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【レイテ沖海戦】なぜ連合艦隊は壊滅したのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【レイテ沖海戦】なぜ連合艦隊は壊滅したのか」というお話です。

 レイテ沖海戦といえば、太平洋戦争の決戦と呼ばれています。今回もストーリーを展開していきながら、レイテ沖海戦の経過や、連合艦隊はなぜ潰滅したのかについても見ていきたいと思います。

夜間、高高度からの戦果確認は高い技量と経験が必要になります。台湾沖航空戦では搭乗員が未熟だったため、大誤報の大戦果を報告してしまいました。これに踊らされた陸軍は急遽、レイテ島で決戦に挑むことを断行。そんな陸軍を支援するべく海軍もレイテ沖で米軍の上陸を阻止するのでした。

 1944(昭和19)年7月18日、サイパン島が玉砕しました。これによって日本本土がアメリカ大型爆撃機B29の空襲圏内に入ったことで、事の重大性に気づいた重臣グループが東条英機内閣を総辞職に追い込みました。
 そして東条に代わって、新たに首相になった陸軍大将の小磯国昭は「比島(フィリピン)は大東亜戦争の天王山」と述べました。
 つまり、次の主戦場はフィリピンになるのではないかと予想がされたのです。それに伴い、同月、陸海軍は力を合わせてアメリカ軍の反攻に対抗する捷号作戦を計画しました。
 「捷号作戦」とは日本とその周辺をいくつかの区画に分け、敵がその作戦区域に侵攻してきたところを、陸海軍の総力をあげて叩く決戦計画です。それは4つの作戦に分かれており、捷一号作戦はフィリピン、二号作戦は台湾・沖縄。三号作戦を本土。四号作戦は北海道で展開を予定しました。

 1944(昭和19)年10月10日、アメリカのハルゼー中将率いる第38任務部隊が、空母艦載機によって沖縄や台湾の空襲を行いました。これはマッカーサー軍のフィリピン攻略を支援するためのもので、世に言う台湾沖航空戦です。
 これを受けた海軍の連合艦隊司令部は敵空母撃滅の好機ととらえて、海軍航空隊を出撃させ、台湾沖で行動していた米機動部隊を攻撃するよう命じました。

 海軍航空隊は1944(昭和19)年10月12日から15日にかけて九州南部や沖縄、フィリピン・ルソン島などから延べ650機が出撃し、第38機動部隊に昼夜にわたって総攻撃を開始しました。
戦場で戦う搭乗員からはその戦果報告が続々と送られてきました。
「撃沈、敵航空母艦11、戦艦2他。撃破、航空母艦8隻、戦艦2隻他。航空機撃墜112機」
 これはアメリカ機動部隊全滅に匹敵する数字で、連合艦隊司令部は狂喜しました。
 しかし、翌16日、連合艦隊司令部は戦果を再検討したところ、先の大戦果は過大であり、敵航空母艦を5~6隻は撃破出来たものの、撃沈した敵艦は1隻もありませんでした。
 これは戦果確認にあたった搭乗員の未熟さゆえのもので、日本機動軍機による火柱や至近弾による水柱を敵艦撃沈と判定するなど誤認が相次いだためです。攻撃が簿墓から夜間に行われたのも誤認の原因となりました。
一方、日本側の損害は甚大で、出撃した650機のうち未帰還機312機、帰還したうち300機が飛行不能となるなど、後のフィリピン決戦で使うべき航空機を大量に消耗してしまいました。
「捷号作戦」の基本構想であった「航空決戦」はここに崩壊してしまったのです。

しかし、連合艦隊はこれを隠蔽した。そして何よりも戦果が欲しかった連合艦隊司令部では、搭乗員の「幻の大戦果」をそのまま大本営海軍部に伝え、それは大本営発表として国民に報道されました。
久々の大戦果に国民は熱狂しました。そして連合艦隊天皇陛下から嘉賞の勅語を賜りました。
後々になって、海軍は先の戦果は誤報であることに気づくも、国民が士気を落とし、海軍から離れていくのを恐れ、海軍はあえて戦果の訂正を行いませんでした。
それに天皇からも勅語を賜っている。今さら戦果は誤認だったなど言おうものなら、海軍の権威は失墜してしまいます。

