日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【高給取り!?】明治時代のお雇い外国人の皆さん(産業技術編)

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【高給取り!?】明治時代のお雇い外国人の皆さん(産業技術編)」というお話です。

 

 幕末の革命によって徳川将軍家から政権を奪うことが出来た明治政府の最重要課題は、欧米列強と対等な独立国としての近代国家の建設でした。そこで、明治政府は海外から外国人を雇い入れ、彼らから技術や知識を学ぶことで近代化政策や人材育成を図った。彼らのことを「お雇い外国人」と言います。

 「和魂洋才」とは幕末の蘭学者佐久間象山の言葉ですが、西洋の才(技術)は謙虚に受け入れても、日本の魂は決して見失ってはいけないという精神のもと、明治人は、文明開化をスローガンに独立国としての日本を実現するために奮闘しました。

 

 ということで、今回は明治時代に来日したお雇い外国人についてご紹介します。

 今回紹介するお雇い外国人は以下の5名です。

 製鉄・造船  ヴェルニー  (フランス)

 鉄道     モレル    (イギリス)

 印刷     キヨッソーネ (イタリア)

 医療     ベルツ    (ドイツ)

 建築     コンドル   (イギリス)

 

 彼らは、どのように日本の近代化に貢献してくれたのか。彼らのプロフィールや給与を見ていきながらご紹介します。

 参考までに当時の給与水準(月給)を示しておきます。

 太政大臣三条実美   800円

 右大臣・岩倉具視    600円

 伊藤博文(後の初代首相)400円

 小学校校長        10円

 民間の工場労働者      5円

 

製鉄・造船

フランソア・L・ヴェルニー (フランス) 

 1837年フランスのオーブナで生まれる。パリの理工科大学を卒業後、海軍に入る。清国(中国)で造船工場を建設した実績を持ち、1865年、江戸幕府の要請により27歳で来日。横須賀製鉄所の建設に従事する。明治維新後も引き続き、フランス人職工を指揮しながら、その建設と運営を行った。

雇用期間11年、月給1000円

 製鉄及び造船技術は軍事力強化には欠かせないものです。当時、徳川幕府は西洋の軍事力を取り入れようと、その対応に追われていました。そこで、艦隊を国内生産出来るように造船技術者であるフランスのヴェルニーを招き入れました。

 幕末の改革を経て、明治政府誕生後も建設を続けます。横須賀製鉄所を建設・運営にあたり、ヴェルニーは、フランスから26名の精鋭部隊を呼び寄せました。その中の代表的な技術者を紹介します。

 ルイ・フィリックス・フロランという人物は、船舶の安全航行には欠かせない灯台建設のプロであり、日本初の洋式灯台である観音崎(かんのんざき)灯台を建設しました。

 エドモン・バスティンという人物は、製鉄所内の道路や橋梁、港湾などの土木事業に従事しました。

 ポール・サヴァティエという人物は名医であり、横須賀製鉄所の職員の健康管理や横須賀住民の診察に従事しました。

 横須賀製鉄所は後に横須賀造船所となり、ヴェルニーの指導のもと、多くの日本人職工達が工事に動員されました。

 また、特筆するべきは横須賀造船所には日本初の造船学校「黌舎(こうしゃ)」が設立されたことです。ここでは、17歳~21歳の志ある若者にヨーロッパ式の造船技術を教え、優れた日本人伝習生を輩出しました。

鉄道

エドモント・モレル (イギリス)

 1841年、イギリスのロンドンに生まれる。ロンドン大学を卒業後、オーストラリアの鉄道顧問技師として現地の鉄道建設に従事する。1870(明治3)年に来日。明治維新後に最初に政府に招かれた「お雇い外国人」の一人。27歳にして建築事業トップの役職である初代鉄道兼電信建築師長に任命される。

 雇用期間5年、月給は初年度が600円、2年目以降は850円

 鉄道とは産業の大動脈のようなものであり、流通や経済を活発化するためには必要不可欠なものでした。当時、日本の代表的な貿易港として発展した横浜と神戸から物資を輸出入するための輸送路を敷設する必要がありました。明治政府はモレルに鉄道建設を要請、モレルは新橋~横浜間及び大阪~神戸間の鉄道建設に着工しました。

しかし、志半ばで彼は死去してしまいます・・・・。(詳しくは以下のリンクから)

motomiyatakahiro.hatenablog.com

  鉄道建設を支持したのは京浜周辺に住む商人達です。当時、彼らは日本の主力製品であった生糸の卸売(おろしうり)をしており、鉄道が完成すれば、生糸を輸出港まで飛躍的に運ぶことが出来、莫大な利益を得ることが出来るからです。

鉄道の完成は近代日本の経済発展に大きく貢献しました。

 

印刷

エドアルド・キヨッソーネ (イタリア)

1832年、イタリアのジェノヴァ市に生まれる。ジェノヴァの美術学校を卒業後、イタリア国立銀行に勤務する。紙幣の印刷・製造を研究するためドイツに留学し、偽札防止の手法を編み出しました。1875(明治8)年に来日。大蔵省紙幣寮(現:財務省印刷局)で近代的な紙幣、切手、印紙などのデザインを日本に紹介する。

雇用期間は16年間、月給450円

明治政府は中央集権国家をつくるために、それまで各藩バラバラだった通過を統一する必要がありました。しかし、当時の印刷技術は紙幣としての精密さに欠け、古めかしく、品格もないお粗末なものでした。そのため偽札が簡単に複製出来るものでした。

 

