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【アッツ島玉砕】連合国軍の反攻、始まる(前編)

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【アッツ島玉砕】連合国軍の反攻、始まる(前編)」というお話です。

 第二次世界大戦の形勢は、1943年を転機にアメリカ、イギリス、ソ連の連合国側の有利に傾いていきました。

 今回は1943年の第二次世界大戦の情勢を見ていきながら、アッツ島玉砕についてご紹介します。

 

 1941(昭和16)年12月に開戦した日本とアメリカを中心とした連合国軍による大東亜戦争は、開戦当初は日本が優勢でした。しかし、そんな大東亜戦争は1943(昭和18)年を転機として徐々にアメリカ側の有利に傾き始めていきます。日本は同1943年2月にガダルカナル島を失陥したことで、多くの将兵と艦船、航空機を失い、戦力を消耗してしまったのです。対するアメリカは持ち前の経済力で空母や航空機を大量生産し、反攻態勢を整えていくのでした。

 これはヨーロッパ戦線においても同じでした。
 北アフリカではドイツ軍とイギリス軍の死闘が続いていましたが、エル・アラメインに防衛線を敷くイギリス軍はドイツの輸送船の4割近くを地中海で撃沈していました。これによって補給路を断たれたドイツ軍は戦力を大幅にダウン。これを見たイギリス軍は1942年10月23日、ドイツ・イタリア両軍に攻めかかり、勝利しました(エル・アラメインの戦い)。以前はドイツに撃退されたイギリス軍でしたが、この頃になるとまた、アメリカから新兵器などが補充され、戦力が格段に増強されていたのです。
 同年11月には準備を整えたアメリカ軍がモロッコアルジェリアに上陸し、翌1943年2月から本格的にドイツ軍に反攻。追いつめられた北アフリカのドイツ軍は同1943年5月12日、降伏しました。

 東部戦線ではドイツ軍とソ連軍の一進一退の攻防戦が続いていましたが、1942年7月、ドイツ軍がカフカス油田を狙ってスターリングラードに侵攻を開始。スターリングラードはドイツ軍の爆撃で瓦礫の街と化し、一時はドイツ軍に占領されかけました。
しかし、ソ連軍は約100万人の兵を動員し、逆にドイツを包囲。長期戦に持ち込みました。20万人を超える戦死者を出したドイツ軍は1943年2月2日、降伏しました。

 このように第二次世界大戦の形勢は、1943年とは、アメリカ・イギリス・ソ連の連合国側が反攻態勢に転じた年でした。

 そんな連合国陣営は1943(昭和18)年1月14日、モロッコカサブランカで、米大統領ルーズベルトと英首相チャーチルによる首脳会談を開催し、今後の連合国軍の反攻作戦について話し合われました。
この会談でルーズベルトは席上で「ドイツや日本に対して、無条件降伏以外は認めない」ことを宣言しました。

 こうして徐々に追いつめられる日本ですが、それに追い打ちをかける出来事が発生しました。連合艦隊司令長官山本五十六が戦死したのです。1943年4月、山本五十六大将は連合軍に打撃を与えるために「い号作戦」を発令しました。空母部隊や基地航空隊350機をラバウルに結集させ、ポートモレスビーガダルカナル島を空襲しました。空襲は一応成功を収め、山本自らが前線を視察することになった。

 同1943(昭和18)年4月18日、山本を乗せた搭乗機はラバウルの基地を発し、ブーゲンビル島の航空基地視察に向かいました。しかし、途中でアメリカ軍戦闘機によって撃墜され、山本は還らぬ人となりました。暗号解読によって山本の視察を事前に把握したアメリカ軍の待ち伏せでした。
山本の戦死は、軍にも国民にも大きな衝撃を与えました。

 

 山本長官の戦死から1カ月後の5月12日、アメリカ軍の本格的反攻が始まりました。それまで日本軍が占領していたアラスカのアリューシャン列島にあるアッツ島及びキスカアメリカ軍が上陸したのです。
 アメリカにとって米国領であるアッツ島キスカ島をそのまま日本軍に占領され続けているのは戦略的価値以上に国民的感情の上から許せなかったのです。

