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【日英同盟】なぜ日本とイギリスは手を組んだのか【桂太郎】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【日英同盟】なぜ日本とイギリスは手を組んだのか【桂太郎】」というお話です。

 日本は日露戦争の直前である1902(明治35)年、イギリスと日英同盟を結びます。日英同盟とは、その名通り、日本とイギリスの同盟ですが、なぜ、日本とイギリスは日英同盟を結んだのでしょうか。

 イギリスは19世紀後半からどの国とも同盟を結ばず、一定の距離を置く「名誉ある孤立」政策をとっていました。そのポリシーを崩してまで、新興国である日本と手を組んだのでしょうか。

 今回はそれを見ていきたいと思います。前半記事は、「なぜ日本とイギリスは手を組んだのか」について、後半記事は「日英同盟はいかにして結ばれたのか」について見ていきます。

万が一、日本がロシアと戦争した場合、三国干渉のようにフランスやドイツまで参戦してきたら大変です。日本は日英同盟を結ぶことで、日本がロシアを含めた複数の国と戦うことになってもイギリスだけは日本側となって参戦することを約束したのです。 

 日本は8年前の日清戦争には勝利したものの、ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉という予想外の事態を受け、遼東(りょうとう)半島の返還を余儀なくされました。

 さらに中国での義和団事件後には、ロシアが満州(中国北東部)に居座り、朝鮮支配をうかがうという状態が続いてしました。

 日本は朝鮮の利権をロシアに奪われるのではないかと警戒し、いよいよ日露間の対立が深まり始めました。

 しかし、万が一、ロシアと戦争になった場合、三国干渉の時と同じようにフランスやドイツなどの列強諸国がロシア側に加勢してきたら大変です。そこで、日本側としても後ろ盾となる列強諸国と同盟を結びたいと考えていました。

 

 一方のイギリスは帝国主義国家として他の列強諸国に負けまいと、アジアにおける植民地拡大を狙っていました。

 特に最大のライバルであるフランスは、ロシアと手を組み、アジアの植民地拡大を図ろうとしました。ロシアもイギリスにとっては脅威であり、イギリス領であるインドや清国の一部に侵攻されては困るので、警戒していました。

 しかし、さすがに東アジア方面までは遠すぎて、面倒をみることが出来ません。陸軍や海軍を送り込むには時間がかかります。なので、その部分を日本に任せようと考えたのです。

 こうして日本とイギリスは、ロシアと戦争になった場合、お互いの陸軍や海軍を送り込むなどの支援をすることを約束し、日英同盟を結びました。

日英同盟桂太郎内閣のもとで締結されました。当時、世界最強の海軍力を誇っていたイギリスと同盟を結ぶべく桂首相と小村寿太郎外務大臣のコンビが日本の外交をリードしたのです。

 

 次は、日英同盟がいかにして結ばれたのかを見ていきたいと思います。

 1885(明治18)年に内閣制度が創設されました。以来、総理大臣は伊藤博文黒田清隆山縣有朋松方正義大隈重信という明治維新の‘功労者‘がローテーションで就任する、というより「たらい回し」状態が続いていました。

(当時は議員内閣制制度ではなく、薩摩・長州出身者による藩閥によって首相が決定されていました。)

 

 20世紀最初の年である1901(明治34)年、4度目の首相となった伊藤博文の内閣が財政問題で崩壊してしまいます。伊藤は「もう首相はやらない」と言い放ちました。

 

 さぁ、次の首相は一体誰がやるのでしょうか。

 しかし、伊藤を含む先程の‘功労者‘の皆さんは全員60歳を超えており、誰も引き受けようとはしませんでした。もはや、「たらい回し」は限界に来ていました。

 理由は他にもありました。

 先述通り、この時代の世界情勢は非常に不安定で、特にロシアの南下政策は日本だけでなく、中国に植民地を持つ列強諸国も警戒している状態でした。

 こんな危機的状況下で、「功を成し、名を遂げた」‘功労者‘が、今更あえて難局に挑もうとは思わなかったのです。彼らは元老という天皇の側近的な重臣になり、政治上の重要な決定の際、助言や意見を述べるようになりました。

 

 こうした中、総理大臣に任命されたのは、桂太郎という人物です。桂は伊藤や山縣と同じ長州藩山口県)の出身で、戊辰戦争では東北地方を中心に活躍した人物です。桂は山縣直属の部下であり、それまで陸軍大臣をしていました。

