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【条約改正1】なぜ日本は外国人を裁判官にすることに反対したのか【井上馨】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は、記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【条約改正1】なぜ日本は外国人を裁判官にすることに反対したのか【井上馨】」というお話です。

 今回は日本の明治時代の条約改正についてストーリーを展開していきながら、なぜ外国人裁判官の任用に反対したのかを見ていきたいと思います。

外務大臣井上馨外国人を裁判官に任用することを条件に列強諸国と条約改正を達成させようとしました。しかし、領事裁判権を撤廃し、日本国内での外国人犯罪者も日本の裁判を受けるとしても、裁判そのものを外国人裁判官に委ねるのは国の名誉を大きく傷つけるとして政府内部や国民から猛反発を受けました。井上は条約改正ばかりに注目してしまい、本来の目的である日本の独立を見失ってしまったのです。

 

 幕末に締結された日米修好通商条約をはじめ各国と締結した不平等条約の改正は、明治政府にとって最重要な外交問題でした。

その不平等は大きく2つあります。

  1. 外国人が日本で犯した犯罪は、日本の法律ではなく、その国の法律で裁くという領事裁判権を認めること。
  2. 日本が輸入の際にかける関税を自主的に決める権限がないこと。(関税自主権がない。)

 

 特に領事裁判権を認めたことに対しては、非常に国内の反発を招きました。

 江戸時代は、天下泰平の世でした。しかし、日本が開国したことで横浜や神戸が港町として開発され、多くの白人とその家族がたくさん住む町となりました。そこは治外法権区域とよばれ、日本に滞在していながら、日本の法律が及ばない区域であることを意味します。

 しかし、白人達は治外法権区域内であることを良いことに好き勝手な行動に出たのです・・・。

 

こうして、天下泰平の世は白人達によってめちゃくちゃにされました。

 

「このままではいけない。幕府は一体何をやっているのだ。我が国は今後、日本という独立国家・主権国家として西洋列強と肩を並べなくてはいけない。」

こうして立ち上がった薩摩藩長州藩を中心とした志士達によって、幕府軍と戦う戊辰戦争へと発展していきました。

 

こうした幕末の革命によって徳川将軍家に代わって政権を勝ち取った明治新政府が誕生。条約改正に向けて政府の奮闘が始まりました。

明治初期の1871(明治4)年、岩倉具視率いる岩倉使節団がアメリカとの条約改正交渉に失敗しました。

その後、政府は外務卿に就任した寺島宗則に交渉させ、1878(明治11)年、関税自主権の回復についてアメリカの同意を得て、新しい条約に調印しました。

ただし、これには条件があって、他の国がこれに倣ってくれれば批准して、正式に新条約を発効させる、というものでした。

寺島はこの条約を結んだことをイギリス、フランス、ドイツなどの列強諸国に話して、アメリカに倣って条約改正を認めてくれないかと申し入れます。しかし、各国の答えはノーでした。特に強い反対姿勢を示したのはイギリスでした。当時の日本にとって最大の輸入相手国だったイギリスに対し、粘り強く交渉するのは賢明ではないと判断。

結局、アメリカとの間だけ話がまとまったけれども、結ばれた条約が流れてしまったこともあって、条約改正は頓挫してしまいました。

 

また、当時の日本は、まだ国会や憲法を持たず、国内の諸制度・諸法律なども整っていなかったうえ、国際的な地位も低かったことも欧米諸国が条約改正に同意しなかった理由の一つだと考えられています。

 

寺島が失脚し、新たに外務卿に就任した井上馨は、1882(明治15)年からその職にあり、条約改正の任にあたりました。

江戸時代のような法律もなく、簡単に斬首刑を下すような原始的な時代ではなく、法律制度や民法や刑法、商法などの近代国家らしい法整備を着々と進めていきました。

「日本はもはや、文明未発達の野蛮な国ではない。」

それには、日本は独立国家としてその存在を世界にどんどんアピールしていく必要がありあました。

 

そうした主権国家・独立国家を目指す日本にとって、条約改正は外交における最重要課題でした。井上は、イギリスからの提案で日本に駐在する各国公使を集めて予備会議を開きました。

「寺島殿の条約改正交渉は、各国公使と個別の対応をしたから失敗したのだ。各国公使を一同に集めて満場一致したうえで、条約交渉は達成されるのだ。」

そう言って、井上は1882(明治15)年に東京で列強諸国を一同に招き、条約改正予備会議を開きました。会議では、今年から翌年にかけて法権回復と、関税の一部回復を目指し、正式な交渉をはじめていくという計画で決まりました。

