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【天皇機関説問題1】なぜ天皇は神格化されたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【天皇機関説問題1】なぜ天皇は神格化されたのか」というお話です。

 

 明治時代に発布された大日本帝国憲法では、「主権は天皇にあり」とされていました。つまり、天皇が国の主人であり、国民はその従者(臣民)に過ぎないということです。

 しかし、明治天皇大正天皇の時代では、それほど神格化されていたわけではなく、極端な神格化が始まるのは昭和に入ってからでした。

 そのきっかけとなったのが、1935(昭和10)年2月に起こった「天皇機関説問題」です。

 法学者で貴族院議員だった美濃部達吉が自身の学説「天皇機関説」をめぐって、国会で追及を受けた事件です。天皇機関説に対抗した思想は天皇主権説と呼ばれるもので、昭和初期の大日本帝国時代の日本には、憲法天皇の関係について「天皇機関説」と「天皇主権説」の2つの考えが存在するようになりました。

 そして、この争いは、天皇主権説が勝利し、思想面での弾圧がはじまりました。

 なぜ、天皇は神格化されたのでしょうか。そして、そのきっかけとなった天皇機関説問題はなぜ起きたのでしょうか。今回はそれを探っていきたいと思います。

大日本帝国憲法が発布された当初は、天皇主権説が主流でした。しかし、西欧列強の議会制度や立憲主義の研究が日本で進むにつれ、主権説では憲法との整合性に不一致が生じることが判明。そのため、大正時代から昭和初期までに、天皇機関説が誕生。以後、日本の政界や学術分野での主流となりました。


 近代日本における天皇の神格化は明治維新から始まります。

 戊辰戦争江戸幕府が倒れて、伊藤博文らを指導者とする明治政府が出来た時、彼らは自分たちが日本全体の統治者としての正当性を著しく欠いていることを自覚していました。

 つまり、明治新政府の最大の課題とは「どうやって国民をまとめるか」ということでした。

 しかも、徳川幕府は250年も続いた長期政権です。

 いくら戊辰戦争に勝利したとはいえ、「徳川の時代が終わり、明治になった。だから、我々に従いなさい」といっても、そう簡単に国民は納得しません。

 明治新政府の要職は、かつての長州(山口県)と薩摩藩(鹿児島県)の出身者によって独占されましたが、工夫のない支配体制を続けていれば、やがて他の藩の出身者から不満が噴出することが予想されました。

 実際、明治維新の直後には「江戸時代の体制に戻してくれ」という一揆も各地で起こっています。

 国民に明治新政権の権威を認めさせるには、徳川という「お上」の存在を完全に打ち消す必要がありました。

 そこで、明治新政府が着目したのが天皇という存在でした。

 全ての日本国民に「国の進路を正しい方向へと導く、絶対的に偉い存在」として天皇を尊敬するよう求め、自分達は、そんな崇高な天皇を脇で支える「しもべ」であるとの構図を創り出すことを決めました。

 伊藤らは、ヨーロッパの君主国を手本にしながら、明治天皇を日本の「民衆の心をとらえる全国レベルの指導者」として担ぎだすことで、近代国家としてスタートを切りました。

 そして伊藤の思惑とおり、明治天皇大正天皇の時代において、こうした形式での政治システムは、ヨーロッパの君主国と同様に機能しました。様々な分野で国の近代欧米列強の潮流であった「帝国主義」の価値判断に日本も同調しました。

 また、明治時代の1889年に制定された「大日本帝国憲法」は、西洋の立憲主義憲法という枠組みで国家指導者の権力行使の範囲を規定する考え方)に基づき、日本を当時の近代国家の仲間入りをさせる上で、重要な役割を担っていました。

 しかし、明治時代の日本人はここで、大きな問題に直面しました。

 自国の君主を「神の子孫」と見なす絶対王政のような政治システムは、西欧ではすでに「時代遅れの政治システム」として排除されており、日本は、天皇と「立憲主義」を論理的に整合させるための新たな工夫が必要になったのです。

 

 そこで、現れた思想が天皇機関説でした。

 「天皇機関説」とは簡単に言えば、国家を法人と捉えて、国会や裁判所、内閣、そして天皇はその法人を構成する機関に過ぎないのだとする考えです。

 つまり、天皇とは神のような絶対的な存在ではなく、あくまで憲法上の地位のひとつであり、天皇は独断で政治を行うことは出来ず、その憲法に拘束されるとしました。
この思想は当時としては非常に画期的な考えで、大正末までには、ごくまっとうな学説とされ、昭和初期までの知識人の理論的支柱となっていました。

 ところが、1935(昭和10)年になって突然「天皇を一機関とするのは、不敬である、謀叛である」などと痛烈に批判されるようになりました。

 なぜでしょうか。

 昭和初期、世界恐慌などの影響で大不況に陥りました。

 それにも関わらず、政党内閣は具体的な政策を行わず、汚職を繰り返す政治腐敗が露わになりました。

 その結果、政党政治や政党内閣制に対する不信感が高まり、たがて、政党政治の理論的支柱であった民本主義天皇機関説が軍部や右翼団体を中心に否定されるようになったのです。

