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【中江兆民】自由民権運動に影響を与えた思想家

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【中江兆民自由民権運動に影響を与えた思想家」というお話です。

 明治政府は文明開化をスローガンに近代国家樹立のために急速な西洋化を図りました。日本の独立を守るには、西洋の文明を取り入れる必要があり、さもないと欧米列強の支配を受けることは必至の事態だったのです。

 

 ところで明治政府は、薩摩・長州の出身者による藩閥政治が行われましたが、建前上は公家出身者と武家出身者による合議制・話し合いが取られていました。しかし、内状は1~2人の独裁政治が行われていました。そこで、1870年代半ばから人々は国会開設と参政権を求めて自由民権運動が繰り広げます。

 

 今回はそんな自由民権運動で自ら思想を形成し、人々にその思想を広げた中江兆民(1847~1901)という人物を紹介します。自由民権運動と言えば、板垣退助をイメージする人が多いと思いますが、兆民も自由民権運動の理論的指導者として大きな影響を与えた人物です。

明治時代の文明開化が進んでも、世間にはいっこうに自由な空気が育たないことに中江兆民は不満を持ちます。兆民はフランスのルソーの思想を研究。「東洋のルソー」と呼ばれた兆民は、急進的なフランス革命のような人民が自由や平等を勝ち取るべきだと主張し、専制政治を強いる政府を批判しました。

 1847年、土佐藩高知県)の足軽の子として生まれた兆民は、1871年、24歳の時に政府の中心人物・大久保利通に直談判して岩倉使節団に同行することを許可され、フランスに留学します。フランスでの滞在期間は1872年から1874年のおよそ2年間で、この時にルソーの思想を研究しています。

 当時、フランスには西園寺公望や光妙寺三郎などが留学しており、兆民と親しく酒を飲むこともあったようです。この関係は帰国後、兆民と西園寺が手を結んで「東洋自由新聞」を発刊することになります。(後述)

 

 帰国した兆民は、1874年、東京麹町(こうじまち)にフランス学を教える私塾を開設します。政府派遣の留学生であるにも関わらず、なぜ公官庁の仕事に就かなかったのは理由があります。実は前年、板垣退助後藤象二郎などの土佐出身の参議が一斉に政府を辞職(明治6年の政変)しており、翌1874年に民撰議院設立の建白書を政府(左院)に提出しています。政府側はそんな土佐出身者に対する警戒心が強く、兆民自身もそんな政府内に入ることを嫌がったのです。

 

 ところが、1875年、大阪会議が開かれ、大久保の策略によって、板垣退助は政府に復帰。同時に木戸孝允も政府に復帰します。これとほぼ同時期、兆民は大阪会議で新設された元老院(立法上の諮問機関)の権(ごん)少書記官となります。兆民はここで初めて官職に就いたのです。

 

 官職に就いた兆民ですが、仏学塾の経営は続き、ルソーの理論を中心に18~19世紀のフランス民主主義思想を紹介していた。兆民の講義ノートの写しは、塾生を通じて各地の民権派の人々に流布し、仏学塾の名声はみるみるうちに高まっていきました。

「人は生まれながらにして自由であり、平等である」

 これは、それまでの日本にはなかった考えで当時の人達にとっては刺激が強すぎるのです。

 兆民によるフランスの自由主義思想や、民主主義思想の布教活動は政府にとって愉快なものではありませんでした。また、兆民自身も官職と民間経営の2足のわらじは立場的に辛かったようで、1877(明治10)年、西南戦争の直前に元老院・権少書記官を辞任しました。

 

 以後、兆民は官職には就かず、生涯民間人として通します。30歳になった兆民は、フランス学を教える傍ら、漢文の勉強を始めます。これが功を奏し、1882年、ルソーの『社会契約論』を漢文で訳した彼の代表作『民約訳解』を刊行しました。これは兆民の独特な文章表現も相まって大ヒット作となりました。しかも、漢文で書かれていたこともあり、日本の青年達だけでなく、中国の青年達からも人気を得獲得。やがて兆民は「東洋のルソー」と呼ばれるようになります。

 

