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【ガダルカナル攻防戦2】激闘する日本とアメリカ

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【ガダルカナル攻防戦2】激闘する日本とアメリカ」というお話です。

前回に引き続き、ガダルカナル攻防戦の2回目をお伝えします。

1942(昭和17)年9月13日、一木支隊に続いて送り込んだ川口支隊(約6200人)も総攻撃により全滅したという報を受けた大本営はここでようやく、アメリカ軍が本気でガダルカナル島に兵力の集中投入していることを悟りました。
一方、ガダルナカルを奪取したアメリカ軍は、日本軍が完成間近にまで建設していた飛行場をさらに拡充させ、ヘンダ―ソン飛行場と名付けていました。
そんなヘンダ―ソン飛行場は大型爆撃機まで離発着できるくらいにまで拡充されており、日本軍は再度上陸部隊をガ島に送り込み、飛行場の奪取を計画するも、これでは容易に上陸できません。
そのため、日本軍が計画したのは、ヘンダ―ソン飛行場を徹底的に攻撃し、一時的に使用不可能とすることでした。
ここから日本とアメリカによるガダルカナル島の争奪戦が本格化するのです。

大本営陸軍部は第17軍司令部と、蘭印に張り付いていた第2師団を引き抜いて、ガ島に向かわせることにしました。
それを海上から艦砲射撃で援護する海軍もガ島を占領する米軍に徹底抗戦する構えを見せました。その際、ミッドウェーでの教訓が存分に生かして戦いに臨みました。
索敵をきちんと行う。
2つの目的を同時に追わない。
巡洋艦を囮(おとり)にする。
など。

海軍の目的はただ一つ、飛行場を艦砲射撃して使用不能にする。
そのスキに陸軍の上陸部隊が飛行場奪還を目指して突き進む。という流れです。
健軍以来、犬猿の仲だった陸軍と海軍が珍しく歩調を合わせて戦闘に臨んだのがこのガダルカナルの攻防戦だったのです。

10月11日、ガ島の制空権・制海権を米軍に握られる中、第17軍司令部と第2師団を乗せた水上機母艦「千歳」「日進」と6隻の駆逐艦からなる輸送船団はガ島へ向かいました。
この輸送船団を援護するためにガ島の命令を受けた第6戦隊も出撃しました。第6戦隊は五藤存知を司令官とする重巡「青葉」、「加古」、と3隻の駆逐艦からなる第6戦隊です。第6戦隊の任務はヘンダ―ソン飛行場への砲撃です。
一方、この日本軍の出撃を偵察機によって知った米軍も重巡2隻や軽巡2隻、駆逐艦5隻をガ島近くのサボ島沖に進出させました。
サボ島沖夜戦の勃発です。

第6戦隊がサボ島を過ぎたとき、旗艦「青葉」が突然砲撃を受けました。「青葉」は味方の誤射と思い込み、「ワレ、アオバ」と発光信号を繰り返し送りました。
その直後、艦橋に砲弾が直撃し、青葉に乗艦する司令官・五藤が戦死してしまいました。

しかし、この戦いのスキをついて、「日進」「千歳」の輸送船団はガ島海岸に着くことが出来、物資の陸揚げと第17軍司令部と第2師団の上陸にも成功しました。
そこで上陸部隊が見たもの。それは、ガリガリにやせ衰えた日本兵でした。先に上陸していた部隊は、補給を断たれ、飢餓状態に陥っていたのです。
彼らは密林の中から次々に姿を現し、上陸部隊に食糧や薬を要求。しかし、第17軍司令部は飢えに苦しむ将兵たちの状況を何も理解しようとせず、ただ精神論を振りかざし、飛行場奪還作戦の続行を命令するだけでした。

