隊は陸軍兵士2576名、海軍兵士53名を乗艦させ、エスペランス岬を後にしました。
とうとうアメリカ軍は最後まで日本の撤収作戦に気づかなかったのです。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
ガダルカナル 西村誠=著 光人社