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【硫黄島陥落】なぜ米軍は日本本土に上陸出来なかったのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【硫黄島陥落】なぜ米軍は日本本土に上陸出来なかったのか」というお話です。
今回は、太平洋戦争末期、日本軍が敢闘したの3つの島の戦いを見ていきながら、なぜ米軍は日本本土に上陸出来なかったのかについて見ていきたいと思います。
1. ペリリュー島の戦い
2. 硫黄島の戦い
3. 沖縄の戦い
それぞれ順番に見ていきます。

 開戦以来、日本はハワイを除く太平洋の島々を占領していきました。しかし、これが仇となって日本軍はそれらの占領地に兵力を分散配備して守らなければなりませんでした。
 対するアメリカ軍は兵力を集中して島に攻撃出来たため、「飛び石作戦」が成功し、一歩ずつ日本本土に近づいていくことが出来ました。
 1943(昭和18)年2月にガダルカナル島が陥落、5月には北方のアリューシャン列島のアッツ島で守備隊が玉砕、7月にはキスカ島も守備隊は脱出したものの、米軍に占領された。
 同年11月にはギルバード諸島のマキン・タワラ島が陥落。翌1944年2月にはマーシャル諸島のクェゼリン島、そしてブラウン環礁の守備隊も玉砕しました。
 そして同1944年7月には大正時代から委任統治領であったサイパンを含むマリアナ諸島も陥落しました。
 さすがに日本軍も島の防御態勢を練り直す必要性に迫られました。
 米軍による島の攻略法は以下の通りです。
空襲を仕掛ける→艦砲射撃を仕掛ける→野砲を仕掛ける→敵が怯んだとこで海兵隊を上陸させる。
 タラワやサイパンの防衛戦では水際撃退作戦が取られていましたが、上陸前の米軍による空襲や艦砲射撃が激しく、水際での撃退は全て失敗に終わっていました。そこで日本軍は山岳地帯の洞窟などを利用し、長期持久戦に持ち込む作戦に出ました。

 ということで今回は、そのような自然の要塞を利用して日本軍が敢闘した太平洋戦争末期の3つの島の戦いを見ていきたいと思います。

フィリピン防衛の準備を整えるために、ペリリュー島の日本守備隊は1日でも持ちこたえるために洞窟に陣地を構築し、徹底抗戦をしました。これにアメリカ軍は予想外の長期持久戦を強いられ、大きな損害を出してしまうのでした。

まず、ペリリュー島の戦いですが、以下は日米両軍の兵力とその損害を比較したものです。

日本 アメリ
総員 11,000 48,740
戦死者 10,695 1,749
戦傷者 446 8,010
捕虜 202

 まず、特筆するべきは日本軍の総員に対する戦死者数です。日本軍は全滅するまで戦い続け、対するアメリカ軍も約5倍の兵力をもちながら、戦傷者を多く出しました。戦死者よりも戦傷者が多いということは医療行為や担架で連れて帰る必要もあるため、悪く言えば、足手まといが増えるので不利になるのです。アメリカ軍は占領には成功するも、苦戦を強いられる結果となったのです。

