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【鉄道開通】明治時代の鉄道物語 【エドモント・モレル】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【鉄道開業】明治時代の鉄道物語  【エドモント・モレル】」というお話です。

 幕末の革命によって徳川将軍家から薩摩・長州の出身者による明治政府に政権交代しましたが、明治政府の喫緊の課題はとにかく近代国家を樹立することでした。

 しかし、憲法の制定、議会の確立、文明開化、富国強兵、産業の勃興など課題は山積みでした。鉄道開通もその1つでした。

明治政府は産業の大動脈である鉄道建設を急いでいました。イギリス人のエドモント・モレルはそんな日本の鉄道建設に従事。彼は病に倒れてもなお、鉄道建設を続けました。日本初の鉄道は若きイギリス人の命をかけた情熱によって開通したのです。

 

 近代国家樹立のためには経済や流通を活発にすること必須条件です。そのため、明治政府の方針は東京と京都を結ぶ鉄道の開通でした。その先駆けとして新橋~横浜間及び、大阪~神戸の鉄道敷地は喫緊の課題でした。

 

 

 1860年の日米修好通商条約の締結によって開港された横浜と神戸は貿易港として発展し、国際都市となりました。まず、横浜神戸から鉄道を敷くことで、海外から輸入された物資を東京と大阪に送り込むための大動脈をつくることが急がれたのです。また、2つの国際都市を東京や大阪からの日帰り圏とすることで、外国人や日本人ビジネスマンの便宜を図ろうという狙いもありました。

 

 明治政府は、西洋の先進的な制度や知識、技術を取り入れるために欧米諸国から多くの技術者や学者、教師、軍人たちを招き入れました。いわゆる「お雇い外国人」です。

  1870(明治3)年に来日したイギリス人のエドモント・モレルもその1人です。彼は明治政府が雇い入れた最初の外国人であり、その任務は日本の鉄道開通でした。彼は28歳の若さで鉄道兼電信建築師長という鉄道建設事業のトップの役職を与えられ、その任務に就きます。

 

 この鉄道建設事業を推進したのは、大隈重信伊藤博文井上馨でした。彼らはいわゆる内治優先派であり、大久保利通を中心に国内の産業発展を推進する官僚達です。

 しかし、朝鮮出兵という征韓論を主張したことで有名な西郷隆盛兵部省黒田清隆などは鉄道建設に反対します。

「鉄道をつくる金があったら、軍隊にまわしてくれないか。軍部も余裕がないのだ。」

 モレルは西郷らを説得します。

「鉄道建設は国力増強には必要不可欠です。流通や経済の活性化はその基盤になります。」

 

 明治政府は当初、鉄枕木や鉄柵の使用を考えていました。しかし、モレルは提案します。

「輸入には大変お金がかかります。国内で調達出来る資材を極力活用するべきです。」

 明治政府が構想していた鉄道は、とにかく西洋のような鉄を使った‘鉄道‘建設で、それこそが近代化の象徴と考えていました。

 しかし、見てくれ重視では国の経営は成り立ちません。節約出来るところは節約するべきです。支出を考えない官僚体質は現在も140年前も変わっていないようです。

 

  政府は、鉄枕木も鉄柵も使用をやめ、木材を使用することにしました。

 さらに鉄道・道路・港湾・灯台・鉱山などの土木事業を管轄する行政機関が必要だと説きます。これを聞いた伊藤博文は1870(明治3)年、公共事業を管轄する官省・工部省を設置しました。

 政府はすでに教育制度の充実に注力しており、明治4年に工部省内に工学寮(後の工部大学校、今の東京大学工学部)が設置され、優秀な人材を集め、専門の技術者として育て上げることに注力しました。

 

 モレルは同年3月、汐留(東京都港区)付近から測量を開始。その測量に従事した当時の武士達はこんなことを言いました。

「まったく、腰に刀を差しての測量は不便だ。刀が邪魔で正確な作業が出来ない。」

 そう、この時期はまだ廃刀令が出されておらず、武士達には帯刀が義務つけられていました。武士の象徴であり、その威厳を見せる帯刀ですが、この時ばかりは刀を外して作業にあたったそうです。

  さらに困ったことは、陸海軍の軍事施設や用地には一歩たりとも足を踏み入れてはいけないことです。先程の西郷や黒田のように明治政府は軍事力の増強にも注力しており、この敷地内でしばしば軍事演習が行われていたのです。

そのため、新橋~横浜間の線路の大部分は海を埋め立ててつくられることになりました。

  これと同時並行で、モレルは大阪~神戸間の鉄道工事も着工します。こうしてモレルは2つの鉄道建設を指揮するという超ハードスケジュールを組むことになりました。

 

