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【ミッドウェー海戦3】本当に痛手は‘援蒋ルート‘を遮断出来なくなったこと

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【ミッドウェー海戦3】本当に痛手は‘援蒋ルート‘を遮断出来なくなったこと」というお話です。

 ミッドウェー海戦といえば、日本海軍の戦力が大幅に減少するきっかけとなったターニングポイントとして認識されています。
それもそのはず、機動部隊の中核を担う主力空母4隻を一度に失ってしまったのですから、敗戦を決定づけた海戦とみなされるのは当然でしょう。
 しかし、近年多くの歴史学者が言う通り、そのような見方は間違いであるとされています。以下の表は1941(昭和16)年12月の開戦からミッドウェーの敗戦を経た1942(昭和17)年末までの日米の太平洋戦線における運用可能な空母数を比較したものです。
1941(昭和16)年12月~1942(昭和17)年12月までの太平洋戦線における日米空母数(隻)

日本 アメリ
1941年12月
1942年6月
1942年12月

 確かに今回のミッドウェー海戦で、日本海軍が受けた損害は多大なものであったことは事実です。しかし、日本海軍にはまだ「瑞鶴」「翔鶴」が残っており、後に大和型戦艦の3番艦「信濃」も空母に改造されることに決定しました。
 これに対し、アメリカ海軍の太平洋方面に配置されていた空母で運用可能だったのは、1942年末の時点では「ホーネット」と「エンタープライズ」のわずか2隻のみでした。
 1941年12月の開戦後、「サトラガ」は日本海軍の潜水艦の雷撃によって修理中となり、翌1942年5月の珊瑚海海戦で「レキシントン」が撃沈され、ミッドウェー海戦で「ヨークタウン」が大破となりました。
 表を見ればわかる通り、1942年末の段階では、太平洋で使用できる空母数は日本の方が勝っていました。日本の空母数は6隻に対し、アメリカは2隻であり、3倍の戦力差がありました。
 つまり、日本の連合艦隊ミッドウェー海戦の敗戦の瞬間、一気に潰滅したわけではなく、その後も、日本は太平洋の制海権・制空権を握っていました。参考までに同時期における艦載機の日米兵力も見ておきましょう。

1941(昭和16)年12月~1942(昭和17)年12月までの太平洋戦線における日米艦載機台数(機)

日本 アメリ
1941年12月 459 490
1942年6月 255 331
1942年12月 291 250

 このようにミッドウェーの敗戦は太平洋戦線において、さほど大きな影響力を及ぼしたわけではありません。
 そう、太平洋戦線に限っては・・・・。

 しかし、ミッドウェー海戦の敗戦による‘本当の痛手‘はほかのところにありました。それは「援蒋ルート」を遮断出来なくなったことです。「援蒋ルート」といえば、日中戦争支那事変)を思い出す人も多いでしょう。
 まさにその通りで、ミッドウェーの敗戦で影響を受けたのは、実は太平洋戦線ではなく、中国戦線の方だったのです。

 海戦前、陸軍はミッドウェー作戦には猛反対していました。作戦に伴って、インド洋方面に展開している駆逐艦なども太平洋に回せというのですから当然です。
 これでは東南アジアやインド洋方面の防備や攻撃力が手薄になってしまいます。占領地を維持・管理するのは陸軍の仕事、それを海上から支援するのが海軍の仕事です。
 しかし、連合艦隊司令長官山本五十六は、こうした反対を押し切り、ミッドウェー作戦にありったけの海軍力を投入するという‘バクチ‘をやってしまいました。

 対米開戦以来、陸軍は日中戦争支那事変)を終わらせるために東南アジアの南方資源地帯を抑えると同時に、援蒋ルートの遮断にも乗り出していました。援蒋ルートとは、イギリス、アメリカ、ソ連などの欧米諸国から国民党政府(蒋介石政権)に送られる支援物資を運ぶルートのことです。
 このときまでに、援蒋ルートには大きく2つあり、仏印(フランス領インドシナ)のハイフォン港を経由するルートと英領ビルマのラグーン港を経由するルートがありました。
 中央アジアの陸路で兵器や物資を送れるソ連以外の国々は、ヨーロッパ方面から海上ルートを経由して物資を供給していました。
 陸軍はこうした海上ルートからの供給ルートを遮断し、国民政府を屈服させ、日中戦争を終わらせる予定でした。
 前者のハイフォンルートの遮断は、日米開戦前の1939年9月23日以降、日本軍が北部仏印に進駐し、さらに1941年7月23日以降には南部仏印に進駐することで果たしました。
 日米開戦後、陸海軍は南方方面での緒戦の勝利によって、マレーやインドネシアなどの資源地帯を確保しながら、英領ビルマにも侵攻し、ビルマからイギリス軍を駆逐することで後者のラングーンルートの遮断にも成功しました。陸軍はこの調子のまま、インドにも突っ込む予定でした。
 それに先立って海軍も、セイロン島沖海戦(インド洋作戦)でイギリス海軍重巡洋艦2隻と軽空母1隻を撃沈し、東インド洋における制海権・制空権を握ることに成功しました。
 つまり、このとき日本は中国沿岸からマラッカ海峡を経て東インド洋にいたる一連の海域すべての制海権・制空権を獲得していたことになるのです。
 こうして、供給ルートを断たれ、物資が枯渇した蒋介石政府は抵抗を続けることが出来ず、早々と降伏し、日中戦争は日本の勝利に終わるはずでした。
 しかし、その計画がミッドウェーの敗戦で狂い始めてしまいました。
 例えば、駆逐艦「荒潮」などで構成される第4水雷戦隊は、マレー上陸作戦でも活躍し、それまで東南アジア一帯の洋上を守っていました。しかし「荒潮」がミッドウェーで大破し、戦線離脱すると、東南アジアの海上兵力が大幅にダウンしてしまいました。
 それまで日本が獲得してきた制海権を守るパワーバランスがにわかに崩壊したのです。

