日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【三国干渉】なぜ日本は急速に軍事力を高めることが出来たのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【三国干渉】なぜ日本は急速に軍事力を高めることが出来たのか」というお話です。

 今回もストーリーを展開しながら三国干渉についての解説と、日露戦争を起こしたのは日本国民だったことについても触れていきたいと思います。

日清戦争によって日本が清国から譲り渡された遼東半島は、ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉によって清国に返還することになりました。これに日本国民は大激怒。政府は感情的になった国民の力を利用して明治維新以来の課題であった富国強兵を一気に達成させようとしました。日露戦争までの10年間の間、日本の軍事予算は全体の40%にまで跳ね上がました。

 

 

 明治時代は、数多くの新聞や雑誌が刊行されるなど、ジャーナリズムが発達した時代でもあります。

 徳富蘇峰(とくとみそほう)は、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリストです。彼は平民主義の思想家で、井上馨(かおる)鹿鳴館のような極端な欧化政策を否定するなど近代化の恩恵を一部の支配者が独占するような藩閥政治を批判し、一般の国民こそがもっと近代化の恩恵を享受するべきだと主張した人です。当時の有名な文化人と思ってもらえば良いです。

 

 そんな蘇峰は、1895(明治28)年、遼東(りょうとう)半島を旅していました。遼東半島とは、中国大陸から黄河に突き出た半島で旅順(りょじゅん)や大連(たいれん)などの大都市を含んでいます。

 遼東半島といえば、同年、日清戦争講和条約である下関条約によって清国(中国)から譲り渡されることが決まっていた場所です。

 ところが、蘇峰が帰国する直前、三国干渉という事件が発生しました。

 

 三国干渉とは、日本の遼東半島占領を不愉快に思ったロシアが、フランスとドイツを味方に付け、三国が責め立てるようにして日本に遼東半島を清国に返還するよう求めた事件です。

 これによって、せっかく日本が獲得した遼東半島は清国に返還されることになりました。

 この知らせを聞いた蘇峰は愕然としました。

「私はロシアやフランス、ドイツを憎くんではいない。彼らの干渉にあっさり屈した日本の腰抜け外交を憎んでいるのだ。」

 そして蘇峰は、旅順(りょじゅん)の波打ち際から小石と砂利をハンカチに包み、持ち帰りました。

「一度は日本の領土になった記念として」

 

 帰国後、蘇峰は機関紙・「国民之友(こくみんのとも)」で、日本の外交能力は弱すぎると当時の首相・伊藤博文外務大臣陸奥宗光を批判しました。

 

 「国民之友」は直ちに発刊され、日本国民を煽りました。

「なんでロシアが干渉してくるんだ?奴らは関係ないだろう?」

「このままじゃ、朝鮮の利権すらも危ないぞ。」

「政府は国民には厳しいくせに、列強諸国にはヘコヘコしやがる。情けねぇ」

「今すぐロシアに戦争をしかけろ」

 

 日本国内には、空前の日露戦争ブームが巻き起こりました。

国内では、開戦論者と非開戦論者による議論が盛んに行われるようになりましたが、話にならない。開戦論者が圧倒的多数を占めていました。内村鑑三(うちむらかんぞう)幸徳秋水(こうとくしゅうすい)、与謝野晶子(よさのあきこ)は、ごく少数の非開戦論者としてその思想を世論に訴えかけました。

 

 しかし、政府の判断は止む得ないものでした。もし、三国の要求に逆らって戦争にでもなったらどうする?ロシアだけでも難敵なのに、そこにフランスとドイツも名を連ねるとなると日本一国では到底太刀打ち出来ません。その結果、日本が開国以来恐れていた列強による植民地支配は必至の事態となります。

 首相・伊藤博文は言いました。

「我が国は、昨年まで清国と戦争をしていた。その影響で、艦隊はもとより、兵器、爆弾、戦闘部隊を欠乏、疲労させてしまっている。この機にロシアと戦争など出来ない。ここはひとまず三国の要求を呑むべし。」と。

 

 しかし、その後、日本が返還したばかりの遼東半島をロシアが遼東半島の西端・旅順および体連湾を租借する名目で支配下に置いてしまいました。

 

