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【高給取り!?】明治時代のお雇い外国人の皆さん(人文科学編)

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【高給取り!?】明治時代のお雇い外国人の皆さん(人文科学編)」というお話です。

 幕末の革命によって徳川将軍家から政権を奪うことが出来た明治政府の最重要課題は、欧米列強と対等な独立国としての近代国家の建設でした。そこで、明治政府は海外から外国人を雇い入れ、彼らから技術や知識を学ぶことで近代化政策や人材育成を図った。彼らのことを「お雇い外国人」と言います。

 「和魂洋才」とは幕末の蘭学者佐久間象山の言葉ですが、西洋の才(技術)は謙虚に受け入れても、日本の魂は決して見失ってはいけないという精神のもと、明治人は、文明開化をスローガンに独立国としての日本を実現するために奮闘しました。

 ということで、今回も明治時代に来日し、人文科学の分野において活躍したお雇い外国人についてご紹介します。

 今回紹介するお雇い外国人は以下の5名です。

 語学・思想  フルベッキ(オランダ)

 外交     デニソン(アメリカ)

 法律     ボアソナード(フランス)

 美術     フォンタネージ(イタリア)

 地方行政   モッセ(ドイツ)

  (産業技術の分野において活躍したお雇い外国人については以下のリンクから)

motomiyatakahiro.hatenablog.com
 彼らは、どのように日本の近代化に貢献し、どのくらい報酬をもらっていたのか。彼らのプロフィールを見ていきながらご紹介します。

 参考までに当時の給与水準(月給)を示しておきます。

 太政大臣三条実美   800円

 右大臣・岩倉具視    600円

 伊藤博文(後の初代首相)400円

 小学校校長        10円

 民間の工場労働者      5円

 

語学・思想

グイド・フルベッキ

 1830年、オランダに生まれる。ユトレヒト工科大学を卒業。29歳の1859年、新婚の妻と共に来日。長崎で英語を教えます。

 明治維新後の1869(明治2)年には、お雇い外国人として大学南校(後の東京大学)の教師に就任。1873年に帰国するも、すぐに再来日し、政府の要人として翻訳作業や法制の仕事に従事。晩年は日本に定住し、宣教師に専念するようになる。1898年、死去。

大学南校時代 雇用期間5年 月給600円

政府の要人時代 雇用期間5年 月給600円

 ペリー来航をきっかけに江戸幕府は西洋文明の取り入れを急ぐようになり、それまで弾圧していた蘭学を奨励するようになります。

 フルベッキが始めて来日したのはそんな疾風怒涛の幕末(1866年)です。長崎で済美館(長崎奉行所所管)や致遠館(佐賀藩校)といった英語塾を開き、大隈重信勝海舟陸奥宗光などそうそうたる幕末の志士達にオランダ語と英語を教えました。

 

 当初、フルベッキはテキストとして聖書を使っていました。聖書の内容に興味を持った大隈は、アメリカの政治に関する文物を読みたいと思い、フルベッキに請願しました。フルベッキが新たなテキストを用意してくれました。

 それは、アメリカ3代大統領であるトマス・ジェファソンの執筆によるアメリカ合衆国の独立宣言でした。そこには「民主主義」という政治体制が述べられており、江戸時代までの封建社会ではありえなかった国民が主体となって政治に参加するという刺激的で画期的なものでした。

 以下の言葉は、フルベッキが長崎の致遠館で発した言葉です。

「人間は誰人たりとも、自由であり、平等である。また国家は民主主義を守り、それを世界に発揚していかなくてはならない。それこそが日本のなすべき道である。」

 

 大隈も民主主義に興味を持ち始め、民主国家樹立のための人材育成を考えるようになりました。ジェファソンは民主主義政治の実行には青年達を教育する必要があるとしてヴァージニア大学を創設しました。大隈はこれにならって、ジェファソンと同じ考えのもと、1882(明治15)年、東京専門学校(現在の早稲田大学)を創設します。

 現在、早稲田大学は「私学の雄」として全国から在野精神溢れる学生を集めており、フルベッキは「建学の父」として称えられています。

 

 フルベッキは長崎から東京に移り、1869(明治2)年に開成学校(のちに大学南校から東京大学に改称)に招かれた。フルベッキはそこでアメリカの憲法を通じて「世界の思想」についての講義を行っています。大学南校からはフルベッキの門下生として日露戦争時の外務大臣小村寿太郎などの優秀な人材が輩出されました。

 大学南校を辞任したフルベッキは一度、帰国するもすぐに再来。政府の要人として正院と左院の翻訳顧問となりました。

(正院・・明治初期の内閣、左院・・明治初期の立法機関)

