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【ガダルカナル攻防戦3】なぜ餓(ガ)島と呼ばれているのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【ガダルカナル攻防戦3】なぜ餓(ガ)島と呼ばれているのか」というお話です。

 前回に引き続き、ガダルカナル攻防戦の3回目をお伝えします。

 1942(昭和17)年の8月に米軍がガダルカナルに上陸して以来、日本軍はその奪還のために陸軍部隊を順次投入していきました。その数は2万人に達するも、ヘンダーソン飛行場の奪還は成しえませんでした。
 ガ島の制空権は完全にアメリカにあり、兵を送り込む輸送船団は軒並み撃沈され、あるいは輸送に成功しても、弾薬や食糧の増援が出来ないため、結局、白兵突撃につながるという悪循環に陥っていました。
 これでは、いたずらに兵力を投入しても戦力を消耗するだけです。したがって、大本営陸軍部は新たな増援部隊の派遣を中止せざるを得ない状況に追い込まれました。

 しかし、ここで最大の問題として立ち塞がったのが島への補給問題です。
 ガ島には少なくても1万5000人の日本兵が滞陣しています。彼らを養うには、今後も円滑に物資を補給していく必要があります。しかし、ガ島の制空権は完全にアメリカ軍に握られているため、大型輸送船による補給作戦は上手くいかない。
 11月も下旬になると、島のアメリカ軍航空兵力はさらに拡充され、通常輸送はほぼ不可能な状態でした。そのため、ガ島に滞陣する陸軍部隊は補給を断たれ、飢えに苦しむ結果となっていました。
 何としても補給は成功させなければなりません。このまま彼らを見殺しにしてしまっては、大本営の権威は大いに失墜していまいます。

 そこで考えられたのが、駆逐艦による急速輸送や潜水艦による輸送です。それまでも駆逐艦による急速輸送はされていましたが、ガ島に接岸しての陸揚げが主でした。しかし、これでは危険が多すぎます。
 そこで考案されたのが、ドラム缶による物資輸送でした。その方法としては、ドラム缶に物資を半分ほど詰め、浮力をつける。それをロープでつなぎ合わせ、ガダルカナル島の岸近くに投下。ロープの端を小舟で岸まで引いていき、陸兵がドラム缶をたぐりよせる。この一連の行為を深夜のうちに行うのです。

 同1942(昭和17)年11月30日、第1回ドラム缶輸送が実施されました。田中頼三(たなからいぞう)少将率いる8隻の駆逐艦は合計200個のドラム缶を搭載し、ガ島に向かいました。
 午前0時、ガ島沖合に到着した補給部隊は、直ちにドラム缶の投下準備に取り掛かります。
 その時、警戒にあたっていた1隻の駆逐艦が敵艦隊の接近を発見しました。米艦隊も日本側の動きを察知しており、重巡4隻、駆逐艦6隻という強力な陣容で向かってきたのです。
ルンガ沖夜戦の勃発です。

 田中少将は直ちに決戦を命じ、ドラム缶を全て海中に投棄し、戦闘態勢に入りました。
「全軍、突撃セヨ」
田中少将の命が発せられた。
 しかし、先頭は走っていた駆逐艦「高波」が敵の集中砲火を浴び、間もなく航行不能に陥りました。
これを受けて日本側も直ちに反撃。「高波」を除く7隻の駆逐艦が一斉に魚雷を発射。敵の重巡4隻中、1隻を撃沈、3隻を大破させ、日本側は「高波」の沈没のみの完勝を収めたのでした。

 アメリカの史家サミュエル・E・モリソンは後に、これを指揮した田中少将に対し、「タナカ イズ ザ テナアシス(田中少将は提督中の提督だ)」と賞賛しています。

 第1回ドラム缶輸送は失敗したものの、その後も輸送作戦は継続され、第2回ドラム輸送ではドラム缶1500個の投下に成功しました。
物資輸送は駆逐艦だけでなく、潜水艦による輸送も行われていました。11月14日から翌1943年1月30日までに全260回も実施され、合計で約500トンの物資の陸揚げに成功しています。
しかし、それでも、ガ島に滞陣する将兵の食糧は足りず、彼らはますます飢餓状態に追い込まれていくのでした・・・・。