サボ島沖夜戦で「青葉」が火だるまになっている頃、栗田健男率いる戦艦「金剛」「榛名」を中心とした軽巡1隻、駆逐艦9隻からなる挺身攻撃隊がガ島に接近してきました。
「青葉」以下第6戦隊は単なる囮だったのです。
それに加えて、近藤信竹中将率いる空母「飛鷹」「隼鷹」なども支援艦隊として加わりました。
日本軍は何としてもヘンダ―ソン飛行場への砲撃を成功させようとしたのです。
午後11時35分、日本軍によるヘンダ―ソン飛行場砲撃が始まりました。闇夜を切り裂くように放たれた吊光弾はヘンダ―ソン飛行場を照らしました。
「砲撃開始!」
戦艦「金剛」「榛名」をはじめ、日本艦隊の16門の36センチ主砲が一斉に火を吹きました。
日本軍の艦砲射撃に米軍は大パニックに陥りました。
米軍は日本艦隊の接近に全く気付いておらず、飛行場は一瞬にして紅蓮の炎に包まれました。飛行場に駐在していた航空機のおよそ7割に相当する50機以上が消失。燃料庫も火災を起こし、弾薬が誘爆を起こしました。
滑走路も穴だらけとなり、日本軍の目論見とおり、ヘンダ―ソン飛行場は使用不可能となりました。
日本軍の砲撃は午前1時に終了。このときまでに日本軍は実に918発もの主砲弾を発射していました。
これに追い打ちをかけるように15日夜、さらに重巡「鳥海」「衣笠」がガ島に接近。20センチ砲弾を両艦合わせて752発も撃ち込みました。

一連のヘンダ―ソン飛行場砲撃作戦によってその甲斐あって、後続の第2師団を乗せた輸送船団は海岸まで無事につくことが出来、上陸を果たしました。
ガダルナカル島の陸軍兵力は総勢2万人に達しました。
兵力の充実を見た陸軍は、ヘンダ―ソン飛行場への総攻撃の日を10月22日としました。海軍もこれを支援するべく、大規模な艦隊をソロモン沖へと派遣しました。
それは先の近藤信竹中将率いる空母「隼鷹」「飛鷹」、戦艦「金剛」「棒名」を中心とした前進部隊。南雲忠一中将率いる空母「翔鶴」「瑞鶴」、戦艦「比叡」「霧島」を中心とした機動部隊となった。
対するアメリカ軍も、この時期にはハルゼー中将率いる空母「ホーネット」「エンタープライズ」からなる機動部隊をガ島北部に展開し、さらに戦艦「ワシントン」「サウスダゴダ」など強力な艦隊で日本の進撃を警戒していました。


しかし、ガ島の陸軍部隊がジャングルに阻まれ、予定日には総攻撃をかけられそうにないことが分かった。
25日早朝、日米双方の機動部隊はお互いに策敵機を飛ばし、ほぼ同時刻にいる「敵機動部隊発見」の報を味方に告げました。
日本側は62機の第一次攻撃部隊、44機の第二次攻撃部隊を発艦させ、ほぼ同じ時刻、アメリカ側も合計73機の攻撃隊を3派に分けて、発艦させていました。
日米両攻撃隊は互いに敵艦隊目指して進撃していたため、途中ですれ違い、激しい航空機動戦が展開されました。ソロモン諸島北方海域における南太平洋海戦の勃発です。
日本側の第一次攻撃隊は「ホーネット」に攻撃を集中。続く第二次攻撃隊は「エンタープライズ」と戦艦「サウスダゴダ」に攻撃を集中。
さらに「瑞鶴」から発艦した第三次攻撃隊によって「ホーネット」は遂に撃沈しました。
アメリカ軍の攻撃隊も、大挙して日本艦隊に襲いかかります。しかし、「翔鶴」を中破させるにとどまりました。
これによって、アメリカ軍は太平洋戦線において行動可能な空母を一時的に全て失いました。つまり、日本海軍はこのとき、一応はアメリカ太平洋艦隊に勝利したことになるのです。
日本軍にはまだまだ空母が残っているため、一時的に有利な状況が生まれました。
しかし、日本海軍もこれまで多くのベテランパイロット失っており、その状況を生かすことが出来ませんでした。
そんな傷だらけの大勝利でしたが、帝国海軍の久々の大勝利に日本国内は再び熱狂しました。