これに伴い、井上は条約改正案を作成。井上は、各国公使と交渉して何とか条約改正に持ち込みたいと考えていました。列国にそれなりの好条件を示し、条約改正を達成しようとしたのです。

「列強諸国は、一度手にした権益をそう簡単には手放しはしないだろう。故に我が国は、かなりの譲歩案を示さなければ、なるまい。」

その改正交渉案は以下の通りです。

  1. 外国人に内地を解放し、国内での営業活動や旅行・住居の自由を認める。(内地雑居)
  2. 日本は西洋風の近代的な憲法や諸法律を2年以内に整備する。

これらと引き換えに、井上は、領事裁判権の撤廃と、関税自主権の回復を実現させようとしました。

 

さらに、井上は条約改正交渉を成立させるにあたり、欧化政策に取り組みます。

「我々は、条約改正において、相当不利な立場にある。もはや西洋人に媚びへつらうのは基本中の基本だ。」

と、盛んに欧米の制度や風俗・習慣・生活様式などを取り入れるという極端な欧化政策をとり、欧米諸国の高官に贅沢なおもてなしをしました。

その代表的なものが、1883(明治16)年に東京・日比谷に落成した鹿鳴館で、連日のように政府の高官が内外の紳士・淑女を招待して西洋式の大舞踏会を開いたり、バザーを行ったりした。

鹿鳴館とは、イギリス人お雇い外国人のコンドルの設計した西洋風の建物です。総工費は当時のお金で18万円、レンガ造り2階建で、政府高官と来賓の社交の場として用いられました。

西洋の文明をそっくりそのまま真似することが近代国家への最速の道であると考えていました。

 

1884(明治17年)に、井上外務卿は、内地雑居と領事裁判権の撤廃を行うという意向を示した覚書を各国公使に送付しました。

これをきっかけに井上の条約改正案に対し、政府内部では批判の声が高まりました。

「西洋人の内地雑居を認めると、以前から我が国が恐れていたキリスト教の布教が急速に高まるのではないか。

これに対し、井上は反論します。

「確かにキリスト教布教によって、人々が自由と平等を振りかざした反対運動が起こることは予想される。今現在も、我々政府と民権論者の対立は深まる一方だ。()」

一方で井上は、内地雑居のメリットは計り知れないと言います。

「ヨーロッパのような文明国の人種が我が国内で新規事業を立ち上げれば、工業の育成において大いに役立つであろう。西洋人主導の産業発展は、富国強兵には必要不可欠である。」

このように井上の条約改正は、日本の産業発展や資本主義の発展を視野に入れたものだったのです。

 

1885(明治18)年、内閣制度が発足され、伊藤博文を総理大臣とした第一次伊藤内閣が誕生。井上は外務卿から外務大臣になりました。

井上の条約改正交渉は続きます。

井上の作成した改正交渉案に対し、列強各国は好意的な態度を示しました。特に内地雑居は大変受けが良く、条約改正の達成はあと一歩のところまでこぎつけました。

 

しかし、ここで列強各国は、領事裁判権の撤廃において思わぬ提案をしてきました。

外国人犯罪者も日本の裁判を受けるのはかまわない。しかし、日本はまだ憲法整備が整っていない。したがって、外国人に関係する裁判においては、その裁判官の半数以上を外国人裁判官とするべきだ。」

 

列強諸国の提案に対し、当初井上は困惑しました。

主権国家樹立を目指す我が国において、領事裁判権の撤廃は早急な課題。外国人裁判官の任用は、我が国の憲法整備が西洋のそれに遠く及ばない現状では止むをない譲歩だ。」

として、列強の提案を呑むことにしました。

 

しかし、外国人裁判官の任用を認めた井上の条約改正案に対して、政府内部からは厳しい反対の声が起こりました。

まず政府法律顧問でフランス人のボアソナードは改正交渉案が日本にとって不利であることを説いた意見書を政府に提出した

「我々が目指しているのは、日本の独立と主権確立だ。外国人を裁判官にするのは、却って日本の独立精神を失わせる結果になるのではないか。」

また、農商務大臣の谷干城も反発しました。

「井上殿は条約改正という自身の手柄にばかり目がくらみ、本来の目的を見失っている。我々が目指すべきは、主権国家としての日本の独立であり、条約改正そのものではない。井上殿は、カタチだけの条約改正をやろうとしている。」

すなわち、結局のところ外国人に都合の良い法律をつくっているという点では以前と本質的には何も変わっていないということです。

しかし、こうした反対意見に対し、井上外務大臣だけでなく、ドイツから帰国した伊藤博文首相も反発しました。

「我が国の憲法は、西洋のものを範としなければならないほど未発達なものだ。条約の改正にはそれ相応の代償が必要なことは明確ではいか。」

伊藤首相はボアソナードや谷を「裏切り者」というレッテルまで貼りました。

こうした井上と伊藤との対立を受け、谷が農商務大臣を辞任する事態にまで発展してしまいました。

 