 歴史に「もし、○○だったら・・・」は禁句ですが、もし、ミッドウェー作戦などやらずに、東南アジアから東インド洋に至る制海権を握り続けていれば、やがて援蒋ルートは使用不可能になります。これならスエズ運河からのルートだろうと、オーストラリアからの迂回ルートだろうと、海洋ルートであれば、完全に遮断することが出来た。

 陸軍の主張通り、南方方面の防御を固めていれば、日本は大東亜戦争をかなり有利に進めることが出来たことは間違いないでしょう。蒋介石政権が抵抗を続けていたのは、援助物資が得られていたからです。日中戦争が解決すれば、張り付けになっていた兵力をそれこそ太平洋戦線に向けることが出来、日米の戦局も大きく変わっていたことでしょう。

 中国沿岸部からマラッカ海峡を経て東インド洋までの制海権を握っているということは、マレー半島の東西どこでも自由に兵士や物資を輸送できるということです。補給を軽視したために6万5000人もの兵力を無駄死(餓死)にした史上最悪の作戦として有名なインパール作戦も、陸路を進む攻略部隊に対し、海上ルートから増援や補給を行うことで、作戦を成功させたことでしょう。
 インドを占領すれば、イギリスは間違いなく降伏していたことでしょう。

 そう考えると、やはりミッドウェーの敗戦による影響は大きなものだったと言わざるを得ません。
 これによって、日本は対米戦を短期決戦によって早期講和に持ち込む見込みがつかなくなり、長く苦しい長期戦を強いられることになりました。
 日中戦争の泥沼化に続き、太平洋戦争も泥沼化してしまいました。

 では、太平洋戦争はその後、どうなるのでしょうか。少し先取りしてみていきましょう。
以下の1943年以降の日米の太平洋戦線における戦力比です。

まず、空母数。
1943年6月~終戦時までの太平洋戦線における日米保有空母数(隻)

日本 アメリ
1943年6月 11
1943年12月 18
1944年6月 21
1944年12月 24
1945年6月 28
終戦 129

続いて艦載機数。
1943年6月~終戦時までの太平洋戦線における日米保有艦載機数(機)

日本 アメリ
1943年6月 291 673
1943年12月 321 1,066
1944年6月 231 1,336
1944年12月 186 1,673
1945年6月 186 1,946
終戦 129 1,946

 物量国家・工業国家・労働国家であるアメリカの底力が発揮され、空母の大量生産が行われました。日本が最も恐れていたことが現実のものとなったのです。
 表の通り、1943(昭和18)年末には日本のアメリカの兵力差は空母・艦載機ともに3倍以上の差をつけられてしまいました。
 当時、大日本帝国の軍事力や科学技術がアメリカに比べて劣っていたわけではありません。開戦当初から世界最強の戦闘機として恐れられた零戦、航空機による海上攻撃の確立と、先述通りの制海権・制空権の獲得などをみても、日本はアメリカに対して引けを取らなかった。
 しかし、今回のミッドウェーの敗戦によって、長期戦に追い込まれた日本はアメリカの物量の前になす術もなく、破滅の道へと転がり落ちていきます。
 やはりミッドウェーの敗戦は太平洋戦争における大きな過ちの1つとしてとらえるべきです。これを指揮した山本五十六は「名将」ではなく、「愚将」と言わざるを得ないでしょう。

 以上、三回に渡ってミッドウェー海戦を紹介してきました。次回はガダルカナル攻防戦をご紹介いたします。お楽しみに。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
テレビではいまだに言えない 昭和・明治の真実  熊谷充晃=著 遊タイム出版
教科書には載ってない大日本帝国の真実      武田知弘=著 彩図社
5つの戦争からよみとく 日本近現代史      山崎雅弘=著 ダイヤモンド社
子供たちに伝えたい 日本の戦争         皿木喜久=著 産経新聞出版