10月17日、荒れ狂う嵐に紛れて、ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ軍約6万人がフィリピン沖にその姿を現し、翌18日にはレイテ湾に突入しました。
これに対し、「幻の大戦果」を鵜呑みにしていた陸軍は、急遽、ルソン島に主力部隊を温存する方針を転換して、レイテ島での一大決戦を挑むことを断行しました。日本軍は「捷一号作戦」の発令です。
しかし、これが「フィリピン防衛戦」という長く悲惨な戦いになるのでした・・・・・。
海軍は、国民はおろか陸軍にさえ戦果の訂正を行いませんでした。結局、日本海軍は最後まで国益よりも、戦争に勝つことよりも、省益を優先したのです。

戦艦「武蔵」が撃沈されたシブヤン海海戦(24日)、「大和」の主砲が火を噴いたサマール島沖海戦(25日)、西村艦隊が全滅したスリガオ海峡海戦(24日~25日)、囮となった小沢艦隊が奮闘したエンガノ岬沖海戦(25日)などがあり、この一連の海戦をレイテ沖海戦と言います。

 陸軍のレイテ決戦を海上から支援するべく海軍は米軍のレイテ上陸を阻止する作戦を立案しました。
 海軍の立てた作戦は、すでに航空機をほとんど失っている小沢治三郎(おざわちさぶろう)率いる空母機動部隊が囮(おとり)となって米機動部隊をフィリピン北方に引き付け、その間に戦艦を中心とする遊撃部隊がレイテ湾に突入して、敵の上陸作戦を阻止しようというものです。

 レイテ沖海戦では残っていた空母は米機動部隊を北方に誘い出す囮として、生き残った艦がレイテ湾のという算段である。
 レイテ湾に突入する部隊は、それまで出番のなかった戦艦や重巡を3つの艦隊にわけ、それぞれがレイテ湾を目指し、米輸送船団と地上部隊を砲撃する戦法となりました。兵力を分散させることで敵を攪乱しようということです。
 1944(昭和19)年10月22日、栗田武男(くりたたけお)中将率いる戦艦「大和」「武蔵」以下で構成される遊撃部隊第1部隊及び第2部隊はボルネオ島ブルネイを出撃しました。
 少し遅れて、西村祥治(にしむらしょうじ)中将率いる戦艦「山城」以下で構成される遊撃部隊第3部隊もブルネイを出撃しました。さらに志摩清英(しまきよひで)少将率いる遊撃部隊も沖縄を出撃し、西村艦隊を支援するカタチでレイテ湾を目指しました。
 栗田中将率いる第1・第2部隊はフィリピン北方のシブヤン海からサマール島を通るルートを、西村中将率いる第3部隊はスリガオ海峡を通り、南側から突入するルートを通りました。

 24日、栗田率いる第1・第2部隊はシブヤン海アメリカ空母から飛び立った戦闘機や急降下爆撃機雷撃機によって5回も大空襲を受けました。シブヤン海海戦の勃発です。巨艦「大和」「武蔵」が標的とされ、20本の魚雷と10発以上の爆弾を受けて「武蔵」は沈没した。
「大和」は魚雷こそあたらなかったものの、爆弾が数発命中した。1発が全部甲板を貫通して爆発、大量の海中が浸水したが、後部に海水を注入させバランスをとり航行を続けた。
 太平洋戦争は日本海軍航空隊による真珠湾攻撃で幕を開けたが、「航空主兵論者」だった山本五十六の戦法は即座に真似され、圧倒的な物量と生産力を持つアメリカ海軍は日本をはるかに上回る空母機動部隊を完成させていました。巨大戦艦など‘床の間の飾り‘と皮肉った山本の持論通り、「武蔵」は活躍出来ずに撃沈されてしまったのでした。
 そんなシブヤン海海戦で「武蔵」を失いながらも、栗田艦隊はレイテ湾を目指すのでした。

 一方、栗田艦隊のアメリカ機動部隊を北方に引き寄せる囮任務を担った小沢機動部隊は24日の段階で、ハルゼー大将率いる正規空母群をフィリピンのはるか北方におびき寄せることに成功していました。ハルゼー大将はこれが日本艦隊の主力であると錯覚し、攻撃をそちらに向けました。アメリカ主要艦隊は日本の秘策に引っ掛かったのです。

 25日午前0時、サンベルナルジノ海峡を通過し、サマール島沖を南下していた栗田艦隊は、明け方の6時25分、サマール島東方にてアメリカ空母部隊と遭遇した。
 栗田艦隊は、ただちに追撃態勢に入ったものの、敵空母部隊は撤退する構えで、駆逐艦のみが応戦してきました。サマール島沖海戦の勃発です。
 この海戦で、「大和」が誇る46センチ砲が初めて火を噴きました。しかし、栗田が遭遇したのは、ハルゼー率いる正規空母群ではなく、護衛空母群でした。正規空母群と勘違いした栗田中将は、潰滅を狙って執拗な攻撃を仕掛けるも、結局は逃げられてしまいました。

