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【大逆事件】なぜ冤罪の幸徳秋水は処刑されたのか【幸徳秋水】

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【大逆事件】なぜ冤罪の幸徳秋水は処刑されたのか【幸徳秋水】」というお話です。

 日清・日露戦争期に日本は産業革命を経験し、急速に発展すると共に過酷な労働条件が、労働問題・社会問題として表面化していきました。

 1894(明治27)年の日清戦争以降、日本は紡績業や製糸業を中心に産業革命が起き、資本主義社会が発展していきます。同時に紡績工場で働く貧困女工が低賃金で長時間労働を強いられているという問題が浮き彫りになりました。人々の社会主義への関心は強まって行きました。

 

 明治時代は、ジャーナリズムが発達した時代です。新聞や雑誌、書籍が多く発刊され、人々の情報ツールとして活躍しました。ジャーナリストの横山源之助が描いた克明な記録『日本之下層社会』や、農商務省が実態を調査し、まとめた『職工事情』という報告書により、全国の労働者の過酷な生活状況が明るみに出ました。

 これをきっかけに労働者の「労働者階級」としての自覚が芽生え始めます。労働運動に対して人々の関心が集まるようになり、賃金の上昇や労働環境の改善を求めて労働者が団結する労働運動が全国的にひろがっていきます。

 

 労働者の労働運動はやがて、社会主義という思想を後ろ楯とした社会主義運動へと発展していきます。社会主義とは、資本主義を否定する政治思想ですが、資本主義の最大の問題点である「貧富の差」や「労働者の搾取」を解消するためのマルクスエンゲルスによって提唱された考えです。

 

 幸徳秋水は、堺利彦とともに『万朝報』という新聞記者をしていました。当時、かなりの有力紙であり、

 20世紀に入り、社会主義思想はどんどん広がり、1901(明治34)年には日本初の社会主義政党である社会民主党が1901(明治34)年に結成されました。その中心人物の一人が今回の主人公である幸徳秋水です。

 こうした社会主義を掲げた労働運動を警戒した政府は言論弾圧を加え、社会民主党はただちに解散を命じられました。

 1902(明治)年には第一次桂太郎内閣が誕生したとき、日露戦争の危機が濃厚になると、各新聞社は「ロシアとの一戦やむなし」と開戦論を報じるのに対し、幸徳ら『万朝報』は日露戦争の非戦論を唱えるようになりました。

 

 しかし、『万朝報』の社長・黒岩涙香(くろいわるいこう)は発行部数を増やすために、それまで説いてきた非戦論から一転して開戦論を報じ、国民感情を煽るようになりました。

 そう、当時の日本国民のあいだでは、空前の日露戦争ブームで、「三国干渉で日本から領土を奪った憎きロシアに今すぐ宣戦布告せよ!」と騒いでいたのです。少数意見である『万朝報』は発行部数に伸び悩んでいたのです。

 それでも幸徳と堺は、依然として非戦論を唱えます。

 この意見の不一致から幸徳と堺は『万朝報』を退社。代わりに「平民社」という会社を立ち上げ、その機関紙として『平民新聞』を発行して、非戦論を論じました。

 

「このままでは、ロシアと開戦になってしまう。この戦争は列国の経済的競争の激甚なため。何として避けなくてはいけない。」

 幸徳によると、日露戦争は資本主義が生んだ汚点であり、一部の特権階級の利益のための多くの庶民が犠牲になる経済戦争であると非難しているのです。

「戦争とは、官僚と資本家がタッグを組んでしかけた戦争だ。」

 20世紀の戦争は、日露戦争に限らず、経済戦争である場合が多いです。

 この当時、欧米各国は帝国主義の国になっており、資本主義は自由競争社会であり、各国が市場を求めて植民地を拡大し、その利権をめぐって各国が対立しています。これが後の第一次世界大戦の勃発に繋がります。

 

 「戦争反対」なんて冷静な皆さんであれば、極めてまともな意見であることは容易に分かるはずです。むしろ感情的になっているのは、大多数の開戦派で幸徳ら少数の非戦論派は冷静な判断が出来ていると言えます。「少数意見だから間違えている、多数意見だから正しい。」という考えは100年前も現在も変わっていないのです。このように幸徳秋水社会主義の立場から、日露戦争の非戦論を展開しました。

 

 しかし、社会主義者による反対運動を警戒する桂内閣は、幸徳らのこしらえていた『平民新聞』も発売禁止にするよう命じました。彼らが書くものは後から後から発売禁止になります。平民社も新聞社であり、営利団体ですから、次から次に発売禁止されたら大損害です。当然平民社の経営は立ち行かなくなり、間もなく平民新聞は終刊に追い込まれました。

 

 日露戦争が勃発した頃、幸徳はアメリカに渡米します。日露戦争終結し、日本国内には戦争に対して疑問を持つ人達が増えてきた頃、幸徳は帰国。幸徳はアメリカで無政府主義アナーキズム)と呼ばれる考えに引きずられるようになりました。これはマルクスエンゲルスの考えとは違います。

 無政府主義アナーキズム)とは何でしょうか。

 無政府主義とは、読んで字のごとく、政府の支配などいらないという思想で、社会主義思想を発展させた思想です。太古の昔、自然発生的に生まれた人間社会があり、人々は差別や搾取などなく、共同生活をしていました。その村の中には一種の規律やルールがあり、秩序と平和を保っていました。それこそが人間社会の本来あるべき姿なのだという考えです。

