日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【インパール作戦】なぜ史上最悪の作戦と呼ばれているのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【インパール作戦】なぜ史上最悪の作戦と呼ばれているのか」というお話です。

 インパール作戦といえば、兵站を無視した無謀な作戦で、無益な犠牲を出した史上最悪の作戦と呼ばれています。まさに3無(無視・無益・無謀)な作戦であると。
しかし、太平洋戦争に限っていえば、ミッドウェー海戦ガダルカナル攻防戦、さらには後のレイテ沖海戦など「3無な作戦」はいくつもあります。
 それなのに、なぜインパール作戦だけが必要以上に無謀な作戦だったといわれているのでしょうか。
 今回は「インパール作戦はなぜ実行されたのか」、「インパール作戦はなぜ失敗したのか」、「なぜインパール作戦は史上最悪の作戦と呼ばれているのか」について見て行きたいと思います。

 インドは1858年以来イギリスの植民地でした。イギリスはマレー、シンガポール、インド(インパール)などで本国から派遣されたイギリス軍にインド兵を組み、英印軍として日本軍と戦いました。
 しかし、開戦後、日本の電撃戦は凄まじく、昭和17年5月までに日本陸軍は英領インドに併合されていたビルマからイギリス軍を駆逐し、占領しました。その最大の目的はインド北東部のアッサム地方からビルマ北部を経由して中国雲南省に向かう米英の援蒋ルートの遮断でした。つまり、日本と戦い続ける蒋介石政権(国民党政府)を支援する道を遮断し、蒋介石政権を屈服させ、日中戦争支那事変)を終息させることにありました。
 しかし、ミッドウェー作戦でアメリカに大敗北した日本は空母4隻を失ったことで、東インド洋の制海権・制空権をパワーダウンさせてしまいました。さらに翌1943年2月にはガダルカナル島を失陥、同年8月にはアリューシャン列島のアッツ・キスカ島、11月にはギルバード諸島のマキン・タワラ島を失陥。1943年から連合軍は太平洋方面において反攻に転じていました。

 こうした連合軍の動きに対抗するべく日本側も1943(昭和18)年11月5日、東京で大東亜会議を開催しました。これは大東亜戦争を勝利に導くためにアジア各国が団結して連合軍に徹底抗戦することを目指すものでした。満州国や中国南京政府ビルマ、タイ、フィリピンなどの首脳に加え、自由インド政府のチャンドラ・ボーズ首班が駆けつけた。

 インドの独立家であるボーズは10月、日本軍が英軍を追いやったシンガポールで仮政府の樹立を宣言、日本に強い信頼を置いていました。
ボーズの独立にかける一途な情熱は会議を主宰する東条英機首相や日本国民に強い感銘を与えました。
 大東亜共同宣言が採択された後、ビルマ代表のバー・モウが以下のようなことを発言しました。
「インドの独立なくしてアジアに自由はない。インドとビルマの共通の敵はイギリスである。インド奪回を提唱し、戦い続けてきた我が盟友チャンドラ・ボースこそが独立首相の最適任者である。アジア10億の民が団結することが約束された今こそ、インド独立の時である。」
 これを受けたチャンドラ・ボーズも4億人のインド国民軍を率いてイギリス軍に徹底抗戦することを宣言しました。
 しかし、これが悲惨な結果に終わる「インパール作戦」の呼び水となるのでした。

 

 ビルマ戦線においても連合軍の反撃が始まっていました。
 1943(昭和18)年10月、イギリス軍のウィンゲート旅団がインパールからビルマに侵入し、北の国境からビルマに侵攻してきました。
 一度は日本に敗北したイギリスが、その後対策を練り、ジャングルで日本軍に勝つ方法を編み出し、態勢を立て直したうえで、植民地を奪回するべく反撃に出たのです。

 これによって、日本側に浮上したのが、逆にインドに侵攻し、国境に近いインパールからアッサムまで攻略する作戦です。第15軍司令部の座に収まっていた牟田口中将は、イギリス軍の拠点であるインパールを攻略して「援蒋ルート」を断つと同時に連合軍の反撃拠点を抑える「インパール作戦」を立案しました。これによって、ビルマの守りを安泰にさせるうえ、英軍をインドに釘付けにし、英軍が太平洋方面に出てくるのを阻止しようというのです。

 しかし、この作戦には非常に強い反対論が出ました。
まず、インド方面の制空権が確保されていない。この状態での侵攻は自殺行為に等しい。東インド洋の制海権・制空権はミッドウェーの大敗北で空母と航空機が大量に喪失されたため、そのパワーバランスが崩壊しています。
しかも、国境を超えるには川幅600mのチンドウィン川と、標高2000mを超えるアラカン山系を超えなければならず、片道で200キロもある。さらに、これから雨季に入るため、激しいスコールにも襲われる。
第15軍の参謀長・小畑信良(おばたのぶよし)少将ら関係者は作戦に反対しました。最大の問題となったのは、補給体制でした。
「ラングーンから陸揚げされた武器や食糧をインパールまで届けるには鉄道も少なく、歩道も泥濘でいる。補給に難があるのは明白だ。」
これに対して牟田口長官は言いました。
「補給に関しては、ゾウや牛に荷物を運ばせ、用が済んだら、それを食べれば良い。」牟田口はこれを「ジンギスカン作戦」として自画自賛しました。
しかし、小畑中将は納得しませんでした。
そこで牟田口は小畑参謀長を更迭し、作戦を強引に推し進め、軍上層部へ進言してしまいました。
牟田口は作戦の必要性を熱心に唱えました。
ビルマ方面軍司令官・川辺正三、そして南方軍司令官・寺内寿一は、悪化する戦局を打開出来るかも知れないとして作戦を認可。そして大本営では陸軍参謀総長杉山元も寺内の願いならば聞かないわけにいかず、作戦を認可しました。
そして首相であり、陸軍大臣も兼ねていた東条英機も作戦を認可しました。
大東亜会議では自由インドのボーズが日本と共闘してイギリス軍を駆逐することを熱心に申し出ていました。大東亜会議の主催者で日本代表の東条としても、国家としてインド独立に協力しないわけにはいきません。
第15軍の主張する作戦ならば、インド独立運動を活性化させることが出来る。
東条はアッサムまでは認めないが、インパールまでの攻略なら許可するとした。
こうしてインパール作戦は正式に実行が決まりました。
作戦にあたるのは、第15軍麾下(きか)の第33、31、15の各師団です。
作戦実行に際して、第31師団の師団長・佐藤幸徳(さとうこうとく)中将は補給は必ず行うことを条件とし、牟田口もそれを了承したうえで、作戦は実行されました。