フルベッキは政府に対して以下のように指摘します。

「日本の伝統的な身分制度思想統制が近代化を著しく阻害している」

と指摘。人間は生まれながらにして自由で平等であることは近代国家であれば、もはや常識であると説きました。

 その上で、平民の名字使用の許可、平民の乗馬の許可、帯刀の禁止など武士階級の解体とともに徴兵制を敷くことを政府に説きました。これらフルベッキの助言を政府は今後、加速度的に実行していきました。

 さらに、あの岩倉使節団もフルベッキの進言によって実現したものです。フルベッキは岩倉ら政府の要人にこう言いました。

「欧米諸国と対等になるためには、欧米並みの文明国になる必要がある。そのために一度、政府の要人は欧米を視察してくる必要がある」と。

 明治政府は1871(明治4)年、岩倉具視を団長とした政府の中心人物と、女学生・津田梅子や留学生・中江兆民など総勢100人の岩倉使節団として欧米諸国に派遣しました。

 フルベッキは「近代建設の父」と呼ばれるほど日本の近代化において重要な助言をしていたのです。

 

外交

ヘンリー・W・デニソン

 1846年、アメリカのバーモント州に生まれる。ニューヨークのコロンビアカレッジを卒業後、1868(明治元)年、神奈川領事として赴任。1880(明治13)年に政府に雇われ、外務省に身を置き、条約改正などに尽力。雇用期間が更新され続け、日本に定住するようになる。1914(大正3)年、東京で死去する

雇用期間3年毎に更新  月給600円

 明治新政府は外交、経済、産業、財政、教育などあらゆる分野で欧米諸国に遅れをとっていました。特に外交においては最も経験に乏しく、その対応が急がれた。そこで、外務省は有能な外国人を雇い入れ、外交処理を行うことを考えます。

 1880(明治13)年、時の外務卿・井上馨(かおる)は横浜に住んでいたデニソンを雇い入れます。

 明治政府の外交における最大の課題は、幕末に締結された不平等条約の改正で、領事裁判権治外法権)の撤廃と関税自主権の回復でした。

 1892(明治25)年、大隈重信外務大臣の後を継いだ陸奥宗光は、デニソンの助言を適宜採用。1894(明治27)年に、イギリスとの間に日英航海条約を締結。領事裁判権の撤廃に成功しました。以後、アメリカ、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同等の条約を結びます。

 さらに、1901(明治34)年に外務大臣に就任した小村寿太郎に日露交渉における外交文書の作成を依頼しています。ロシアとの交渉文はほぼ全てデニソンが手掛け、日露戦争直前のロシアへの宣戦布告文、日露戦争後のポーツマス条約の締結にもその外交手腕を発揮しています。

  デニソンの自宅を訪ねた外務省取り調べ局長は、彼の事務室の机の中から日露交渉の書類草案を見つけます。交渉の開始から交渉打ち切り、国交断絶通告など第一稿から最終稿に至るまで順を追って綴られていました。

 局長は、デニソンにこの書類草案を譲ってくれないかと願いでます。デニソンはしばらく考えた末、突然書類をストーブの中へ投げ込んでしまいました。

「何てことをする。気でも狂ったか。」

局長の叱責に対し、デニソンはこう答えます。

「これを君にあげると、君は絶対永久に保存し、人々に伝えるだろう。デニソンという人物が日露交渉において主要な役割を果たしたと。」

 つまり、日露交渉はすべて小村外務大臣がやったもので、自分はただ交渉文を草案しただけで、偉業など成し遂げていないということです。

 世の中には他人の手柄を奪い、自分の手柄とし、逆に自分の失敗は他人に転嫁する輩(やから)が溢れるほどいますが、デニソンのように献身的に業務にあたり、なおかつ、その手柄を他人に譲る精神に局長は思わず脱帽してしまったそうです。

 

法律

ギュスターヴ・エミール・ボアソナード

 1825年、フランスのバンセンヌに生まれる。パリで弁護士を務めた後、パリ大学の教授になる。1873(明治6)年、政府に招かれ、来日。司法省学校(後の東大法学部)や明治法律大学(明治大学法学部)等で教授するようになる。その傍ら、元老院行政裁判所、外務省などの顧問を務める。1895(明治28)年、帰国。

雇用期間5年毎に 年俸15,000円(日本の大臣クラスは1万円) 

 ボアソナードは法のあり方、特に刑法について活躍した人です。1873(明治6)年に来日したボアソナードは、司法省学校(現在の東大法学部)や明治法律学校(現在の明治大学法学部)、東京法学校(現在の法政大学)の教授として自然法フランス法を講じ、幾多の法学者を輩出しました。

