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【ガダルカナル攻防1】なぜ逐次投入がされてしまったのか

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【ガダルカナル攻防1】なぜ逐次投入がされてしまったのか」というお話です。

 本題に入る前に、ある戦争用語を解説いたします。
 戦争のときに一番やってはいけないのは、「逐次(ちくじ)投入」といわれるものです。これは、例えば味方が5000の軍勢、敵が5000の軍勢なのに、500人ずつ小出しにして敵に当たらせるような戦法のことを言いますが、これをやると必ず負け戦となります。つまり、相手が5000なら、こちらも5000で出さなくていけないのです。向こうは全力できているのですから、小出しに兵を出しては負けるに決まっています。
 しかし、今回ご紹介するガダルカナル攻防戦では、そうした兵力の逐次投入が行われてしまいました。

 なぜ日本はそんな愚策をやってしまったのでしょうか。
 ということで、今回もストーリーを展開しながら、その真相を解き明かしていこうと思います。

 ガダルカナル島をご存知でしょうか。
 日本人にはあまりなじみのない島かもしれません。それもそのはず、日本から6000キロも離れた南太平洋に浮かぶ「ソロモン諸島」という国に属する栃木県とほぼ同じ広さの島です。
 現在、この島にあるホニアラ市は「ソロモン諸島」の首都であり、都市の人口は6万人を超え、近代的なビルやホテルも立ち並ぶ立派な都市となっています。
しかし、昭和17年まで遡ると、島の人口は5千人ほどで、海岸線にはサンゴ礁が広がり、島はすべて亜熱帯のジャングルで覆われ、わずかにヤシの実が栽培されている程度の静かで美しい‘南の島‘でした。
 以下は、アメリカの従軍記者による証言を記載したものですが、驚くほど細かな描写がされています。

「まるで地獄のような場所だった。拳くらいの大きさの毛が生えた真っ赤なクモ、腰まで届くくらいの巨大トカゲが辺りを這いずり回っている。さらに見たこともないほど巨大な蛭(ひる)が木から落ちてくる。シロアリに噛まれた跡が何日も焼けるように痛んだ。
川のほとりで洗濯や水浴びなどしようものなら、ワニに尻を食い取られかねない。
数時間もすれば体が腐ってしまうほどのぬかるみと湿気・・・・。頭上から水がしたたり落ちてくるほどの熱帯雨林の蒸し暑さに誰もが体力を奪われた。」
(出典)The Americans

 こんな小さくて無名な島をめぐって日本とアメリカがおよそ半年間にわたって陸・海・空の3つの面で死闘を繰り広げたのです。

 そんなガダルカナル島の攻防戦は、ミッドウェーと並んで太平洋戦争のターニングポイントとなった戦いです。ミッドウェーが日本海軍の大敗北ならば、ガダルカナル日本陸軍の大敗北です。そんなガダルカナル攻防戦の大きな敗因は2つ。1つは兵力の逐次投入。2つ目は補給の絶対的な不足。

 今回は1つ目の兵力の逐次投入を見ていきます。

 

 太平洋戦争勃発からおよそ半年が経った1942(昭和17)年5月、第1段作戦(南方作戦)で日本軍は連戦連勝を重ね、マレー・シンガポール、香港、蘭印、南部ビルマ、フィリピンと次々に制圧、国民は緒戦の勝利に大熱狂していました。
 第1段作戦が順調に進みつつある中、次の第2段作戦の決定において、陸軍と海軍で意見が対立しました。
 陸軍参謀本部は「東南アジアの資源地帯を確実に押さえ、長期持久体制を確立する」ことを主張しました。

 対する海軍軍令部は「オーストラリアを攻略し、米豪の連絡を遮断する。」ことを主張しました。
 防備を強化しようとする陸軍に対し、攻撃重視の海軍で意見対立が起きていまいました。
 しかし、結局は海軍の意見が通り、第2段作戦は「フィジーサモアニューカレドニアを攻略し、米豪の連絡を遮断する(FS作戦)」というものになりました。
フィジーサモアニューカレドニアは、アメリカ(ハワイ)からオーストラリアに至る要衝であり、通り道です。この米豪のシーレーンを遮断してオーストラリアを孤立させるというものです。その米豪分断作戦の一環として、ポートモレスビーを攻略する作戦(MO作戦)が進行しました。

