日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【日露戦争】勝利した日本が得たもの、そして失ったもの

 

こんにちは。本宮貴大です。

今回のテーマは「【日露戦争】勝利した日本が得たもの、そして失ったもの」というお話です。

日露戦争で老大国・ロシアに勝利した日本は全世界にその名声を轟かせることが出来ました。しかし、一方で国内の治安が悪化し混乱状態になりました。日本は日露戦争膨大な借金や人的損害を受けて大きく疲弊してしまったのです。

 

 満州朝鮮半島の利権をめぐって日本とロシアは戦争を始めました。1904(明治37)年に勃発した日露戦争です。奉天会戦(ほうてんかいせん)日本海海戦という大きな戦いで両国は大激突。激戦の結果、ロシアは後退を始めました。日本は圧倒的な国力の差を跳ね返し、1年8カ月におよんだ戦争で日本は奇跡的な勝利を収めたのです。

 日本が老大国ロシアに勝ったことは全世界に広がりました。特に欧米列強の植民地支配を受けているアジア諸国には大きな影響を与えました。

 強大な白人国家に黄色人種新興国が勝利したことは、アジア諸国の人々に大いなる希望と勇気を与えたのです。清国の孫文毛沢東、インドのネルーやガンディー、ベトナムホーチミンなど、後に独立運動の指導者として活躍していく人々に日本の勝利は大きな感動と影響を与えました。

 イギリスの植民地であったインドは近代化が進むと同時にインド人の国民意識が高まり、日露戦争終結の翌年に国民会議派カルカッタ大会が開かれ、独立運動の指針となる4綱領が採択されました。

 また、フランスの植民地であったベトナムでもファン=ボイ=チャウによって日本への留学を推進する東遊(ドンズー)運動が始まりました。

「我が同志よ。日本という国を知っているか。彼らはあの老大国ロシアとの戦争に勝ったのだ。我々も、いつまでも白人の支配にビクビクしていてはダメだ。日本のように列強諸国と戦うのだ。今こそ立ち上がらなくてはいけない。」

 さらに、ロシアの圧迫を受けていたトルコも日本の勝利に沸き立ち、イスタンブールには連合艦隊司令長官東郷平八郎の名を冠した「トーゴー通り」が誕生するほどでした。その後トルコでは青年トルコ革命が起き、日本と同じ立憲君主制の樹立が目指されました。

 中東のイランでもイラン立憲革命という日本に倣って近代的な立憲運動を目指す運動が高揚しました。

 その他にアフリカのエジプトにまで日本の勝利は大きな影響を及ぼしました。

 日本は日露戦争の勝利で、その名声を全世界に轟かかせることに成功したのです。

 

 一方、日露戦争によって日本は何を失ったのでしょうか。

 日本国内の治安は悪化しました。

 日露戦争はロシアが余力を残した状態で後退したため、賠償金支払いには断固反対しました。ロシアには戦争を継続する体力が余っているのですから当然です。しかし、多大な犠牲を払ったのに賠償金が取れなかったことを知った国民は激怒したのです。

 

 最も有名なのは、日比谷焼き打ち事件でしょう。これは1905(明治38)年9月に起きた事件ですが、ポーツマス条約で日本が賠償金を得られないまま講和条約を結んだことに対して大きな不満を持った日本国民が日比谷公園で国民大会を開催しました。その参加者の一部が暴徒化し、内務省官邸や警察署、交番などを次々に焼き打ちした事件です。

「これだけ多くの国民が命を落としたのに、一銭も賠償金が取れないなんて。政府は一体何をやっているんだ。」

「私達は銃後も一生懸命働いたのですよ。なのに国は小さな勲章を渡しただけ。夫や兄を返して。」

 暴徒は手がつけられない状況になり、とうとう桂首相官邸にも及ぶようになるなど一時無政府状態が続きました。このため、桂太郎内閣は軍隊や警察に権限を委ねる戒厳令を出し、派遣された軍隊と警察は暴徒を鎮圧しました。

 暴徒には右翼の連中やかつて自由民権運動で活躍した河野広中がいました。

 

 損害は戦費だけでなく、戦死者も膨大なものとなりました。日露戦争の戦死者は5万人に及びました。

 さらに前線で病に罹ったり、負傷したりして後に亡くなった人を含めると8万人にもなります。そのほとんどは職業軍人ではなく、町や村から召集された若い兵士達でした。夫や兄、弟、そして息子を失った遺族は大変苦しい生活を強いられました。その他にも増税国債の購入、寄付、軍馬などの財産提供で生活苦に陥った国民もたくさんいました。

 

 また、戦地から帰ってきた兵士達の素行も問題視されました。徴兵を余儀なくされ、人を殺さざるを得なかった彼らは自暴自棄になり、生業を放り投げ、酒や奢侈にふける毎日を送るようになってしまった。また、ロシアに勝利するという目的を果たしてしまったことで目標を失った多くの国民には呆けた状態が目につくようになりました。

 さらに、戦争によって腕や足を失った重傷兵の社会復帰は困難を極めました。彼らは十分に労働にありつけず、政府は廃兵院という負傷兵の生活施設を設立するも大した効果は上げられませんでした。その結果、負傷兵の中には生活苦のあまり犯罪に走るものが続出しました。

 また、政府や国家に対する不信感からそれまでの資本主義に対抗する新しい思想である社会主義に飛びつく知識人や思想家も現れました。(次回以降紹介していきます。)

 新聞や雑誌などのマスメディアが日本の勝利を大大的に発表したことで、世論は熱狂したのです。しかし、ポーツマス条約はその期待に反した内容だったため、反感は非常に強いものとなりました。

 まもなく桂太郎内閣の支持率は急落します。そして1905(明治38)年末、桂太郎内閣は総辞職に追い込まれました。総理大臣を継いだのは以前から政友会が明治天皇に推薦していた西園寺公望でした。

 

 日露戦争では強国ロシアに勝利したことで、日本の国際的な地位は大きく向上しました。当時、八大強国と呼ばれる国々が存在しており、日本はその中の八番目の国としてランクインすることが出来ました。イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、オーストリアハンガリー、そして日本です。アジアに独立運動の気運を促した日本は皮肉にもヨーロッパ列強と同じくアジアを支配する側にまわるようになります。

 

 明治維新以来、日本は富国強兵を推し進めてきました。しかし、その軍備増強には多額の費用がいります。その費用は言うまでもなく国民から徴収された税金によって賄われます。

 それを軍備という非生産的で利益を生まない行為に向けられたことで、今後国民の生活はどんどん苦しいものになっていきます。戦争は勝っても負けても地獄が待っているということを当時の日本人は思い知らされたのではないでしょうか。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

子供達に伝えたい 日本の戦争          皿木善久=著 産経新聞

教科書よりやさしい世界史                   旺文社

風刺漫画で日本近代史がわかる本         湯本豪一=著 草思社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

もういちど読む山川日本近代史          鳴海靖=著  山川出版社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社