  一方で、明治政府のもとで近代的な法体系の確立に努めます。

 江戸時代までの日本には近代的な法体系は存在せず、刑法などの法律も未整備で、幕府や藩主、奉行の独断で犯罪人を斬首刑や磔刑(はりつけ)、火あぶりなどの刑に処せられるなど典型的な封建体制が続いていました。

 ボアソナード日本のこうした法体系の未整備が幕末の不平等条約を生んだと主張しました。

「法を整備しなければ、欧米列強からは見下され、次々に無理難題を押し付け、徹底的に搾取されてしまいます。法治国家とならないまま条約改正の交渉をしても信用が得られず、上手くいかないことは目に見えています。」

 条約改正が最重要課題の1つであった政府にとって、これは大変耳の痛いことでした。

  また、ボアソナードは日本の諺「罪を恨んで人を憎まず」を引用して死刑は近代国家にはふさわしくないと死刑廃止論を展開しました。

彼の死刑制度反対の理由として以下のようなことを並べています。

  1. 裁判には一方的な推測や判断、思い込みがあり得ること
  2. 処刑者の家族は不幸であること
  3. 冤罪だった場合、取り返しがつかない

  彼の祖国、フランスでは日本よりも100年以上早く市民国家が誕生。人々は貧富に関わらず、法のもとでは平等であり、死刑制度もありません。

 ボアソナードは日本もフランスのような社会制度が必要だと唱えます。フランスと言えば、ルソーの社会契約論が有名ですが、彼もルソーのような性善説の思想を持っていたのです。

 さらに、日本には江戸時代の頃から、被告(犯罪人)に対し、拷問を加え、自白させるという嫌な慣習が定着しており、それは明治に入っても継続されていました。以下はボアソナードのロマンチストでヒューマニズムに溢れたエピソードです。

 

 ある日、司法省に出勤途中のボアソナードは、裁判官が一人の犯罪人を尋問しているところを目撃してしまいます。犯罪人は角のある横木の上に座らされたうえに、大きな石を3、4個も抱かされて、その痛さに耐えかねて「ウギャーーーー!!!」と悲鳴を上げていました。

  ボアソナードはそのあまりに非人道的な行為に驚き、思わず号泣してしまいました。

騒ぎを聞きつけた大審院長(裁判長)は裁判官に拷問を辞めるよう指示しました。

 ボアソナード大審院長とともに司法省に駆け込み、時の司法卿・大木喬任(おおきたかとう)に面会。ボアソナードは拷問がいかに残酷で野蛮で非近代的な行為かを熱弁。その話は数時間におよんだといいます。

 ボアソナードは直ちに拷問撤廃に関する建白書を政府に提出。それを受けた政府は、明治12年、拷問を撤廃する太政官布告を発布しました。

 しかし、制度として撤廃された拷問は、後も日常的に行われていました。にわかには信じ難いことですが、警察による残虐で非人道的な拷問が横行しており、それは明治、大正、昭和にわたりおびただしい数に上っています。それはまさに法による支配ではなく、無法による支配と呼ぶにふさわしい状態と言えるでしょう。

 

 彼は旧刑法や治罪法を想起。この2つは、日本最初の近代的な刑法として制定されました。

 さらに、民法も草案しましたが、急進的で日本の家族制度が崩れると危惧した法律学者・穂積八束(ほづみやつか)が反対し、1889(明治22年)の民法典論争に発展。結果、ボアソナードの民放は採用されず、家族制度を保護した新民法が制定されるのはずっと後になりました。

(家族制度・・父親が家の統治者であり、その後を継ぐ長男は母親よりも地位が高いとする制度)

 ボアソナードの思惑とは裏腹に、日本の法律はドイツの影響を強く受け、明治22の大日本帝国憲法はドイツ色の強い憲法となっていました。

 フランスといえば、どうしてもフランス革命という急進的な革命や、ルソーの過激な思想など、政府と対立していた自由民権派を連想させることから敬遠されていたのでしょう。

 美術

アントニオ・フォンタネージ

 1818年、イタリアのレジオエミリアに生まれる。故郷の美術学校に学び、装飾画を手掛け、スイスで風景画を描き続ける。ルッカトリノの美術学校の教授を務めた後、1876(明治9)年、明治政府に招かれ来日。

雇用期間2年 月給300円

 明治新政府は一刻も早く欧米と肩を並べたいと考えていた明治新政府は、製鉄や造船、鉄道、建築、鉱山開発、化学などの科学技術の導入を急いでいました。

 福沢諭吉は著書・『学問のすすめ』で近代化を目指すには「実学」を学ぶべきだとしましたが、殖産興業と富国強兵のためには、製鉄や鉄道など、まさに「実用の学」が優先され、芸術はずっと後回しにされてきたのです。