 すると、国内では「昭和維新」を掲げて改革運動が起こるようになりました。

 この運動は「かつての明治維新の精神に立ち返り、天皇中心の国家をつくろう」というもので、その過程で「天皇は絶対的な存在で、だれの輔弼(ほひつ)を受けなくても統治権を行使できる」と見なされるようになりました。

(輔弼・・・・天子・君主などが政治を行うのを、たすけること。また、その任にあたる人。)

 そこで出てきた思想が「天皇主権説」です。

 天皇主権説は、美濃部が提唱した「天皇機関説」の逆を行く思想でした。

 天皇主権説では、天皇は神の子孫であり、現人神(あらひとがみ)である天皇は、憲法のような「人工的な枠組み」に囚われることなく、超越的に統治を持つのだという考えです。

 つまり、大日本帝国憲法のような立憲体制を否定し、天皇による絶対王政のような政治システムを支持する考え方なのです。

 天皇主権説を支持する国粋主義者は、天皇を絶対的な権威や神聖性にこだわっており、彼らとって、現人神(あらひとがみ)とされる天皇の存在を機関という無機質かつ通俗的な言葉で言い表す天皇主権説に対し、強い不快感を感じていました。

 これによって起きたのが天皇機関説問題です。

 ことの発端は、1935(昭和10)年2月18日の貴族院本会議で、菊池武夫(きくちたけお)議員が、東京帝国大学法学部名誉教授も務める美濃部達吉議員に対し、「天皇機関説」について質問したことから始まりました。

 会議では、美濃部は自身の天皇機関説に基づいて以下のように主張しました。

「国家とは1つの法人であります。その中で、天皇統治権を行使する1つの機関であります。」

 つまり、天皇とは神のような絶対的な存在ではなく、あくまで憲法上の地位のひとつであり、天皇は独断で政治を行うことは出来ず、その憲法に拘束されるとしました。

 これに対して菊池は反論します。

「日本は天皇あっての国家であります。国土・国民を治める権利は国家ではなく、天皇にあります。天皇機関説など存在しません。」
その後も、貴族院では美濃部への批判は繰り返されるようになりました。

これに飛びついたのが、立憲政友会や軍部、右翼の諸団体でした。
当時の議会には、天皇機関説を支持する議員も多くいました。
そこで、政友会や軍部は、彼らを不敬であると攻撃することで、失職に追い込むことが出来れば、政治の実権を握ることが出来ると考えていました。つまり、貴族院で発生きた問題が衆議院にも飛び火し、天皇の権威を政争に利用するようになったのです。

右翼団体在郷軍人会も、美濃部の自宅に抗議の手紙を山ほど送りつけました。
「美濃部は国賊だ!死刑に処する!」
他にも各地で署名活動や宣伝活動を行うことで、たくみに国民感情をあおりました。
こうした政友会や軍部の圧力に、貴族院議員は屈し、遂に満場一致で天皇機関説を否定することを正式に決めました。
「政府は崇高無比なる我が国体と相容れざる言説に対し、直ちに断固たる措置をとるべし」
争いは天皇主権説の勝利に終わったのです。
同年、政府は、「国体明徴声明」を出し、天皇機関説を正式に否定することを発表。天皇は機関ではなく、国の中心であることを宣言した。

実は、昭和天皇は、自身の神格化を快く思っていませんでした。天皇機関説が問題となった頃、昭和天皇は鈴木侍従長に次のように語っています。
「美濃部の考えは少し行き過ぎたところがあるかもしれない。しかし、決して悪いこととは思わない。」
当ブログでも紹介したことがありますが、昭和天皇の願いとは天皇制を原則とした立憲体制の維持でした。美濃部の主張はそんな立憲体制の維持において重要な理論的支柱だったのです。
侍従武官長を務めた陸軍大将の本庄繁の日記には、政府が「国体明徴声明」を出した際、天皇は「安心できない」として軍部に強い不快感を露わにしたという記述がありました。
また、昭和天皇は、昭和維新の典型的な事件ともいえる二・二六事件に対して強い不快感を示していました。
二・二六事件の首謀者である陸軍の若手士官らは自らを「尊王の志士」だと思っていました。
しかし、昭和天皇は彼らをあくまで反乱軍としかみなしませんでした。さらに、陸軍の幹部が彼らの鎮圧を躊躇するとこう言いました。
「君たちが鎮圧しないならば、自分が近衛兵を率いて鎮圧に向かう」
そこまで昭和天皇の不快感を強いものだったのです。

 

つづく。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著 ダイヤモンド社
昭和史を読む50のポイント   保阪正康=著   PHP
朝日おとなの学びなおし! 昭和時代  保阪正康=著  朝日新聞出版