 

 こうして1901(明治35)年6月、桂太郎内閣が誕生しました。その桂が外務大臣に抜擢したのが、小村寿太郎(おむらじゅたろう)という人物です。小村は明治を代表する外交マン・陸奥宗光に見出され、駐米大使、駐ロシア大使、駐清大使と各国公使を務めていました。

 20世紀初頭の日本の外交は桂と小村のコンビがリードしていくことになります。桂は元老という先輩達の機嫌をとりながら、小村という部下を動かしていきます。総理大臣という国のリーダーでありながら、中間管理職のような役割を担っていたのです。現代の総理大臣とは随分違いますね。

 

 小村は、日本同様にロシアを警戒するイギリスと同盟をむすべきであると主張します。桂も小村の意見に賛同します。

 しかし、元老である伊藤博文は反対しました。伊藤は、ロシアを異常なまでに恐れる恐露派であり、ここは1つロシアと同盟を結び、危機的状況を乗り越えるべきだと主張しました。その後、伊藤はアメリカ経由でヨーロッパに出かけ、ロシアにも訪問し、日露協商を締結する予定でいました。

 

 しかし、小村は強硬な姿勢で伊藤の主張を突っぱねます。

「ロシアは軍事力によって領土を支配する過激派の連中だ。仮に話合いによって同盟を成立させても、それは一時的なもので、ある日突然、強力な軍事力を背景に朝鮮を支配下に置いてしまうであろう」

 

 日本は過去にロシアから突然領土を奪われているのです。遡ること幕末の1854年、日露和親条約が締結されました。その規定では樺太は両国雑居(日本人とロシア人が入り混じって住む)という珍しい統治方法がとられました。しかし、1875(明治8)年、ロシアは軍艦を樺太に停泊させ、支配を強め、日本人住民を圧迫します。このプレッシャーに屈し、明治政府は樺太を放棄せざるを得なくなりました。(樺太・千島交換条約

 

 桂は、小村を以下のように評価しました。

「小村殿は、身体は小さいが、度胸はとてつもなく大きい。列強諸国の中で最強の海軍力を誇るイギリスと同盟を結べれば、勝利の女神は我々に微笑むであろう」

 

 一方、ロシアと手を組み、アジアの植民地拡大を図るフランスを嫌ったイギリスも、それに対抗するために日本と同盟を結びたいと考えていました。

 「名誉ある孤立」を貫いていたイギリスが、そのポリシーを捨て、同盟に積極的になっている。この機会を逃すわけにはいきません。

 

 こうして、日英同盟を結ぶか、日露協商を結ぶか、どちらになるかが天秤にかけられました。

 1901(明治35)年12月7日、神奈川県にある桂の別荘で伊藤抜きの元老会議が開かれました。小村は日英同盟の必要性を熱心に意見します。

 その熱心さにに明治天皇含む元老達はゴーサインを出しました。

 一方で、明治天皇は桂に言います。

「伊藤殿は、既にロシアに到着しているようです。一応、伊藤殿にも日英同盟締結の確認を取るべきだ。」

 

 桂はロシアの伊藤に電報を打ちました。伊藤からの返事は以下の通り。

「私は、元老であっても、最高責任者ではない。最終的な判断は総理である桂殿に任せます。」

 

こうして翌1902(明治36)年1月30日、ロンドンで日英同盟が締結されました。日英同盟の内容は以下の通りです。

  1. 日本とイギリスは、植民地保護などお互いの利益保護のために共同行動をする
  2. 日英いずれかが、利益保護のため「第3国」と戦争をする場合、もう1国は厳正中立を守ること。

 日英同盟締結時、日本国内は鬼の首をとったように喜び、そして安堵しました。世界最強の海軍力を誇るイギリスが味方についたのは、日本の国際的な地位が上がったような気持ちになったのでしょう。

 日本にとって「第3国」はロシアとなることが明白でした。こうして自信をつけた日本は本格的にロシアと対立することになるのでした・・・。

以上

 最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

斎藤孝の一気読み!日本近現代史    斎藤孝=著  東京堂出版

教科書よりやさしい日本史       石川晶康=著 旺文社

教科書よりやさしい世界史              旺文社

明治大正史              中村隆英=著 東京大学出版会