 サイパンテニアンを占領し、グアムも奪回したアメリカ軍は1944年11月24日、パラオ諸島ペリリュー島も占領した。
しかし、このペリリュー島の戦いでは米軍も多くの人的損害を出してしまいました。
アメリカ軍は当初、「こんな小さな島は4日もあれば占領出来る」と豪語していました。
確かに、ペリリュー島は南北9キロ、東西3キロ足らずの小さな島ですが、当時、東洋一と呼ばれた日本軍の飛行場があり、フィリピン防衛の防波堤でもありました。したがって、ここを米軍に奪取されれば、ペリリュー島はフィリピン爆撃の重要な航空基地となってしまいます。
そこで中川州男大佐率いる日本守備隊は、米軍上陸に備えて島の中央山岳地帯の洞窟を利用して強固な防衛戦を構築することにました。
ペリリュー島の日本守備隊は水際撃退作戦には出ず、米軍が上陸後、海岸線から100mほど迫ったところから砲撃を開始しました。その結果、米軍の上陸第1波を撃破することに成功させました。
それでも米軍は圧倒的な数で島に上陸し、次々に日本軍の防衛線を玉砕させていきました。
しかし、中川大佐が築いた山岳地帯を陥落させるのは容易ではありませんでした。中川大佐の戦術は、昼間は要塞である山岳地帯の洞窟に隠れ、夜になると米軍陣地を襲撃するというものでした。
対する米軍は戦車をバリアにしつつ、火炎放射によって洞窟内を焼き払い、日本兵を焼き殺す作戦に出ました。
それでも日本軍は同1944年11月24日に玉砕するまで戦い抜き、生存した日本兵の中には終戦まで戦い抜いた者もいました。
対する米軍はペリリュー島の占領を完了させたことで、同島の飛行場から容易にフィリピンへと航空機を送り込むことが出来るようになりました。しかし、日本軍の予想外の抗戦により、大きな打撃を受けることとなったのでした。

硫黄島でも伝統の水際撃退作戦をやめ、洞窟陣地に立てこもり、出来るだけ長い期間アメリカ軍を釘付けにし、本土上陸までも時間を稼ぐ作戦が取られました。日本軍の神出鬼没で至近距離から攻撃を受けた米軍は、太平洋戦争で唯一、日本軍を上回る戦傷者を出し、苦戦を強いられたのでした。

次は硫黄島(いおうとう)の戦いです。まず、日米両軍の兵力とその損害を比較したものです。

日本 アメリ
総員 22,000 110,000
戦死者 18,370 6,821
戦傷者 21,825
捕虜 1,023

大東亜戦争アメリカ軍が反攻に転じて以降、唯一アメリカ軍の戦死傷者が日本軍のそれよりも多かった戦いがありました。それが硫黄島の戦いでした。ここでも、特筆するべきは日本軍の総員に対する戦死者数です。日本軍は全滅するまで戦い続け、対するアメリカ軍も5倍の兵力を持ちながら、多くの戦傷者を出し、苦戦を強いられる結果となりました。

1944年6月、小笠原兵団の指揮官として硫黄島に赴任した栗林忠道中将は、ペリリュー島の中川大佐同様に、島全体を要塞化して米軍の進攻を近距離から迎撃する方法を取りました。
日本守備隊は天然の洞窟を利用して地下に陣地を築き、兵士たちはシャベルやつるはしをふるい、それぞれの陣地と陣地をつなぐ連絡の開通作業を行いました。
しかし、硫黄島はその名通り、洞窟内のあらゆる場所から硫黄や亜硫酸ガスが吹き出す危険な島で地下20mから30mもの地下道を四方に掘ることは容易ではなく、5分以上連続して作業することは出来ず、作業中に倒れたり、病気になったりした者もいました。土木機械や資材、水や食糧・医薬品も絶対的に不足し、米軍の空襲も続くような悪条件でも兵士たちは作業を続けました。
栗林中将も兵士たちを鼓舞し続けます。
「我々の目的は米軍を撃滅することではない。米軍をこの島に釘付けにし、米軍の本土上陸を1分でも1秒でも遅らせることが目的だ。その際、この自然の要塞は必ずや我らの味方となってくれると信じて疑わない。」
栗林中将はこの作戦の途中、中将から大将へと昇進しました。栗林大将はサイパン島の玉砕のような万歳突撃をするのではなく、あくまで陣地の死守を命じており、1日でも長く、米軍を硫黄島に留める戦術が徹底させました。
硫黄島の戦いとは、本土決戦の準備が整うまでの時間稼ぎのための戦いだったのです。