 そんな政府が、ようやく工部美術学校が開校されたのは1876(明治9)年のことでした。時の工部卿伊藤博文は日本における美術教師として、イタリアから彫刻や画家など様々な分野の美術教師を雇い入れました。モッセは画家教師として招かれ、同年、来日しました。

 

 江戸時代から既に各地の私塾で美術を学んでいた青年達は、工部美術学校に集まり、日本で初めて体系的な美術教育がおこなわれました。

 フォンタネージは油絵の技法、遠近法、明暗法など西洋の近代的な表現方法を生徒達に教えます。そのうえで、デッサンの模写、石膏の写生、手足の細部写生、人形写生、人体写生を経て、最後は油彩による風景写生へと進んでいきました。

 

 弟子達はフォンタネージの教えを吸収し、日本の洋画界を担う人材に成長していきました。中でも、浅井忠(あさいちゅう)はフォンタネージの影響を強く受けており、明治23年の第二回明治美術館に出品した作品「収穫」は日本の農村風景を描いた作品で、彼の代表作です。

 浅井はその後、2年間のフランス留学を経て、京都に移り住み、梅原龍三郎安井曾太郎など日本洋画界を担う逸材を育てます。

 フォンタネージの教育方針は、「まず、褒めることから始める」です。これは人材育成の基本の「き」で、師匠と弟子の信頼関係を築くうえでは、非常に重要なことです。

 指摘されて嬉しく思う人なんていません。

 批判されて嬉しく思う人なんていません。

 師匠とは弟子の持っている潜在能力を最大限にまで引き出す役割を担っています。それには弟子達の自己重要感、自己肯定感を強めてあげる必要があります。フォンタネージは人材育成の本質が分かっていた理想的な師匠だったのです。

 地方行政

アルベルト・モッセ

 

 1846年、ドイツに生まれる。ベルリン大学を卒業後、ベルリン裁判判事を務める。その後、ドイツの日本大使館顧問となり、ベルリンに滞在していた伊藤博文らに憲法行政法を講義する。1886(明治19)年、日本政府に招かれ、妻とともに来日。内閣及び内務省法律顧問に就任する。地方自治制度創設の際、市制と町村制の原案を起草。憲法制定にも重要な助言を行った。

雇用期間3年 月給600円

 

国民による自由民権運動を受けて、帝国議会を開くことを約束した政府は憲法制定など、その準備に追われていました。それに伴い、地方の自治制度も確立させなければなりませんでした。

それまで、地方制度には、1878年に三新法と呼ばれる制度が確立しており、群区町村編制法、府県会規則、地方税規則が敷かれていました。それらを廃止し、新たに市制、町村制、府県制、群制が制定されるのです。

モッセはまず、市制と町村制の起草に着手。編纂委員会に提出しました。

 

加筆修正が加えられた後に、1888(明治21)年、市制と町村制が発布されました。さらに、1890(明治23)年に発布された府県制と群制もモッセの助言が適宜採用されました。

明治時代の地方自治制度は、大学等の入学試験にも出るところなので、市制、町村制、府県制、群制の細かい内容を見ていきましょう。

市制とは、内務大臣がその地域から市長を任命し、その市長をトップに市会という議会を作り、その地域の運営を行うというもの。人口が25,000人以上いる地域を市としました。

次に町村制ですが、町村とは、市よりも小さな単位です。市同様に任命された町村長には権限がなく、ほとんど名誉職のような状態でした。群区町村編制法時代に70,000以上あった町村は、合併され、15,000程度にまでまとめられました。

 

さらに府県制ですが、府県とは現在の都道府県のことだと思ってください。当時は「北海道」が開拓途中で、東京都も「東京府」だったので、府県制となっています。政府から選ばれた府県知事はそれぞれの府県に派遣され、地方自治を行うというもので、府県知事は内務省に所属する官僚が行いました。

 

最後に群制ですが、群とは、府県と市町村の中間程度の規模の地域になります。府県として扱うには小さすぎて、市町村として扱うには大きすぎる地域を群としました。

府県の中にいくつかの群が存在し、さらに群の中に市町村があるイメージです。

 

モッセの構想したプロイセン(ドイツ)型の地方自治制度は、今日の地方自治制度として現在も利用されています。モッセの活躍により、これだけの短期間で一気に先進国並みの地方自治制度を確立出来たのです。

 

 

このように明治時代の日本は、大臣並みの給料で外国人を雇い、西洋の先進的な技術を取り入れたのです。以上。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

お雇い外国人とその弟子たち         片野勧=著  新人物往来社

http://jahistory.com/mosse/