 さらに、連合艦隊司令長官山本五十六が「オーストラリア攻略よりも、先にハワイを叩き、アメリカの太平洋における動きを完全に封じるのだ。」と主張。

 こうしてフィジーサモアニューカレドニア攻略作戦(FS作戦)、ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)、そしてミッドウェー攻略作戦(MI作戦)が計画されました。

 ところが、1942(昭和17)年5月4日~7日に起きた日米による珊瑚海海戦が勃発によってニューギニアポートモレスビー上陸作戦(MO作戦)は失敗に終わりました。代わりに大本営海軍部はフィジーサモア方面への進出(FS作戦)を決定しました。ラバウルからソロモン諸島群、サモアまでを制圧すればアメリカとオーストラリアの交通路を遮断でき、先の珊瑚海海戦で頓挫してしまったポートモレスビー攻略が可能になります。

 日本海軍はガダルカナル島(以下、ガ島)の北40キロ、フロリダ島にある小さな島・ツラギを占領。ここにはイギリスが植民地とするソロモン諸島を経営する高等弁務官や、オーストラリア軍の水上基地があり、基地はそっくりいただいた日本軍でしたが、さらにこの基地を守るための飛行場が欲しいということで辺りの島を物色した結果、ガダルカナル島北部に位置するルンガ岬に平坦な地を見つけ、そこに飛行場を設営することにしました。
 しかし、ガ島はラバウルの日本軍基地から零戦(零式艦上爆撃機)が飛び立って戻ってこられるほぼ限界の1000キロも離れたところにありました。これが後に補給の計画を招いてしまうのです。

 さて、日本海軍は同1942(昭和16)年7月1日より、ガ島のルンガ岬に飛行場の建設に着手しました。建設にあたったのは海軍の設営部隊2600人でしたが、彼らは工兵であり、ほとんど丸腰の状態で、陸戦隊など戦闘要員は300人程度しかいませんでした。
 大本営は「米軍の本格的な反攻は昭和18年以降になるだろう」と予測していたため、南太平洋などに常備軍を多く配置していなかったのです。

 一方、米軍も日本軍のソロモン諸島への進出は、オーストラリアとの輸送路を遮断される危険性があるとして、早急な対応が迫られることになりました。
開戦時より連合国軍として同盟を結んでいたアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアによる共同指揮組織は、この頃にはすでに崩壊しており、太平洋戦線で日本の進撃を食い止められるのはアメリカのみとなっていました。

 同1942年6月4日のミッドウェー海戦で日本軍の快進撃を阻止した米軍は、かねてから準備中だったソロモン群島に対する本格的な反撃作戦に着手しました。
それは、ニューブリテン・ニューアイルランドニューギニアの奪還を目指す「ウォッチタワー作戦」と呼ばれました。遂にアメリカがのろしをあげたのです。
同1942(昭和17)年7月4日、たまたまガ島上空を飛んだアメリ偵察機が建設中の日本軍飛行場を発見。ここに日本軍の航空機部隊の進出を許せば、米豪の連絡網は完全に遮断されると判断した米軍は「ウォッチタワー作戦」の第一目標を「ガダルカナル島の飛行場奪取」としました。
連合国軍は、南太平洋に浮かぶ100余りの島々に監視所を設け、沿岸監視隊が日本軍の行動を見張りました。沿岸監視員の多くは貿易商や農園、ヤシ園の経営者など民間人で構成されていました。

その中で、ガ島にも3人の沿岸監視員がおり、隊員たちは偵察という本来の任務とともに、現地住民に反日工作を行い、日本軍が飛行場の設営に着手すると、住民たちは「好意的に」その作業を手伝いました。

日本軍の飛行場建設は順調に進み、8月5日には長さ800メートル、幅600メートルの滑走路が完成する見込みとなりました。一方で工事の進捗状況は随時、米軍に送られ、飛行場が完成間近となった8月5日夜、住民は日本軍の前から忽然と姿を消してしまいます。
アメリカ軍が上陸したのは、その2日後の8月7日早朝でした。
約2万人のアメリ海兵隊を乗せた30隻以上の米豪連合艦隊はツラギ島及びガダルカナル島にそれぞれ1万人ずつ分かれ、上陸を果たしました。
「敵、来襲」
この電文が打たれた後、ツラギ島からは一切の連絡が途絶えてしまいました。ツラギの日本守備隊は上陸した1万のアメリ海兵隊によってほぼ全滅させられたのです。