 前年の1942年6月、日本はミッドウェー攻略作戦と並行してアリューシャン列島のアッツ、キスカ両島を占領していました。その狙いはアメリカ軍の日本本土空襲基地建設の阻害と、米ソ連絡の分断、そして日ソ戦が起きた際にカムチャツカ半島攻撃の前線基地とすることにありました。
 アッツ島の山崎保代(やまざきやすよ)大佐率いる守備隊は、数倍の兵力を持つアメリカ軍を迎え撃ちます。

 対するアメリカ軍は、「ランドクラブ作戦」というアッツ攻略作戦を開始しました。
しかし、極寒の地での進軍は困難で、多くの兵士が凍傷になるなど作戦は思うように進まず、山崎大佐率いる日本の守備隊の攻撃も激しく、米軍は大いに苦しめられる結果となりました。
 それでも物量と士気で勝るアメリカ軍は徐々に戦局を有利に運ぶようになり、日本の守備隊はじわじわと追いつめられていきました。
 こうした状況を受け、参謀本部は18日、アッツ島の放棄を決定し、20日にはキスカを含めて撤退を決めました。日本は本土から応援部隊を送る余裕がなくなっていたのです。
 しかし、すでにアッツ島の周辺はアメリカ艦隊に包囲されており、救援はおろか撤収も難しい状況でした。山崎大佐率いる守備隊は、島の端へと追い込まれていきました。
5月29日、山崎大佐はわずか150名の残存兵を率いて、夜襲を行うことを決め、重要書類や暗号書などを全て焼却し、本国に惜別を打電しました。
 そして29日深夜、全軍が米軍に向かって突撃。一時は米軍を大いに混乱させるも、やがて態勢を立て直した米軍の猛攻を受けて、29人の捕虜を除き、全滅した。5月なのに雪が残るアッツ島の山のふもとに日本軍守備隊2500名の死体が転がったのです。
 アッツ島からの惜別の報を受けた大本営は守備隊の敢闘を天皇にも報告し、国民に向かって最大級の賛辞で守備隊を称えた。
 そこで使われた言葉が「玉砕」という言葉です。これは中国の『元景安伝(げんけいあんでん)』の中に出てくる言葉を語源とするもので、玉が砕けるような美しくいさぎよい死を表現した言葉です。
 この透明感のある言葉で「全員戦死」という悲惨なイメージを少しでも薄めようという大変姑息なやり方です。
 「玉砕」という言葉が初めて使われたのは、この「アッツ島全員戦死」のときでした。
 しかし、これ以降マスコミをはじめ「玉砕」という言葉が広く使われるようになります。

 アッツ島が玉砕したことで、大本営キスカ島に残る守備隊5600人の救出を急ぎました。同1943年7月29日、濃霧にまぎれて撤収艦隊がキスカ島への入港に成功。守備隊全員が19隻の駆逐艦に乗り込み、無事、脱出に成功。
当日はキスカ周辺のアメリカ艦隊が給油のために立ち去っていたという幸運も重なった。アッツの二の舞を避けるべく用意周到に整えた準備が功を奏したのでした。

 こうして北太平洋地域を制圧したアメリカ軍は、中部太平洋地域と南太平洋地域に分かれ、本格的な反攻に移りました。
 中部太平洋地域は、ミニッツが指揮するギルバード諸島からマーシャル諸島、トラック島、マリアナ諸島と進み、日本本土を目指します。
 南太平洋地域は、陸軍と海軍に分かれ、海軍のハルゼー中将が指揮する指揮するソロモン諸島ガダルカナル島から北へ進む攻撃隊と、陸軍のマッカーサー大将が指揮するニューギニアをブナからラエ、サラモアと西へ進む攻撃隊とに分かれて反攻を開始しました。
 こうした大兵力をもって、日本軍の拠点を次々に潰していく「大車輪作戦」です。

 これに対し、日本軍はそれまで決戦用として温存していた空母航空部隊や歴戦の師団を前線に投入するも、いたずらに戦力を消耗させるばかりで反攻を防ぐことが出来ずにいました。
 これを受けた大本営は1943年9月30日の御前会議で「絶対国防圏」を定め、千島列島、マリアナ諸島、西ニューギニアビルマを結ぶ防衛線を死守する戦争方針を定めたのでした・・・・。
つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。


参考文献

今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
知識ゼロからの入門 太平洋戦争 半藤一利=著  幻冬舎
日本の戦争 解剖図艦 拳骨拓史=著  X-knowledge