兵士が携帯した食糧はわずか3週間分のみ。長期戦などやる気は毛頭ありません。
「補給など心配いらない。イギリス軍は弱い。天皇誕生日(4月29日)までには作戦は全て完了するはずだ。」
1944(昭和19)年3月8日、日本軍の3個師団が進撃を開始しました。第33師団は補給が比較的容易な南側コースから北上し、インパールを包囲する。第31師団はインパールの北方にあり、イギリス軍の軍事拠点にもなっているコヒマを占領し、南下する。そして第15師団と合流し、南下を続ける。つまり、インパールを南北から挟み撃ちにしようという作戦です。
しかし、実際に攻撃を始めると、英印軍の屈強の抵抗に全滅の危惧を感じた第33師団は攻撃をしばしば中断し、牟田口司令官に作戦中止を具申するほどでした。
さらに、最も補給が心配された第31師団は国境付近にある川幅600mのチンドウィン河を渡ったさい、運搬兼食糧であった水牛のほとんどが流され、さらに険しい山道を進む中、水牛たちは次々に崖から落ちていきました。
牟田口のジンギスカン作戦はあっさりと頓挫したのです。

それでも佐藤中将率いる第31師団は4月中旬にはインパール北のコヒマを抑え、順調に作戦を遂行させていきました。しかし、まもなく事前の危惧通り、補給が途絶え、日本軍の動きは止まってしまいます。前線の将兵は弾薬も食糧も補給がないまま戦わされることとなった。
一方、イギリス軍は空中補給を受けて、余裕を持って戦うことが出来た。
佐藤は抗議した。
「約束が違う。弾薬も食糧もない状態で作戦を続けられるはずがない。」
だが、牟田口中将は、進撃が止まっているのは戦意不足によるものであると主張して、作戦の続行を命じた。
「弾がない、食い物がない、お前達それでも皇軍か。泣き言を言うな。それにジャングルに食べ物はいくらでもある。日本人は本来、草食なのだから。」
これに対し佐藤は答えます。
「正気とは思えない。上官らは現場の状況を知らなさすぎる。兵士達は飢えに苦しみ、戦闘意欲など既に失っている。場合によっては、師団長自らが独断で退却を命じることもありうる。」
そして6月1日、第31師団長の佐藤幸徳は補給のない状況での作戦継続は不可能であると判断し、独断でコヒマから退却を開始した。
これに対し、牟田口司令官は佐藤を解任。さらに第33師団長、第15師団長と次々に解任し、作戦続行を命じる異常事態となりました。

ビルマ方面軍の川辺正三司令官も「日本とインド両国の運命がかかっている大事な戦いである」と叱咤するも、補給不足は解消されませんでした。
そんな過酷な戦いが続くなか、第3飛行師団長の田副登中将が作戦の無謀さを上層部に再三訴えた結果、7月9日、ようやく撤退命令が出されたのでした。
しかし、英印軍の執拗な追討と、食料不足によって退却戦は地獄と化した。
退却中に約3万人もの将兵が戦死、戦病死した。なお、戦病死者数のほとんどは栄養失調やマラリア赤痢などで倒れていったといわれています。
その退却路には倒れた日本兵の屍が累々と連なり、白骨街道と呼ばれた。
インパール作戦の敗戦責任は追及されることはありませんでした。司令官の命令を無視して独断で撤退した佐藤中将は心神喪失として、軍法会議で無罪となりました。大本営は責任が軍中枢に及ぶことを恐れたのです。
これ以降、日本軍は、ビルマ戦線においても、イギリス軍や中国軍の攻勢に押されることとなるのでした。

今回ご紹介したインパール作戦は、史上最悪の作戦と呼ばれています。なぜ、史上最悪の作戦と呼ばれているのでしょうか。先述通り、この作戦はインドの独立を支援するために実行された作戦です。明確な大義が存在するのです。「日本がアジアの開放のために戦った」典型例と言えるでしょう。
連合軍、もしくはビルマやインドにそうした事実を隠したい勢力が存在するからなのではないでしょうか。インパール作戦を「史上最悪の作戦」とすることで、日本への懺悔精神をさらに強いものにしようとしているのではないかと感じられます。

インパール作戦は、行き当たりばったりな軍上層部が、悪化する戦局を打開する方法を模索している最中に牟田口長官から提案された作戦です。インド独立運動を活性化させ、英印軍をインドから駆逐する突破口になるとみたのです。
しかし、ずさんな補給計画により、日本軍は本来の戦力を発揮出来ず、さらには英印軍の空中補給作戦の確立や、戦力の増強によってインパール作戦は無益な犠牲を出して中止されたのです。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
決定版 太平洋戦争「絶対国防圏」の攻防6      Gakken
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
知識ゼロからの入門 太平洋戦争 半藤一利=著  幻冬舎
手に取るようにわかる 太平洋戦争  瀧澤中=文 日本文芸社