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【サイパン陥落】絶対国防圏はなぜ崩壊したのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【サイパン陥落】絶対国防圏はなぜ崩壊したのか」というお話です。

絶対国防圏を決めるにあたって、またしても陸軍と海軍が対立。戦線を縮小し、兵力の集中化を図る陸軍と、戦線を維持し、前線での艦隊決戦に固執する海軍が互いに妥協して何とか決まったものの、その守りを固めるよりも早く米軍が進撃し、絶対国防圏はあっさりと崩壊してしまったのでした。

 1941(昭和16)年12月に開戦した大東亜戦争は1943(昭和18)年を転機として徐々にアメリカ側の有利に傾き始めていきます。日本は同1943年2月にガダルカナル島を失陥します。
 その後、アメリカ軍は中部ソロモンのレドバ島、ニューギニアのナッソウ島への上陸作戦を開始。対する日本の守備兵力は劣勢で次々にアメリカ軍に追い詰められていき、ニューギニアのラエ方面も絶望的となりました。
 そして同1943(昭和18)年5月には、アリューシャン列島のアッツ島、同年8月には同じくキスカ島も失陥したことで、いよいよ日本は不利な情勢に立たされることになりました。

 こうした米軍の本格的な反攻が始まると、日本軍は作戦の見直しを余儀なくされました。広がりすぎた戦線を整理・縮小し、戦争を遂行するうえで必ず守らなくてはならない範囲を設定し、そこに強力な布陣を敷いてアメリカ軍の進攻を迎え撃つ作戦です。
 大本営は1943(昭和18)年9月25日、「今後採ルベキ戦争指導ノ大綱」を策定し、ここで決められたのが、絶対国防圏です。絶対国防圏とは、絶対に死守しなければならない要域のことですが、その範囲は千島、小笠原、マリアナ諸島、内南洋(中西部)及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏とされました。
 そんな絶対国防圏を決定するにあたり、またしても陸軍と海軍で意見が割れ、多くの議論が戦わされました。
 陸軍はすでに広がりすぎた太平洋方面の戦線を縮小するべきと主張していました。
カロリン諸島及びマリアナ諸島は捨て、比島(フィリピン)及び日本本土の防備を固めるべきだ。」
 しかし、海軍は前線での艦隊決戦で雌雄を決することに望みを捨てていませんでした。
「カロリン・マリアナ海域での艦隊決戦は75%の勝算がある。ここで米艦隊を撃破し、戦局の転換を図るべきだ。」
 一方で海軍の意見も一理ありました。特にマリアナ諸島サイパン島を米軍に占領されれば、日本本土が米軍の空襲圏内に入ってしまうからです。

 大本営の陸軍部と海軍部は戦況検討会を開き、合同の図上演習を行い、互いに妥協点を探り合いました。
 陸軍はトラック島より東の島々は防衛不可能と判断し、これより後退してフィリピンを含む南方方面に兵力を集中させたいと主張。
 しかし、海軍はトラック島以東の放棄に強く反対しました。

 そこで折衷案のカタチで決まったのが、海軍が主張したギルバード諸島、マーシャル諸島は外されたものの、トラック島は内南洋(中西部)という表現で絶対国防圏に含まれることとなりました。

 こうして決められた絶対国防圏の防備を強化するために、兵力は主に満州から抽出され、ニューギニア方面(南東方面)においても戦艦「大和」や「武蔵」を含む第2艦隊を派遣されました。しかし、輸送船が途中で米潜水艦に撃沈されるケースが多発し、兵力の補強は思うように進みませんでした。
 そこで、大本営は「概ね十九年中期を目途とし米英の侵攻に対応すべき戦略を確立」するとしました。

 しかし、米軍の反攻は予想以上に早く、1944(昭和19)年2月上旬までにはギルバード諸島やマーシャル諸島の大部分が米軍の手に落ちることになりました。絶対国防圏の圏外であったギルバード諸島のタワラやマキン、クェゼリンなどの将兵は撤退せず、玉砕するまで戦いました。
 この結果、次は絶対国防圏の要衝となる中部太平洋マリアナ諸島カロリン諸島に米軍はやってくると予想されました。
 そこで海軍は、すぐさま中部太平洋方面に兵力を最優先させることに決定。比較的戦況が落ち着いている南西方面(マレー・蘭印)から航空部隊を引き抜き、南方方面への兵力補充も3月いっぱいで打ち切ることにしました。
 このように絶対国防圏とは、日本の国力にあったものというよりも、大本営が地図を広げ、一方的に線を引き、そこを絶対国防圏と称したものに過ぎませんでした。
 さらに「概ね十九年中期を目途とし~」という戦況を無視したあまりにスローな対応で、戦略態勢の確立を待たずに絶対国防圏は崩壊を始めたのでした。


サイパンに上陸した米軍の進攻に日本守備隊は激しく抵抗しました。それは攻撃精神の欠如を理由にアメリカ陸軍の師団長が解任され、アメリカ陸海軍の間に対立を引き起こしたほどでした。しかし、太平洋戦争の勝敗を決した南洋の死闘は日本軍の玉砕によって終焉したのでした。

