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【マリアナ沖海戦】アウトレンジ作戦はなぜ失敗したのか

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【マリアナ沖海戦】アウトレンジ作戦はなぜ失敗したのか」というお話です。
マリアナ沖海戦とは、一言でいえば、日本海軍が持てる海軍力を全て投入した戦いです。しかし、結果は大敗北。帝国海軍は作戦遂行能力を完全に喪失し、以後、米軍の一方的な攻撃を受け続けることになったのです。

1943(昭和18)年9月末、日本はアメリカをはじめとした連合国陣営の反攻を受け、アリューシャン列島のアッツ島キスカ島も失陥したことで、いよいよ日本は不利な情勢に立たされることになりました。
こうした戦況の悪化を受けて大本営は絶対に死守するべき領域として絶対国防圏を定めました。その領域は千島、小笠原諸島マリアナ諸島、中西部カロリン諸島を経てビルマに至る領域であり、日本が絶対確保するべき防衛線として取り決められました。
そして絶対国防圏の防備は翌1944(昭和19)年3月を目途に固めてくこととし、南東方面(ソロモン諸島ニューギニア)においても戦艦「大和」や「武蔵」を含む第2艦隊を派遣するなど戦線を極力持久させることも決定されました。

しかし、米軍の反攻は予想以上に早く、1944年2月上旬までにはギルバード諸島やマーシャル諸島の大部分が米軍の手に落ちることになりました。この結果、次は絶対国防圏の要衝となる中部太平洋マリアナ諸島カロリン諸島に米軍はやってくると予想されました。
そこで日本海軍は、すぐさま中部太平洋方面に兵力を最優先させることに決定。比較的戦況が落ち着いている南西方面(マレー・蘭印)から航空部隊を引き抜き、南方方面への兵力補充も3月いっぱいで打ち切りました。
日本海軍はマリアナ海域に全兵力を投入し、艦隊決戦を行うつもりです。

これに対して陸軍は意見しました。
「米軍の反攻が早すぎる。カロリン・マリアナは捨て、比島(フィリピン)及び日本本土の防備を固めるべきだ。」
しかし、海軍は譲りませんでした。
「カロリン・マリアナ海域での艦隊決戦は75%の勝算がある。ここで米艦隊を撃破し、戦局の転換を図るべきだ。」
海軍の意見も一理ありました。特にマリアナ諸島サイパン島を米軍に占領されれば、日本本土が米軍の空襲圏内に入ってしまうからです。
作戦は結局、海軍の意見でまとまりました。
この方針に従い、日本軍は中部太平洋方面における空母部隊の再建を急ぎ、同1944(昭和19)年5月末~6月中旬までには、ほぼ完了しました。
トラック島(カロリン諸島)とサイパン島マリアナ諸島)が米軍の空襲に遭ったのはその直後の6月13日のことでした。
これと同時に、小澤治三郎率いる第一機動艦隊が訓練地タウイタウイ島(フィリピン南西部に位置する島)を出撃、17日には最後の補給を終えて、フィリピン海東方水域への進撃を開始しました。
一方、アメリカ側は潜水艦から報告で17日の時点で日本艦隊の動向をつかんでおり、日本艦隊の接近の報を受けた米艦隊内でも日本との艦隊決戦に挑むべく、進撃するべきだとの意見が出ましたが、もし自軍が敗北した場合、サイパン沖の上陸船団が危険にさらされる可能性を考慮して決戦実施を諦め、空母部隊をサイパン付近の水域に留めて、接近してくる日本艦隊を迎え撃つ作戦が採られました。

1944(昭和19)年6月15日、米軍はサイパン島に上陸しました。日本軍としてはサイパン島を米軍に占領されると、日本本土が米軍の空襲圏内に入ってしまうため、何として阻止しなければなりませんでした。
そこで、日本海軍はありったけの海軍兵力を投入し、マリアナ沖で決戦に挑みました。以下は、マリアナ沖海戦に参戦した日米の戦力比です。日本軍は連合艦隊の総力を結集して米軍機動部隊に挑みます。主力は小澤治三郎率いる第1機動部隊で、錬成に錬成を重ねて準備した虎の子の航空部隊です。

日本 アメリ
空母 9 15
航空機 439 901
戦艦 5 7
重巡洋艦 10 8
軽巡洋艦 2 12
駆逐艦 29 67

日本海軍が兵力を結集したといっても、表の通り、日米のあいだには歴然とした差が開いており、日本は不利な状況に立たされていました。そこで小澤中将が用いた戦法がアウトレンジ戦法とよばれるものでした。
その戦法とは、航続距離が長い日本軍機の特性を活かし、敵の空襲圏外から軍機を発艦し、敵機動部隊に空襲をかけるというもので、味方の損害を極力少なくして、敵に大きなダメージを与えるというものです。
かつて「戦艦」対「戦艦」の戦いが行われていた時代、それは「大鑑巨砲主義」と呼ばれており、戦艦は大きく、頑丈で、射程距離の長い大砲を備えている必要がありました。これによって敵艦の大砲の届かない位置から砲撃し、自軍は損害を受けることなく、相手にダメージを与えることができました。
それを応用したのがアウトレンジ戦法で、実は戦前から検討がされていた戦法です。
不利な戦局を何とかここで打破し、形勢を逆転させたいところです。
そして同年6月19日早朝、実に44機に及ぶ策敵機が3段階に分けて発艦されました。ミッドウェー海戦での教訓が生かされているのです。
同月19日6時30分、多数の策敵機より敵艦隊発見の報告が送られ、小澤中将は7時25分、攻撃隊の発艦を命令しました。
その数は309機。合計4波に分かれての全攻撃隊の発艦が終了したのは10時28分のことでした。なお、この時点で日本艦隊の上空には米策敵機はおらず、アウトレンジ戦法は成功したかに思われました。