 このニュースは各新聞を通じて世論を煽りました。

「ロシアって国は、全くしたたかで卑怯な国だ。」

「力任せの卑怯なロシアに、どちらが正しいかを教えてやれよ。」

「清に勝てたのだから、この勢いでロシアをぶっ潰せよ。」

「今すぐロシアに戦争をしかけろ」

 国民の日露戦争ブームはさらにヒートアップしました。

 

 やがて国民のあいだに臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という言葉が生まれます。中国と戦争したことで発生した課題に対し、中国の故事成語を合言葉にするとは何とも皮肉なことですが、国内の感情的な気運は収まる気配がありません。

(臥薪嘗胆・・・中国の故事成語で、どんな苦しい思いも我慢し、いずれ復讐によってその恨みを晴らす意味です。)

 

 こうした国内の気運に対し、外務大臣陸奥宗光はこう言いました。

「我が国の民は、全く主観的な視点になってしまっている。客観的な考察などもはや皆無。後先を考えず、一時の感情だけで突っ走る愚民達に我が国の最期が見えてしまった。」

 ご覧の通り、政府の方がよっぽど冷静な考えが出来ています。

 日露戦争の開始を訴えたのは、むしろ国民だったのです。

 

「戦争などしてはいけない。いかなる理由があっても人が人を殺すのは大罪悪である。」

 

 当たり前のことですよね。

 3歳の幼児でも知っていることです。

 にも関わらず、ダイの大人が「戦争をしかけろ」なんて、暴言以外の何モノでもないです。

 理屈や論理を振りかざして戦争を正当化する・・・・・。こんな大人が120年前も現代も変わらず存在しているのです。

 

 一方で陸奥は、この国民感情を利用して軍事力の増強を図ることを決めました。

「明治以来からの課題である富国強兵政策を一気に実現させる絶好のチャンスだ。」こうして日本は軍事大国への道を駆け上がります。

 国家の総歳出のうち、軍事費が占める割合が急増しています。日清戦争後の1895(明治28)年は、32%でしたが、翌年には48%に跳ね上がっています。これは日露戦争開戦までの10年間ずっと続きます。ロシアとの戦争に備えて日本は大予算を組んだのです。

 時の大蔵大臣・松方正義は、「財政意見書」を提出し、日清戦争後の国家財政についてのプランを示しました。

「我が国の軍備拡張計画は、これで決まりだ。近代的な艦隊、大砲、爆弾、戦闘部隊を作り上げるのだ。

 歳出の優先順位は、1位 陸軍拡張、2位 海軍拡張、3位 製鋼所、4位 鉄道及び電話拡張でした。

 松方は、ロシアの兵力を分析したうえで陸軍をどのくらい増強すればよいかを導きました。シベリア鉄道の輸送力や対西欧諸国などの関係から、ロシアが極東に派遣出来る兵力を約30万人、極東常備軍兵力と合わせて計50万人と見積もりました。これに対応するべく日本の陸軍は兵員、兵力ともに倍以上の大編成が行われたのです。1900(明治33)年には目標通りの編成を終えることが出来ました。

 

 次に海軍ですが、その前に製鋼所について見ていきたいと思います。1901年、日清戦争の賠償金によって八幡製鉄所が建設されました。鉄や鋼の製造は、大砲や装甲板なあどの軍用資材となる基幹産業になります。八幡製鉄所は以後の大規模製鉄所のモデルとなり、各地に製鉄所、鉄工所、製鋼所が次々に建設されていきました。日本は第二次産業革命を迎えたのです。

 海軍の拡張計画は、海軍大臣西郷従道によって提出された艦隊建設案から始まりました。日清戦争は、ボロ船に大砲を乗せただけといって良いような軍艦が多く、戦艦といえるようなものではありませんでした。対して日露戦争では近代的な戦艦が続々と使われます。

 

以後、日本はバリバリの軍事国家へと成長していきます。

 

 以上。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

斎藤孝の一気読み!日本近現代史         斎藤孝=著  東京堂出版

坂の上の雲」の時代                     世界文化社

子供達に伝えたい 日本の戦争          皿木善久=著 産経新聞出版

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著  祥伝社