 日本から2200キロ離れた中部太平洋マリアナ諸島中部太平洋マリアナ諸島は、サイパン島テニアン島グアム島といった数々の島で構成されています。
大正時代から日本が委任統治領として治め、多くの移民者たちが生活を営んでいました。
 日本本土への直接爆撃が可能な距離にあるマリアナ諸島は、きわめて重要な太平洋の要衝であり、先述通り、大本営はこの島を絶対国防圏の最前線と位置づけ、防備には絶対の自信を見せていた。しかし、米軍は日本軍の予想以上の大兵力で、1944(昭和19)年6月15日、マリアナ諸島サイパン島に上陸してきました。
 日本軍も海岸一帯に防御陣地を築き、海岸で撃退しようとするも、アメリカ軍の激しい空爆と艦砲射撃で造り始めたばかりの防御陣地はあっさり破壊されてしまいました。それでも日本軍は精鋭の落下傘部隊や戦車部隊を含む主戦力を投入した。しかし、アメリカの圧倒的な大砲や戦車、さらには航空攻撃の威力によって粉砕され、後退を始めました。上陸部隊は最終的に7万人となり、迎え撃つ日本軍は約4万3000人だった。

 日本軍の頼みは急行する連合艦隊のみでした。

 連合艦隊の主力第1機動艦隊は、マリアナ諸島へ急行しました。
 アメリカの第58機動部隊は空母は大小15隻、搭載航空機900機にのぼり、対する日本側の空母は大小9隻、搭載航空機は450機と戦力で劣っていましたが、航続距離の長い日本軍機の特性を利用して先制攻撃するアウトレンジ戦法で挑みました。
 しかし、アメリカ軍は最新式のレーダーで攻撃隊の接近をキャッチし、最新式の砲弾で日本軍機を叩き落としてしまいました。

 以上のようなマリアナ沖海戦の敗退で、サイパンの救援は不可能となり、孤立することとなりました。

 米軍の強力な攻撃に押されながらも、日本軍の守備隊も勇敢に戦った。特に「死の谷」と呼ばれた地点での日本軍の抵抗は凄まじく、中央の歩兵第27師団は3日間、一歩も進むことが進むことが出来ませんでした。

 戦闘開始から10日目の6月24日、地上戦の指揮を執っていたホーランド・スミス海兵中将は、同師団長ラルフ・スミス陸軍少将を「攻撃精神の欠如」を理由に、更迭する事態にまでなってしまった。
 アメリカでは作戦途中での解任や更迭は普通のことですが、陸軍の師団長が管轄違いの海兵隊の指揮官によって解任されるのは、初めてのことでした。
 とにかく、米陸海軍の間に抗争を引き起こすほど日本軍の抵抗は激しいものでした。

 だが7月に入ると、奮戦虚しく、日本軍は兵力の大半を失い、島の端へ追いつめられていきました。アメリカ軍の優勢は絶対的で、もはや風前の灯でした。このとき、3万人の民間人も軍と共にいたが、彼らもアメリカ兵の投降勧告を拒否し、崖から飛び降りたり、毒薬や手榴弾を使うなどして、次々に自ら命を絶っています。

 7月6日、司令官の将校たちは遺書を残して自決した。その中には中部太平洋方面艦隊司令長官の任に就いていた南雲忠一中将の姿もありました。

 7月7日、日本軍守備隊は最後のバンザイ突撃を行い、サイパンは陥落した。

 こうしてサイパン、グアム、テニアン等のマリアナ諸島を米軍が占領したことにより、B-29による日本本土の大部分への攻撃が可能になったのでした。

 

 サイパンの日本軍が玉砕したという報を受けてから11日後の1944(昭和19)年7月18日、東条英機内閣が総辞職します。
 しかし、東条自らが責任を取って辞めたというよりも、総理大臣経験者で構成される重臣グループから「東条やっぱダメだろう・・・。」と反発が起き、倒閣運動で追いつめたものでした。
 その中でも中心となったのが、海軍大将の岡田啓介でした。岡田は太平洋戦争終結の道を探ろうとしない東条内閣を倒すために、まず嶋田繁太郎海軍大臣を辞めさせる画策をしました。
 後任の海相を送らなければ、内閣は総辞職しなければならない。
 サイパン陥落後、天皇側近で内大臣木戸幸一が、東条に天皇の意向として嶋田海相の辞任と重臣入閣の必要性を伝えた。東条は仕方なく、海相の辞任を認め、ほかの大臣を重臣に入れ替えることにした。
 東条が辞めさせる大臣の一人に挙げたのが、商工大臣の岸信介でした。それを知った岡田は「辞めるな」と岸を説得した。岸も東条に見切りをつけており、岡田に同調した。
 重臣入閣候補者の一人であった米内光政も入閣を拒否。こうしておよそ2年9カ月続いた東条内閣は総辞職に追い込まれました。
 そして7月23日、小磯国昭陸軍大将と、復帰した米内光政による連立内閣が発足しました。しかし、その後戦況が変わるわけではなく、戦争はなおも続いていくのでした。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
昭和史を読む50のポイント    保阪正康=著      PHP
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著      アルファポリス
太平洋戦争「必敗」の法則     太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
知識ゼロからの入門  太平洋戦争 半藤一利=著      幻冬舎