しかし、この頃すでに日本側の策敵機が米軍機に次々に撃墜されていました。
米軍は新開発の優秀なレーダーによって事前に日本の飛行機の動きを察知しており、索敵機を逃がさなかったのです。
これによって、索敵機による敵艦隊への攻撃隊の誘導がうまくいかない事態が起きてしまいました。ただでさえ遠くからの発艦で、なおかつ誘導機も僅かな状態。この結果、約3割もの日本攻撃機が米艦隊に接敵できないという事態が起こりました。
そんな中、何とか米艦隊に接近した日本攻撃隊も、レーダーによって70カイリ手前で待ち伏せしていた米軍のグラマンF6F戦闘機の餌食となり、次々に撃墜されていきました。

かろうじて敵空母の上空にたどりついた攻撃機も、米軍の猛烈な対空砲火を受けました。それは最新鋭の砲弾であり、目標に命中しなくても、熱を感知して爆発するVT信管付きの砲弾でした。
アウトレンジ戦法は最新鋭の軍備を備える米軍には通用しなかった。

この結果、アメリカ艦隊は空母2隻と戦艦1隻に軽微な損傷を受けただけで、航空機の損失も19機のみにとどまった。
一方、日本軍は航空機207機の損失を出すという大敗北を喫しました。さらに航空攻撃こそ受けなかった第一機動部隊の空母「大鳳」「翔鶴」も19日午後に米潜水艦の攻撃を受け、撃沈されました。
これを受けて連合艦隊司令部は「一旦退避のうえ、後に後図を策せ」と命令を出しました。
小澤中将率いる第一機動艦隊は決戦水域から撤退をしたのでした。
対する米艦隊は勝利を確信し、翌20日以降、日本艦隊の追撃を開始しました。その結果、日本は空母「飛鷹(ひよう)」と補給艦2隻が撃沈され、空母「瑞鶴」と「隼鷹(じゅんよう)」も損傷を受けた。
こうした米軍の追撃に小澤中将も黙って逃げるわけにもいかず、夜戦実施を命じるなど応戦を開始しました。
しかし、もはや航空戦力も61機まで減少しており、有効な艦隊作戦の実施も不可能な状態になっており、第一機動部隊はただ逃げるしかありませんでした。
翌21日、米艦隊はさらに追撃を試みるも、日本艦隊はすでに攻撃可能な水域から完全に離脱していました。このため、米軍は追撃を中止し、サイパン島で苦戦を強いられている上陸部隊の支援に向かいました。

マリアナ沖海戦は日本軍の完敗に終わりました。日本海軍が全力投入した海軍兵力は壊滅。連合艦隊はとうとう作戦遂行能力を喪失してしまったのでした。


マリアナ沖海戦の最大の敗因は、満足に訓練を受けていない未熟なパイロットが多く前線に出されたことにありました。この結果、グラマンF6F戦闘機に追い回され、さらに対空砲火による弾幕をかわすことも出来ず、ことごとく撃墜されるという憂き目に遭いました。あまりにあっけなく撃ち落とされる様を見て、米軍は「マリアナ沖の七面鳥撃ち」と評しています。

ミッドウェー海戦ガダルカナル島の攻防を経た頃には、日本軍のベテランパイロットの多くが戦死していました。
さらに、燃料や軍需物資も絶対的に不足しており、新たにパイロット達を訓練させる余裕もなく、そんな時間もなかった。
しかし、近年、問題はこれだけではなかったと指摘している学者もいます。
そもそも日本の「パイロット育成教育のあり方」に問題があったのではないかというのです。
例えば、海軍のエースパイロットであった坂井三郎(さかいさぶろう)という人物が零戦で得意としていた戦法として「左ひねり込み戦法」がありました。これは敵に追尾されたら、縦方向に大きくUターンすることで一気に敵機の後ろに回り、劣勢から優勢に転じるアクロバットな空中機動術です。
しかし、日本はこういったテクニックを軍部内で共有するわけでもなく、専ら個人技の範疇として、パイロットの技量に頼っていた。
日本軍は飛行機の操縦方法は教えても、空中格闘戦術や射撃術のようなテクニックを教えるようなことはしなかったのです。開戦当初は日中戦争を戦っていた日本軍が戦術や技量においてアメリカ軍パイロットより経験値が高かった。
しかし、戦況の悪化とともにベテランパイロットが次々に戦死していく。
一方のアメリカ軍はパイロットの技量に頼らず、誰もが習得・実践できる射撃マニュアルを作成していました。
そこには「敵との距離が離れている場合の攻撃方法」や「敵の真後ろ以外の至近距離での攻撃方法」など、それぞれのケースにおいてどうすればよいかパターン化して教育していた。こうした「マニュアルを暗記」さえしておけば、誰でもある程度の戦果を上げられるようにしていたのです。

そんな米軍は偵察機やレーダー艦が集めた情報を空母にある戦闘指揮所に集め、そこから全戦闘機に情報を共有するシステムが構築されていた。
一方の日本軍は、無線もレーダーも十分なものではなく、各戦闘機がおのおのの技量に頼って戦うという戦法をとっていました。

こうした用意周到なアメリカと、行き当たりばったりの日本が激突したのがマリアナ沖海戦だったのです。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社