 確かに理想の世界ですが、実現的とは言えません。無政府主義は、社会主義という理想国家から飛躍したユートピア社会といえるでしょう。

 このように社会主義思想にも穏健で現実的な社会主義と急進的で空想的な無政府主義アナーキズム)の2種類あるのです。ちなみに、このような無政府主義を別名・共産主義と呼んだりもします。

 

 1906(明治39)年、桂内閣が総辞職し、西園寺公望による第一次内閣が出来ます。西園寺内閣は社会主義などの反体制派の意見には比較的寛容で、強い思想弾圧を行いませんでした。これを機に社会主義勢力は力を強めていきます。

 幸徳秋水は、高山潜や堺利彦らとともに日本社会党を結成。しかし、この日本社会党、議会政策を重視する穏健派と、直接行動を起こそうとする急進派に分かれてしまいます。片山潜や阿部磯雄、西川光ニ郎などの穏健派はあくまで言論によって社会主義を訴えるのに対し、大杉栄、管野スガなどの急進派は暴動や反乱によって社会主義を訴えようと考えたのです。穏健派はマルクス主義と理論的根拠とするのに対し、急進派は幸徳のような無政府主義アナーキズム)と呼ばれる過激な思想を理論的根拠にしていました。

 

 日本社会党は各地で演説を行い、「無政府主義」や「共産主義」を訴えました。勢力を増す社会主義者達に対し、西園寺内閣は危機感を感じ、遂に警察を出動させ、各地の演説を中止させ、日本社会党に対し、解散を命じました。

 こうした強引な弾圧行為に反発した社会主義者達は1908(明治40)年、暴動を企てて公園に集まりました。集まった社会主義者の特に若年層が多く、彼らは「無政府共産」という白文字を縫い付けた赤旗を掲げて行進し、革命歌を歌い、街頭で暴動をこしました。西園寺内閣はすぐに警察隊を派遣。暴動は間もなく鎮圧され、多数の社会主義者を検挙者しました。その中には暴動を止めに入った堺利彦までも捕まってしまいました。堺は裁判にかけられ、1年~2年ほどの懲役刑を言い渡され、牢獄へ入れられました

 

 こうした赤旗事件を受けて、同年、新たに組閣された第二次桂内閣は、社会主義運動に対する取り締まりを一段と強化しました。

 そして、1910(明治43)年、幸徳秋水をはじめとする急進派が明治天皇をすべての根源悪とみなし、その暗殺を計画。爆裂弾の製造にあたっていたということが発覚しました。

 こんなとんでもない事件を見逃すわけにいかない政府は、幸徳秋水ら急進派を検挙、続いて紀州、大阪、熊本などの全国にいる社会主義者を大量に検挙。その人数は三十数名にも及び、全員非公開の裁判に付されました。

 当時の刑法では、天皇、皇后、皇太子、皇太孫などの皇族に対して暗殺を企てた者は死刑とするという条文がありました。しかも、当時の裁判は大審院という最高裁判所のみ。つまり、現在のような控訴と上告が出来る3回の裁判ではなく、1回のみの裁判です。

 裁判は同年秋から始まり、翌1911年に判決が言い渡されました。

 その判決は実に過酷なものでした。

 幸徳秋水ら24名には死刑。他の8名には有期刑が言い渡されました。弁護士はあまりに重すぎる刑だとして減刑を要求しました。

 その甲斐あってか、次の日、明治天皇の御意向ということで、24名のうち、死刑が 行われるのは12名、残り12名には無期懲役減刑されました。

 死刑執行はすぐに行われました。

 牢獄に入っていたことで、検挙を免れた堺は幸徳の死を受け、うなだれました。

「幸徳は天皇暗殺など企てていない。これは政府のでっちあげだ。幸徳は暗殺計画を止めようとしていたのだ。政府の奴らめ、厄介者を全て消し去りやがった。」

 

 そうです。実は幸徳秋水はこの事件に関与しておらず、首謀者でもなかったことが1960年代に歴史的資料から明らかになりました。実は大逆事件、刑法の大逆罪を利用した政府が多くの冤罪である容疑者を無理やりに逮捕・拘禁したものだったのです。

 なぜ冤罪である幸徳は処刑されたのでしょうか。

 政府は幸徳を処刑したかったのでしょう。

 政府が恐れていたのは、労働運動や社会主義運動が「革命」につながることです。しかも、幸徳は社会主義の中でも過激な無政府主義の思想家です。彼らを放っておくと、本当に政府が倒されてしまうかも知れない。

 革命となると、幸徳のような知識人は、理論的指導者になりうる人材です。消し去ってしまわなくてはいけないのです。

 政府は、この大逆事件をきっかけに警視庁内に特別高等課(特高)を設置し、社会主義運動は全てタブーとして徹底的に弾圧する姿勢を見せた。やがて、国民の大多数も社会主義を危険思想とみなすようになり、社会主義者達の活動は一気に衰退していきました。(冬の時代)

 

 今後、国民は政府から言論の自由表現の自由を奪われていきます。こうした徹底した思想統制がこの後に起こる第二次世界大戦で多くの犠牲者を出す大きな原因となります。

日本の暗黒時代の幕開けとなるのでした・・・・。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史           石川晶康=著 旺文社

明治大正史 下                中村隆英=著 東京大学出版会

もういちど読む山川日本近代史         鳴海靖=著  山川出版社

学校が教えないほんとうの政治の話       斉藤美奈子=著 ちくまプリマー新書