1945(昭和20)年2月19日、アメリカ軍海兵隊硫黄島に上陸しました。上陸に先立って行われた空襲と艦砲射撃によって硫黄島の日本軍は全滅したはずだと米軍は考えました。
ところが、日本軍は息を潜めて潜伏しており、ぞくぞくと米軍が上陸し、海岸線から100m地点に到達した時点で、突然迎撃を始めました。
不意を突かれた米軍は日本軍の猛攻を浴び、上陸から5日目にして5000人の死傷者を出してしまいました。
2月23日、多くの犠牲を出しながらも、米軍は擂鉢山(すりばちやま)を占領しました。6人のアメリ海兵隊員が星条旗を立てようとしている瞬間の写真は非常に有名です。

以降、日本軍の戦いはゲリラ戦となりました。擂鉢山占領後も日本軍は激しい抵抗を続けたのです。
日本軍は完成こそしなかったものの、全部で18キロにも及んだ地下道に身を隠し、神出鬼没で米兵に襲い掛かった。それを米兵が追撃しようとすると、日本兵はまた地下に隠れてしまう。
所在の掴めない日本兵の攻撃に米兵は大いに苦しめられました。
これに対し、米軍はM4シャーマン戦車を前面に押し立てて、火炎放射器を使って、洞窟内を焼き払い、日本兵を焼き殺す作戦に出ました。これによって多くの日本兵が焼き殺され、運よく生き残った者も、食糧や水もない洞窟に取り残されるという結果になりました。
それでも日本軍は洞窟内に息を潜め、隙あれば、米兵に襲い掛かった。
「一人十殺!それまでは絶対に死んではならない。」
この栗林大将の信念に基づき、日本軍は敢闘したのです。
しかし、物量に勝る米軍に日本軍はしだいに追い詰められていき、そして同年3月25日、日本軍は最後の突撃を試みて、全滅した。
この日、栗林大将も陣頭に立ち、突撃するも、彼がその後どうなったかは不明です。一説によると、拳銃で自殺したといわれています。
いずれにしても、日米の1カ月間におよぶ死闘の末、米軍はようやく硫黄島の占領を完了させ、硫黄島は米軍の太平洋最大の航空基地となり、日本本土はB-29以外にも多くの航空機が飛び立ち。米軍の本土空襲はさらに激しさを増していくのでした。

本土決戦を遅らせるために、沖縄でも地下壕に潜んで1日でも長く抵抗を続ける作戦が取られました。しかし、そんな日本軍に沖縄県民を保護する余裕はなく、多くの犠牲者を出してしまうのでした。

そして、日本本土唯一の決戦場となった沖縄の戦いです。以下は両軍の兵力とその損害を比較したものです。

日本 アメリ
総員 約116,400 約548,000
戦死者 約107,000 約14,000
戦傷者 約72,000
捕虜 10,755

ペリリュー島硫黄島に比べ、ケタ違いの被害が出ています。しかし、これは日本軍人の犠牲者であり、民間人を含んでいません。沖縄県民も約94,000人が戦闘に巻き込まれて命を落としたとされています。

フィリピンでの戦いが続いている間、台湾と九州の間に位置する沖縄でも防備が進められていました。司令官の牛島満中将も、少ない兵力でアメリカ軍を沖縄に長く釘づけにする持久戦を取りました。
対する米軍は、空母16隻を基幹とする機動部隊が牽制のために西日本を空襲し、すぐあとに結集した1700隻にもおよぶ大船団が沖縄に上陸しました。アメリカではこれを太平洋戦争最大の上陸作戦であったと評しています。

しかし、日本軍も極めて強固な陣地を構築しており、アメリカ軍は艦砲射撃と戦車隊で攻撃するも、陣地を突破出来なかった。しかし、5月に入ると、日本軍は一気に劣勢に立たされ、どんどん追いつめられていった。それでも抗戦を続けたが、6月中旬には限界に達してしまいました。
さらに、沖縄戦では特攻作戦(菊水作戦)が繰り返されました。100機、200機と出撃した特攻機は、敵空母から飛び立った戦闘機や嵐のような対空砲火で大半が撃墜されながらも、敵艦隊に突入していきました。4月には戦艦「大和」も9隻の巡洋艦駆逐艦とともに沖縄に向けて出撃したが、翌日、米軍機の激しい猛攻に遭い、撃沈されました。
沖縄戦に関しては別の記事でもご紹介したいと思います。