明治政府は新紙幣の国産化を目指すと同時に、偽札防止の対策も計画していました。そこで、キヨッソーネを招き入れたのです。

紙幣とは国家の権威としてのシンボルであり、人々にそのリアリティーを感じさせる必要があります。そのため、デザインは極めて重要な要素です。さらに、偽造を防ぐためには写実的かつ立体的である必要があり、どうしても西洋の最新式紙幣製造技術が必要でした。キヨッソーネの最初の作品は「国立銀行紙幣・1円券」でした。当時の日本の富国強兵政策を反映して表面に2人の水兵の姿を彫刻、裏面には商売の神様である「恵比寿」を描いています。

日本最初の肖像画紙幣は明治1881(明治14)年に先程の「1円券」に改めて描かれました。キヨッソーネは政府の要請で、神功皇后(じんぐうこうごう)を描きます。しかし、この神功皇后は日本の記紀(きき)に出てくる伝説の人物であり、想像で描かれることになりました。

なぜ伝説の人物を肖像画に選んだのでしょうか。当時の明治政府は、元々、尊王攘夷思想の持ち主で、『古事記』や『日本書記』に基づいた国学や水戸学の影響を強く受けていたのです。中でも神功皇后は神格化されており、「日本は神の国である」という極端な自国中心主義へと陥しいれてしまいました。キヨッソーネは『日本書記』の「幼ニシテ聡明叡智、容貌壮麗」という神功皇后に関する記述を丹念に読み込み、イメージを表現しました。

 

医療 

エルヴィン・フォン・ベルツ (ドイツ) 

 1849年、ドイツの片田舎に生まれる。ライプチヒ大学で医学を学ぶ。しかし、普仏戦争が勃発し、出征、ドイツの勝利に終わる。大学に復帰した後は、博士号を取る。 1876(明治9)年に来日。26年間教壇に立ち続けた。

 日本滞在期間は約30年間。月給は330円 年俸は4050円

 日本に医学を教えるために来日したベルツは東京上野で開かれた第一回日本聯合(れんごう)医学会で以下のような名言を残しています。

 「医学とは学問であるばかりではなく、医術という1つの能力である。したがって、どんなに繰り返しても多過ぎるということはありません。何のために医者は勉強をするのでしょうか。それは医学の知識をつけるためではなく、その知識を患者に役立つよう応用するためです。」

 ベルツは東京医学校(現:東大医学部)の教授として学生に医学を教えます。ベルツの教育は西洋の医学を一方的に教える受け身の授業ではなく、学生と実際に診療現場に赴き、そこでの調査や経験を踏まえたうえで医学を教える実地教育です。

 例えば、1878(明治11)年、学生と長岡に赴き、信濃川流域で多発している熱病を調査し、『日本河川熱又は洪水熱』という論文を発表。

 また、1881(明治14)年には脚気の研究に精力を注ぎ、それが集団生活の中で多発するので地方性伝染病であると考え、『多発性抹消神経炎と脚気との関係』という論文を発表しています。

 つまり、これらの論文は西洋の医学をそのまま導入したものではなく、日本の風土や環境を調査することで生まれた日本独自の医学教科書なのです。

 

 ところで、ベルツが日本に滞在した期間は、日本の文化が急速に西洋化した激動の時代であり、ベルツは当時の日本の風潮を痛烈に批判しています。

「日本人は、自国の古いものを悪として恥ずかしがり、西洋のものを何でも良いとして無条件に取り入れている傾向がある。文化とは生命体のようなもので、その土地や気候、条件などが揃って生まれたものです。西洋独自の文化をそのまま日本に移植するのは、あまりに危険な行為です。

 ベルツは人の病理を診察すると同時に、「時代の病理」も診察する名観察者だったのです。

建築

ジョサイア・コンドル (イギリス)

 1852年、イギリスのロンドンに生まれる。ロンドン大学で建築を学ぶ。1877(明治10)年に来日。工部大学校造家学科(現:東大工学部建築学科)の教師として建築技術者の育成とインフラ整備が任務。

 雇用期間5年、月給は350円、年俸は4200円

 明治政府は日本の伝統的な建築文化は遅れていると恥ずかしがり、西洋のレンガ造の建物に強い関心を示しました。しかし、コンドルはそんな日本人に対し、違和感を覚えます。

「建築はその時代や国の文化を象徴する作品です。イギリスにはイギリスのゴシック建築があるように、日本にも日本独自の藁葺き屋根や瓦屋根などの建築文化があるのです。何も恥じる必要はありません」

 コンドルも先程のベルツに似た建築理論を持っていました。

 

 コンドルは来日早々、工部省から設計の注文を受けます。コンドルの最初の仕事は東京・上野の東京帝室博物館(現:東京国立博物館)の設計です。コンドルは授業と建物の設計というハードスケジュールとなりました。レンガ造りの1881(明治14)年に竣工、第2回内国勧業博覧会の展示館となった後、博物館となりました。

 また、明治政府の重要課題の1つに幕末に締結された不平等条約の改正がありました。政府は条約改正への各国からの理解を得ようとしました。そこで、日本紳士とその夫人が各国の外交官とその夫人を招き入れ、接待する洋風な娯楽社交場が必要になりました。

 そこで、コンドルは1883(明治16)年、東京・麹町区鹿鳴館を建立しました。(昭和14年に取り壊されます。)

 

 彼の弟子には日本銀行や国会議事堂、東京駅を設計した辰野金吾赤坂離宮(迎賓館)や奈良国立博物館を設計した片山東熊、慶應図書館や三菱銀行神戸支店を設計した  

 いずれも工部大学校造家学科の一期生で、近代日本の建築業界を牽引していきました。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

お雇い外国人とその弟子たち         片野勧=著  新人物往来社