そしてガ島に上陸した1万人の海兵隊も日本軍が完成させた飛行場を占領してしまいます。日本軍は必死に応戦するも、300人の戦闘要員では多勢に無勢、飛行場を放棄せざるを得ませんでした。

「米軍、ガ島に上陸す」
その報を受けたラバウルの日本軍はただちに飛行場を奪還するべく、ただちに反撃開始を企図。8月7日にラバウルを出港した三上軍一(みかみぐんいち)中将率いる第8艦隊は翌8月8日深夜、米海軍を急襲しました。第一次ソロモン海戦の勃発です。
この海戦で日本軍は敵重巡洋艦4隻などを撃沈させる大勝利を収めました。しかし、米艦隊に守られていた輸送船団を攻撃せずに戦場を去っています。これには米軍さえも首をかしげました。
輸送船団を取り逃したことで、連合艦隊司令長官山本五十六は大激怒したようです。これによってガ島のアメリカ軍は多くの武器・弾薬・食糧、そして戦車の陸揚げに成功。長期持久体制を確立するべく、その陣地の構築を始めていきました。

日本海軍は陸軍に、ガ島奪還に協力するよう上陸部隊の派遣を要請しました。
ガダルカナルに米軍上陸の報を受けた大本営陸軍部では、誰一人としてその島の名前を知りませんでした。大本営では陸軍と海軍は戦略的なすり合わせはあっても、戦術的な個々の作戦においては情報を共有していませんでした。相変わらずまとまりのない帝国陸海軍です。
しかし、第一次ソロモン海戦での勝利の報を受けた大本営陸軍部では「たいしたことはないだろう」という楽観論が高まるとともに、第17軍に編入された一木清直大佐率いる一木部隊約2400人を上陸させることにしました。このとき大本営陸軍部は、敵の兵力「2万人」を2000人と見間違えてしまったのです。
「昭和18年までは米軍は本格的な反攻をしてこないだろう。ガ島に上陸した米軍はほんの偵察部隊程度のものであろう」
このように高をくくっていたのです。
そうした思い込みが、このような間違いを犯してしまったのです。
一木支隊に続いて第35旅団を基幹とする川口支隊約5000人の投入も決定されました。これだけでも逐次投入になるというのに、2400人の一木支隊はさらに先駆隊と後続部隊に分散させられることになりました。というのも、それまで使っていた大型の輸送船では鈍足になるとして、少数輸送でも駆逐艦などの快速船による急速輸送に切り替えようというのです。駆逐艦がガ島近くの島(ショートランド)で待機し、夜間にガ島へと接近。上陸部隊を降ろして明け方までに戻るのです。
これを日本軍の将兵たちはこれを「ねずみ輸送」として自嘲しました。
こうして一木支隊の先駆隊916人はガ島を目指して出港しました。
8月18日午前0時、一木支隊は、ルンガ岬から東に35キロほど離れたタイボ岬に上陸しました。夜間の上陸だったためか、アメリカ軍からの攻撃を受けることはありませんでした。

上陸した一木支隊は小銃と手りゅう弾程度の軽装備でしたが、士気は高く、飛行場の奪還もすぐに完了すると思い、後続部隊を待つことなく、海岸線に沿って米軍が占領を続ける飛行場へと向かいました。一木支隊は中国戦線でも活躍し、夜陰に紛れて銃剣突撃を得意とする部隊です。そんな一木支隊は8月21日未明、夜陰に乗じて総攻撃を仕掛けました。しかし・・・・。
ドドドドドドドドドォォォォォ
このとき、米軍は2万の将兵が重砲、機関銃、そして戦車を装備して待ち構えていたのです。米軍の兵力を過小評価していた一木支隊は、ほぼ全滅してしまい、一木清直隊長もピストルで自決しました。