 

それに伴い、ボアソナードと谷の条約改正反対の意見書は極秘で民間に流されることとなりました。

すると、当時民間人の2大勢力であった民権論者と国権論者の両方から条約改正反対運動が巻き起こりました。

(民権論者・・人間の自由と平等を唱える個人主義者達。自由民権派とも呼ぶ。)

(国権論者・・富国強兵や国の利益を重視する全体主義者達。国家主義者とも呼ぶ。)

 

「政府は世間に内緒で、こんなとんでもない条約改正交渉を進めていたのか。許せない。」

内地雑居に関する反対運動は、主に民権論者を中心に起こりました。

居留地内だけでも相当な外国人の犯罪が多発している中で、さらに、その外国人を居留地外でも自由に行き来できるようにするだと?正気の沙汰とは思えない。」

「彼らにとって、我が国は文明未発達で非キリスト教国の野蛮な国。つまり、植民地同然の国。平等ではないのだ。だから彼らは何をしても許されると思い込んでいる。」

 

さらに、外国人裁判官の任用に関しては、主に国権論者を中心に起こりました。

「外国人裁判官に任用は、結局のところ、白人犯罪者の罪が軽減されることに変わりないではないか。裁判権とは、国の名誉に関わる大事なものだ。再考を願う。」

憲法も司法も、その国の風土や伝統によって創られているのだ。もう西洋人のような部外者に干渉させてはいけない。」

こうした意見を述べたうえで、国権論者達は政府の弱腰外交を批判しました。

「我が国は単に、外国人に気に入られようとしているだけではないか。情けない。」

 

こうした反対運動を受けてもなお、井上外相と伊藤首相は条約改正交渉に強硬姿勢を示しました。1886(明治19)年には条約改正の本会議が開かれ、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復の実現を、あと一歩のところまでこぎつけました。

そんな時、事件が起き、民衆の反対運動をさらに高めてしまいました。

 

1886(明治19)年10月24日夜、暴風雨のなかを横浜から神戸に向かっていたイギリス汽の貨物船ノルマントン号が紀伊半島沖で沈没したのです。イギリス人船長以下ヨーロッパ人は救命ボートで脱出して救助されたが、25人の日本人は全員見殺しにされました。世に言うノルマントン号事件です。

日本国内では、この事件を激しく非難する声が上がりました。罪を問われたイギリス人船長以下乗組員は領事裁判権制度のため、神戸のイギリス領事(イギリス人裁判官)による裁判にかけられました。

「日本人乗組員にも救命ボートに乗り移るよう言ったが、彼らは英語が分からなかったようだ。」

「我々も、日本語が分かる者がいなかったのだ」

このような、取ってつけたような供述に対し、イギリス領事はなんと、被告(船長ら)に過失責任はないという判決を下しました。

これに激怒した日本政府は船長らを告発。イギリスにある横浜領事裁判所に移され、職責怠慢で船長を禁固3カ月の判決が下りました。

この事件は、領事裁判の不当性を明白にし、世論は沸騰。領事裁判権の撤廃を求める声はさらに高まりました。

 

こうした政府内部と民衆の反対運動を受けて、1887(明治20)年7月、井上はやむなく条約改正交渉の無期延期を宣言しました。

「私は少し急ぎ過ぎたのかも知れない。どうか我が国が軍事的・経済的に発展していくのを願うだけだ。」

そう言い残し、井上はまもなく外務大臣を辞任しました。

この条約改正問題は、政府の秘密専制政治を批判する世論を急速に高めてしまいました。

同年、それまで退潮傾向にあった民権論者による自由民権運動が再過熱。外交失策の挽回・地租軽減・言論集会の自由を要求する三大事件建白運動が起こるにいたりました。

さて、条約改正は実現するのでしょうか。

今回の主人公であった井上馨ですが、条約改正という偉業を成し遂げることは出来ませんでしたが、外交能力は確かなもので、以後、元老として経済外交において大きな偉業を成し遂げます。1901(明治37)年の日露戦争勃発の際には、時の首相である桂太郎の下で、外国人からの外債募集交渉に協力しました。

つづく。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

人物で読む近代日本外交史           佐道明広他=著  吉川弘文館

国民主義の時代 明治日本を支えた人々     小林和幸=著   角川選書

教科書よりやさしい日本史           石川晶康=著   旺文社

もういちど読む山川日本近代史         鳴海靖=著    山川出版社

明治大正史   下              中村隆英=著   東京大学出版社