 モレルは絵に描いたような理想的な技術者で、寝食を忘れ、鉄道建設に没頭しました。繊細な図面を描き、緻密な計算を行い、細心の注意を払う完璧主義者。

 工事現場の巡回も作業員に細かな指導を行い、互いに信頼関係を築いていきました。

 工事は着々と進み、日本初の鉄道の誕生は現実味を帯びてきました。モレルは日本での鉄道建設に従事するうちに日本が好きになり、日本人女性とも結婚し、日本への居住を決意しました。

 

 しかし、そんな志半ばで、モレルは持病の肺結核を悪化させ、病に倒れます。過労が原因とみられた。横浜の居留地からイギリス人医師が毎日のように治療にあたりますが、それでも彼は重い身体を引きずるように工事現場を巡視し続け、現場の作業員を励まし続けました。

 実は医師からは、手の施しようがないと言われるほど病状は進行していたのです。したがって彼は残された命を日本の鉄道建設に捧げようとしたのです。

 

 そんなモレルに明治政府は療養のため当時イギリス領であったインドへ転地する許可を出します。それに伴い療養費として5000円(当時)が下賜されました。

 しかし、モレルはインドに行くこともなく、また、自分が手がけた鉄道工事の完成を見ることもなく、1871(明治4)に29歳の若さで死去しました。

 そばで不眠不休の看病をしていた妻は悲しみに暮れ、身も心も疲れきってしまい、4日後、まるでモレルの後を追うように死去しました。

 モレルの葬儀は横浜のキリスト教会で開かれ、イギリス公使のハリー・パークスをはじめ多くの在日イギリス人、工部省、大蔵省の官僚らが多数参列しました。

 

 一方、鉄道建設は着実に進み、様々な困難を乗り越えながらも、着工から2年後の1872(明治5)年、横浜~新橋間のおよそ30キロにおよぶ路線が完成しました。

 

 そして、同年9月12日午前10時54分。

「ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン」

 とリズミカルな足音を立てながら横浜停車場に到着したのは9両編成の列車でした。

 そして101発の砲弾が礼砲として発射され、その砲声は関東全域に響きわたりました。

 列車からは明治天皇をはじめ政府の高官、そして各国の公使らがぞくぞくと降りてきました。その日は快晴で海の香りが漂い、吹きつける暖かい海風も何とも心地よい。港にはたくさんの蒸気船が。さらに沖には軍艦も停泊しています。

 

 日本初の鉄道開通を記念して、横浜駅で開通式が開かれたのです。

 開通式は当時19歳の明治天皇による会式の言葉で始まりました。

「今般我国鉄道の首線、工竣(おわ)るを告ぐ、朕(ちん)親(みずか)ら開行し、其便利を歓ぶ」

 丁髷(ちょんまげ)とザンギリ頭が入り混じる見物人からは一斉に歓喜の声があがった。

 文明開化の象徴である鉄道は、今ここに開通したのです。

 鉄道建設における功労者には名誉ある賞が授与されました。

 モレルの後を継いだウィリアム・カーギルには恩赦として賞金が授与されました。そして天国のモレルに思いをはせます。

「モレル先生、日本初の鉄道は、今日無事に開通しました。本当にありがとうございます。」

 

 私達が普段何気なく使っている鉄道。鉄道は確実に近代日本の発展を支えてきました。日本を近代国家に生まれ変わらせるために自ら捨て石になることを決意し、開業する前に逝ってしまったエドモント・モレルというイギリス人のこと私達日本人は覚えておくべきです。

 

 さて、鉄道の営業は翌13日から行われました。この日は鉄道記念日として現在に至ります。(なお、明治6年に太陽歴が採用されたことで、10月14日が鉄道記念日となりました。)

 当初のダイヤは1日9往復、所要時間は片道53分でした。1881年(明治14)年には複線化もされ、対抗車を駅で待たずに運行することが出来るようになりました。

 

 その後、各地で路線の敷設が進み、明治1889(明治22)年には新橋から神戸まで全線がつながり、片道20時間で行けるようになりました。さらに東北本線の上野~青森間の片道26時間の路線が開通します。その2年後には山陽新幹線も開通し、東京~下関直通急行は、まる1日で行けるようになりました。

 

 明治時代の30年間はまさに激動の時代で、鉄道も開業以来すさまじい勢いで発展しました。鉄道は文明開化の象徴として近代日本を支えてきたのです。

 

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

お雇い外国人とその弟子たち        片野勧=著  新人物往来社

父が子に語る近現代史           小島毅=著  トランスビュー

もういちど読む山川日本近代史       鳴海靖=著  山川出版社