 ちょうどその頃、栗田とは別経路でレイテ湾に向かっていた西村艦隊は、スリガオ海峡で敵艦隊に待ち伏せを受け、ほぼ壊滅した。(スリガオ海峡海戦
 これを受けて西村艦隊の支援を担当していた志摩艦隊は、すぐに反転し、帰還した。

 一方、囮任務を担った小沢機動部隊もエンガノ岬沖海戦で奮戦したものの、空母「瑞鶴」「翔鶴」「千代田」「千歳」の4隻すべてを失いました。ここに日本海軍の空母機動部隊は壊滅したのでした。
そして、サマール沖海戦での追撃を打ち切った栗田艦隊はレイテ湾に向かい、米軍も日本艦隊のレイテ湾突入を覚悟しました。

「武蔵」を失い、小沢機動部隊の4空母を犠牲にしてまでお膳立てした決戦の地・レイテ湾まで80㎞の地点に迫りながら栗田武男中将率いる第1・第2部隊はレイテ湾突入せずに反転、北方に進路を変えました。栗田の「謎の反転」は、現在でも理由が不明です。いくつか推測もされていますが、いずれにしても作戦は大失敗に終わり、連合艦隊は事実上潰滅しました。

 レイテに急ぐべきだった栗田艦隊は、サマール島沖海戦を戦い、10月25日午後12時55分、ようやくレイテ湾まで80キロの地点に到着しました。
 あと1時間も走れば「大和」が誇る46センチ砲が届くという地点です。

しかし、栗田中将は突然、「突入中止、反転して北にむかう」と命令しました。
「長官、逃げるのですか」
「長官、血迷うな、レイテはあっちです。」
幕僚たちはと怒声を飛ばした。
 栗田はさきほど戦った空母部隊がハルゼー率いる機動部隊の一群であると信じ切っており、沖に出て艦隊決戦に挑もうとしたのです。
 それに栗田中将は、あらかじめ北方至近距離に強力な敵機動部隊がいるという電報を受け取っていました。しかし、この電報の発信者は今日でも発信者不明である。

 結局、栗田艦隊はレイテ湾を目前にして北に進路を変えました。しかし、敵の空襲を受け続け、機動部隊も発見出来ず、遂に栗田中将は追撃を諦め、艦隊を帰途につかせた。
連合艦隊はこの「謎の反転」の報告に驚いた。しかし、「決戦の見込みなしなら撤退せよ」とその行動を追認しました。

 ここにレイテ沖海戦は終了しました。

 この戦闘で日本海軍は戦艦3隻、空母4隻、重巡6隻、軽巡3隻、駆逐艦8隻を喪失し、生き残った艦も多くが損傷しており、惨敗に終わってしまいました。
 対してアメリカ艦隊は軽空母と護衛空母を各1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦4隻を失った程度で主力艦隊はほぼ無傷のままでした。

 敗因は、航空機の絶対的な不足と、各艦隊の組織的な連携や通信の不備による状況把握が上手く出来なかった点が大きいとされています。そこに栗田の「謎の反転」が起きたことで、「捷一号作戦」は失敗に終わったのでした。

 栗田はなぜレイテ湾突入を放棄して反転したのか。その理由は未だにわかっていません。

 戦後、米国戦略爆撃調査団の質問に対し、栗田は以下のように答えています。
「狭い湾内では艦隊の動きが窮屈で、十分な戦果が得られない。それよりも外海で強力な艦隊と戦った方が良いと思った。」
 また、作戦打ち合わせのさい、連合艦隊司令参謀の神重徳大佐が、このような二者択一を求められる場合、「敵主力艦隊攻撃」を優先してよいと言質を与えていたとも伝えられています。
 いずれにせよ、このレイテ沖海戦日本海軍は事実上潰滅し、二度と艦隊同士の決戦による戦局打開の機会が与えられることはありませんでした。

この後、レイテ島での決戦を挑んだ陸軍は終わりなき戦いを強いられるのでした。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
歴史群像シリーズ 決定版 太平洋決戦 7 「比島決戦」  Gakken
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
太平洋戦争「必敗」の法則   太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
知識ゼロからの入門 太平洋戦争 半藤一利=著     幻冬社