沖縄戦に目途がついたアメリカ軍は九州そして関東へと上陸する作戦を立てました。しかし、これまでの日本軍の予想以上の激しい抵抗にあった米軍は本土決戦を行った場合の犠牲を懸念するようになり、その作戦を先送りにしました。これによって日本側に講和を選択するまでの時間的余裕が出来、本土決戦を幻の作戦とすることが出来たのでした。

こうして沖縄制圧にも目途がついた1945年6月、米軍は本土決戦を残すのみとなりました。しかし、硫黄島や沖縄での日本軍の抵抗が予想以上に激しく、死傷者を大勢出した米軍の中には、本土決戦を行った場合の犠牲を懸念する声が強まりました。
アメリカの統合参謀本部議長のレーヒ提督は言いました。
「すでに日本の主要都市は爆撃している。そこに人命と経費の大損害を賭けてまで侵攻する理由はどこにあるのだろうか。」
海軍作戦本部のキング本部長も同調しました。
「地上作戦など行わずとも、日本を降伏させることが出来るはずだ。」
しかし、これに反対したのが、マッカーサー大将でした。
「日本を包囲して孤立させ、爆撃で日本を屈服させることは人命の損失は最小だが、戦争を長引かせる危険性がある。九州を攻撃し、航空基地を設置し、陸海空の統合兵力によって関東に攻め入るのだ。しかし、天候の関係上、作戦実行は11月とするのが最適である。」
このマッカーサーの主張によって、アメリカ軍は九州侵攻作戦(オリンピック作戦)と関東侵攻作戦(コロネット作戦)が立てました。
大変強気な発言をしたマッカーサーですが、内心はビクビクしていました。建前上は、天候の関係で先送りされた本土上陸作戦でしたが、本音のところはアメリカ軍も躊躇していたのです。
「日本との戦いは全滅させるまで終わらないだろう。奴らはたとえ人口が半分になろうとも抗戦してくるかも知れない。特攻隊も次々に突っ込んでくる。一体どうなってしまうのか想像もつかない。」
オリンピック作戦の攻撃予定日は1945(昭和20)年11月1日とされ、6月18日、陸海空の3軍の最高首脳が集まった会議でトルーマン大統領が承認しました。
しかし、トルーマンは開発中の原子爆弾によって日本を降伏させることに期待をかけており、コロネット作戦に関しては保留するよう命じました。
対する日本軍も、アメリカ軍の侵攻は梅雨シーズンが終わってから九州に上陸し、そのまま関東にも上陸すると予想しており、本土決戦にむけて準備を進めていくのでした。
こうして日米両軍が覚悟した本土決戦作戦でしたが、同1945(昭和20)年8月15日に日本が降伏したことによって本土決戦は発動されることなく、幻の作戦となりました。
歴史にイフは禁物ですが、もし本土決戦が起きていたとしても、日本軍に勝機はなかったでしょう。
この頃の日本本土では小銃さえもそろえることが出来ず、航空戦力も多くが未熟なパイロットで、物資弾薬も集まらず、米軍に望むような一撃を与えることなどほとんど不可能でした。
そういう意味では、日本が本土決戦など選択せずに、目を覚まして降伏を選択し、国家再建に望みをつないだことは確かに正解だったといえるでしょう。
今回紹介した硫黄島や沖縄の戦いで手酷い損害を受けた米軍が本土上陸を先送りしたことで、日本が降伏に踏み切るまでの時間的な余裕が出来た。
そういう意味では、硫黄島や沖縄で米軍の進攻を必死で食い止めてくれた人達こそ、本当の英雄と言えるでしょう。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
歴史群像シリーズ 決定版 太平洋決戦 7 「比島決戦」  Gakken
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
太平洋戦争「必敗」の法則   太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
知識ゼロからの入門 太平洋戦争 半藤一利=著     幻冬社