これを受けた日本陸軍はメンツを潰されたことに怒り、何が何でも飛行場を奪還しようと考えます。
陸軍は残りの一木支隊1300人を後続部隊としてガ島に上陸させようと試みました。それに伴い、海軍の方でも「ミッドウェーの復讐が出来る」と小躍りし、ミッドウェー海戦後に再編された空母3隻を筆頭とする機動部隊をガダルカナル島へと向かわせました。
一木支隊1300人の上陸は8月25日でしたが、その前24日、日本軍の機動部隊は航空部隊を発艦させ、ガ島の飛行場を空襲しました。一方の米軍は、空母「サトラガ」から発艦した航空機が日本軍を迎え撃ちます。
第二次ソロモン海戦です。
日本軍は米空母「エンタープライズ」と「サトラガ」の2隻を攻撃するも、「エンタープライズ」の甲板に損害を与える程度にとどまりました。
対する米軍は日本空母「龍驤(りゅうじょう)」を攻撃し、これを撃沈させました。
一木支隊の後続部隊を乗せた輸送船団も、米軍の爆撃を受け、結局、上陸を阻止されてしまいました。

一木支隊の陸揚げ失敗を受けて、連合艦隊司令部は大型の輸送船団を用いたガ島への兵力輸送をやめ、駆逐艦などの快速船によるや潜水艦による輸送に切り替えました。
次に派遣される川口支隊も駆逐艦による小分け輸送がされることになりましたが、これに支隊長の川口少将は猛反対しました。
これによって川口支隊の出発は遅れることになりました。
結局、川口支隊は駆逐艦での輸送に決まり、5000人の兵員とその物資を50名程度に小分けして出撃させるという逐次輸送をやってしまいました。
そんな川口支隊の輸送作戦は8月26日に始まり、9月7日にようやく川口支隊約5000人の上陸が完了しました。彼らは一木支隊のような海岸線を通るのではなく、途中から迂回して密林地帯を通って、背後から飛行場に総攻撃をかける作戦に出ました。「日本軍は海から来るはずだ」と思い込んでいるアメリカ軍の防備が手薄であろう内陸部から総攻撃を仕掛けようというのです。背後からの奇襲攻撃です。
そして9月8日、川口支隊は飛行場に突進しました。しかし・・・・。
ドドドドドドドドドォォォォォ
米軍は飛行場の背後にまで堅固な防衛線を敷いており、機関銃と自動小銃の乱射などで応戦。川口支隊は600人以上の死者と、500人以上の負傷者を出し、ジャングルへと撤退しました。
日米の攻防戦は続きます。

今回はガダルカナルの逐次投入についてご紹介しましたが、大本営には「米軍の反攻は昭和18年以降だろう」という「思い込み」がありました。その「思い込み」が2万という数字を2000という数字に見間違えるという「うっかりミス」を招いてしまったのです。その結果、敵の兵力「2万人」に対し、わずか2400人の一木支隊を先駆隊と後続部隊に分けるなど兵力を小出しにして向かわせる逐次投入をやってしまいました。その後も川口支隊6400人など日本軍が思い込みと間違いに気づくことはなく、それに気づくのは相当後になってからです。

「思い込み」とは非常に恐いものです。こういった注意力にかかわる「うっかりミス」や「見落とし・見間違え」をいとも簡単に招いてしまいます。
人はしっかり見ているようで見えていないのです。私達はこの世界をそのまま見ていると思っていますが、大間違いです。というのも、目から入った情報は脳で処理されることで初めて認識されます。しかし、その脳に先入観や思い込みが潜んでいれば、眼で見た情報はその先入観にからめとられてしまうのです。この世界を見ているのは「眼」ではなく、「脳」なのです。
特に現代のようなコンピューターやネットワークが普及している時代ではそのような「うっかりミス」が「うっかり」では済まされない時代になっています。
例えば、巨大システムのプログラムミスなど、ほんの1桁分の誤りが銀行のATMシステムや飛行機の運行システムなどをダウンさせて、何十万、何百万もの人に影響を与えたりします。
ミスの規模は小さなものでも、そのミスの代償は大きな損害や事故につながることも少なくはないのです。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
ガダルナカル            西村誠=著 光人社
太平洋戦争「必敗」の法則      太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
知識ゼロから入門 太平洋戦争    半藤一利=著  幻冬舎
手に取るようにわかる 太平洋戦争  瀧澤中=文  日本文芸社
仕事のミスが絶対なくなる頭の使い方 宇都出雅巳=著 クロスメディア・パブリッシング