第17軍によるヘンダ―ソン飛行場への総攻撃も失敗し、ガダルカナルでは依然としてアメリカ軍が主導権を握っていました。
何としても飛行場を奪取しようとする日本と、それを死守するアメリカ。両者のにらみ合いが続きました。
11月に入ると、再び挺身攻撃隊が編成されました。戦艦「金剛」「棒名」によるヘンダ―ソン飛行場砲撃の成功をもう一度ということです。新たに第38師団がガダルカナルに接近し、させるべく、兵員と武器弾薬、食糧などを満載した輸送船11隻でガ島への上陸に送りこみました。
今回の挺身攻撃隊には阿部弘毅中将の第11戦隊が当てられ、戦艦「比叡」「霧島」と駆逐艦14隻が出撃、11月12日の深夜にはガ島に接近するも、米軍の応戦を受けるカタチとなりました。
第三次ソロモン海戦第一夜戦の始まりです。
混戦の中、日本艦隊は米艦隊に大きな損害を与えたものの、「比叡」は大破・自沈。日米両艦隊の混戦の中、駆逐艦「夕立」が米艦隊の真っただ中に捨て身の突入をし、主砲を乱射。米艦隊を大いに混乱させました。その後「夕立」は航行不能なほどの被害を受けるも、戦艦「比叡」「霧島」の奮闘の末、多くの軽巡艦や駆逐艦を撃沈させることに成功しました。火力に勝っていた日本軍はアメリカ軍をほぼ壊滅させました。
しかし、アメリカ軍の集中攻撃によって「比叡」が炎上。不運にも舵が全くきかなくなってしまいました。阿部少将は「比叡」をガ島に座礁させ、陸上砲台とすることを考えるも、間もなくアメリカ航空機の空襲を受けて、遂に自沈処置を取らざるを得ませんでした。
結局、ヘンダ―ソン飛行場への砲撃は失敗したのでした。

翌11月13日、第38師団を乗せた輸送船団11隻によるガ島上陸作戦が開始されました。これを援護するべく、日本海軍も戦艦「霧島」を中心としたで飛行場への攻撃を試みます。前日の砲撃は失敗したものの、輸送船団の上陸は成功させなければいけません。
日本軍の再攻撃を予測していたアメリカ軍も最新鋭の戦艦「ワシントン」「サウスダゴダ」を急行させ、迎撃態勢を整えていました。第三次ソロモン海戦第2夜戦の勃発です。
日米両軍はサボ島沖にて激しく衝突。「霧島」は奮闘して「サウスダゴダ」を大破するも、自身も火だるまになり、遂にサボ島沖に姿を消してしましました。この海戦ではアメリカ軍は戦艦「サウスダゴダ」の大破、駆逐艦3隻の撃沈という被害を受け、一方の日本軍も戦艦「霧島」と駆逐艦1隻を失う被害を受けました。
そして、第38師団を乗せた輸送船団11隻は途中で米空母「エンタープライズ」やガ島飛行場より飛び立った航空部隊の攻撃により、多くが撃沈。かなり多くの武器・弾薬・食糧が失われた末、4隻のみが海岸に着きました。
2日間におよんだ第三次ソロモン海戦で日本軍は制空権・制海権はおろか、輸送部隊の上陸にも失敗したのでした。

これ以降、日本軍による大規模な補給は行われることはありませんでした。
11月末には食糧が詰まったドラム缶を飢えた将兵の待つガ島へ投下し、島内の兵士が受け取るという輸送が始まっていくのでした・・・・・
つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献

ガダルナカル 西村誠=著 光人社
太平洋戦争「必敗」の法則 太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
知識ゼロから入門 太平洋戦争 半藤一利=著  幻冬舎
手に取るようにわかる 太平洋戦争 瀧澤中=文  日本文芸社
仕事のミスが絶対なくなる頭の使い方 宇都出雅巳=著 クロスメディア・パブリッシング