 ガ島に滞陣する1万5000人の日本兵の本当の戦いは、第2師団の総攻撃が失敗してからでした。
 つまり、彼らはアメリカ軍と戦うのではなく、飢えと戦うことになったのです。
 しかも、当時のガ島はほとんどが亜熱帯のジャングルに覆われており、ほとんど未開の地でした。
 まともな食糧といえば、海岸部に生えているヤシだけだが、すぐに食べつくしてしまう。
 食べられるものは何でも食べた。トカゲ、ネズミ、バッタ・・・・・。木にぶら下がっているナマケモノを銃で撃って食べる。若干臭みはあるが、結構おいしい。
 投棄されたドラム缶も、陸揚げする前に敵機に爆撃されて消失してしまう有様。

 第1回目でも紹介したように、ガ島はまるで地獄のような場所でした。
 拳くらいの大きさの毛が生えた真っ赤なクモ、腰まで届くくらいの巨大トカゲが辺りを這いずり回っている。
 見たこともないほど巨大な蛭(ひる)が木から落ちてくる。
 昼夜問わず、蚊に刺される。マラリア病に侵されれば、40度以上の熱が出て3~4日はまともに動けない。
 川のほとりで洗濯や水浴びなどしようものなら、「ワニ」に尻を食い取られかねない。実際に湿地帯の浮草の実を食用として取りに行った将兵が行方不明になった。おそらく、「ワニ」に水の底に引き込まれたのだろう。

 そして数時間もすれば体が腐ってしまうほどのぬかるみと湿気。頭上から水がしたたり落ちてくるほどの熱帯雨林の蒸し暑さに誰もが体力を奪われた。

 こんな過酷な状況で毎日10名以上の将兵が命を落としていきました。
 それでも第17軍司令部は動ける兵士を集めて、夜陰に乗じ、小部隊によるゲリラ的な飛行場への侵入を試みました。しかし、アメリカ軍にとってそれは被害と言えるものではなく、あっさり返り討ちに遭い、引き返す。こんなことが繰り返されました。

 ここまでくると、もはやアメリカ軍にとって日本軍は脅威ではなくなり、犠牲を出してまで殲滅するほどのものではなくなりました。
そのためか、アメリカ軍は大軍を催して総攻撃を仕掛けてくるということはありませんでした。
 こうした中、1942(昭和17)年も12月に入ると、大本営の中でもガ島の奪還を断念する声がささやかれはじめ、12月31日の大本営御前会議によって、ガ島の奪還は断念し、全部隊を撤退させることが正式に決定され、撤退作戦は翌1943年下旬から実施されることとなるのでした・・・・。

 ガ島での戦いは、戦死者よりも、戦病死者数の方が圧倒的に多いという結果になりました。以下はザックリですが、日米の戦死者数と戦病死者数の表です。(来週、もう少し詳しいデータを表示します。)

日本 アメリ
戦死者数 約5000人 約1500人
戦病死者数 約1万5000人 0人

日本の戦病死者数の大半は餓死でした。これがガ島を餓(ガ)島と呼ぶ所以です。

 なぜ、こんなことが起きてしまったのでしょうか。
 そもそもガダルカナル島は日本軍の一大航空基地であるニューブリテン島のラバウルから約1100キロも離れており、零戦が向かって戻ってこられるギリギリのところです。飛行機で3時間もかかり、時速12ノットの輸送船でも2日はかかる。通常、最前線に航空基地を選定する場合、既設の基地から556キロ(約300カイリ)前後が適当ですが、ガ島の場合、遠すぎて、同一の戦闘機では1日1回程度しか護衛に向かえない。(夜間は多数機の行動が困難なため。)
 この時点で、部隊の増強や物資の補給が容易ではないことは明らかです。日本軍の悲惨な結末は、米軍上陸以前に、この島を選んだ時点である程度決まっていたといっても過言ではないでしょう。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社