 1881年、兆民は西園寺公望と共に『東洋自由新聞』を刊行します。この新聞で、兆民は自身の「自由論」を展開しています。この年は、立憲制樹立を求めて自由民権派と政府が激しく対立した年でした。兆民は、直接的に民権運動には参加しませんでした。しかし、仏学塾や東洋自由新聞などの教育や各種メディアを通じて自由主義・民主主義の思想を普及させていった代表的な人物なのです。

以下は兆民の自由論です。

 「人間が天から与えられた本来的な自由。その一部は万人の自由のため制限される。しかし、その制限は権力によって強制されるのではなく、人間の連帯を重視する人間個々人の自制心(道徳)によってなされるのである。」

 これはルソーの社会契約説とほぼ同じで、明治政府の専制政治を激しく攻撃しています。

 

 同時に民衆に対しても強い言葉で厳しく叱責しています。

自由権を捨てる者は、人である徳を捨てている

 江戸時代までは、「フリーダム(自由)」という概念は一応存在していましたが、「勝手気まま」というマイナスの言葉として使われることの方が多かったようです。それが明治時代になって初めて基本的人権としての「自由」が生まれました。

 したがって、先述通り、兆民の自由に共感しているのは、思想形成がまだ浅い青年達であり、江戸時代に思想形成された中高年層からすれば、「まったく近頃の若いモンは・・・・何を考えているのやら。」という感想に終わっていたのです。

 また、「お上に物申して逮捕されるより、現状を受け入れるほうが良い」という一種のあきらめや保守的な感覚を持つ人達もいました。

兆民は、こうした人達に‘渇‘を入れ、奮い立たせようとしたのです。

 

 

 また、明治政府の富国強兵政策も激しく批判しています。政府は軍事力を高めることばかりに注力しており、国の発展や国民の生活向上を蔑(ないがし)ろにしていると。「富国」は国民も希望する道だが、「強兵」は果たして必要なのか。

 日本が目指すべきは、西洋列強のような軍事力を背景とした帝国主義国家ではなく、国民一人一人が連帯し、協力する国家であると主張しています。

 

 先述通り、兆民はあくまで学者としてその生涯を貫き、自由党立憲改進党に一定の距離を置くなど政治活動には関与せず、客観的で冷静な眼で彼らの民権活動を見ていました。

 

 ところで、「民権」とは、「人権」とほぼ同じ意味で、福沢が西洋の言葉を「人権」と訳したのに対し、兆民は「民権」と訳しました。

民権運動が退潮期に入った1883年、兆民は仏学塾の同志と日本出版会社を設立します。

 そこで、兆民は、民権には大きく2種類あると主張しています。

 それは恩賜(おんし)的民権回復的民権に分けられ、恩賜的民権とは、天皇や政府から与えられる権利であり、回復的民権とは、人民が天皇や政府から勝ち取る権利だとしています。フランスでは、17世紀のフランス革命によって人民が武装し、国王から自由と平等を勝ち取りました。日本も武装まではしなくても、国民が自らの手で勝ち取るものとするべきだとしました。最初は憲法制定によって恩賜的民権が与えられても、いずれは回復的民権に育てていくべきだとしました。

 

 1890年、兆民は、土佐出身ということもあり、自由党の代義士になります。同年、初めて国会が開かれたとき、黒田内閣と議会は激しく衝突しました。

 その時、黒田内閣は陸奥宗光らと手を組んで自由党内の土佐派のグループを次々に買収してしまいます。買収された土佐派は自由党から脱党し、予算が国会を通ってしまい、解散をみることなしに済んでしまいます。兆民は、それまで政府と戦っていた自由党がほだされていく様を見て、こう言いました。

「無血虫の陳列所」

と言い残し、代義士を辞めてしまいました。

 

 明治政府主導による西洋化は、専ら軍事力強化が目的で、人々の生活は軽視され、思想統制もされていました。ところが、福沢諭吉植木枝盛、そして今回の中江兆民は、思想の面でも西洋化を図らなければ、独立国としての日本はあり得ないと主張しています。

 この時代の人達を勉強していていつも思うのですが、憲法も国会も整備されていない当時の明治人は、現在の私達にはない気概を持っているのが分かります。いつからなのでしょうか。私達が政府に牙を抜かれてしまったのは・・・。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

中江兆民植木枝盛       松永昌三=著 清水書院

教養としての日本近現代史    河合敦=著  祥伝社