【日露戦争】なぜ日本はロシアに宣戦布告したのか【小村寿太郎】
こんにちは。本宮貴大です。
今回のテーマは「【日露戦争】なぜ日本はロシアに宣戦布告したのか【小村寿太郎】」というお話です。
本題に入る前に、そもそもロシアはなぜ南下してくるのかについて考えたいと思います。
答えは簡単です。
寒いからです。ロシアって国土の大半は極寒の地で、とても人は住めない地域なのです。中にはマイナス60°といった人が数時間で凍死してしまうような気温の地域もあります。人間は本来、暖かい、若しくは暑い地域で住む生物なので、寒さに対してはめっきり弱い生物なのです。
さらにロシアのような極寒の地域は農業にも適しません。特に畜産業に関しては、ほとんど発達させることが出来ず、安定的な収穫を得ることが出来ずにいました。
また、軍事面でも不利な条件下です。ロシアの主要港は全て冬季になると海面が凍ってしまい、艦隊の停泊や出動を著しく阻害します。砕氷船と呼ばれる氷を割りながら進む船を必要とするなど時間や労力をかけなくてはいけません。
このようにロシアの南下政策は、国力増強において非常に重要な政策なのです。
それでは本題に入ります。
なぜ日本は超大国であるロシアへ宣戦布告したのでしょうか。結論を最初に言うと、日本とロシアは互いに交渉し、押したり引いたりの関係が続いていたのですが、とうとう我慢できなくなった日本側が開戦に踏み切ったということになります。ロシア側も日本をイライラさせ、戦争に踏み切るよう仕向けたのでしょう。
それでは今回も、ストーリーを展開しながら、なぜ日本はロシアに宣戦布告したのかをご紹介していきます。
義和団事件はロシアという「招かれざる客」を呼び寄せました。ロシアは満州に居座り、朝鮮との国境に軍事施設を建設します。ロシアに朝鮮の権益を奪われることを警戒した日本はロシアと交渉します。しかし、ロシアは断固とした反対意見を述べるだけでなく、朝鮮の利権まで主張しました。日本とロシアの関係は悪化していくのでした・・・。
1900(明治33)年、清国では列強諸国の植民地支配に反対した義和団という宗教団体が、各地で反乱を起こしました。(義和団事件)
義和団事件は列強各国が派遣した軍隊によってすぐに鎮圧されましたが、別の重大な事件も招いてしまいました。実は、義和団の攻撃は満州にも広がり、ロシアが建設中であった東清鉄道も狙われました。ロシアは鉄道保護という名目でシベリアから大量軍隊を送り込み、
義和団と手を組んだ清国軍はロシア軍の弾薬集積所を爆破しました。これに対してロシアは3000~4000人もの中国居住民を大量虐殺。ロシアさらに1万の兵を満州に送り込み、一気に満州全体を占領下に置いてしまった。そしてロシアは清国と密約を交わし、満州を事実上ロシアの領土としてしまいました。
欧米各国の鎮圧軍が引き揚げたあとも、ロシア軍はいぜんとして満州に居座り続けました。さらに、清国から租借した遼東半島(りょうとうはんとう)にロシアは軍事基地を建設。沿岸部には旅順港(りょじゅん港)を建設しました。そこに北方の満州を加えることで、シベリアを通って直接太平洋に通ずる念願の不凍港を手中に収めたのでした。
そしてロシアは日本の占領下である朝鮮をも手中に収めようと画策を始めます・・。
このような露骨な南下政策に対し、日本の政府や軍部のロシアへの警戒心は最高潮になります。海軍大臣で後に総理大臣にも就任する山本権兵衛(やまもとごんべい)も、「いずれはロシアと戦うことになるだろう」と腹をくくったのもこの頃です。
「しかし、日本の軍備拡張はまだ途上にあり、世界の大国ロシアと真っ向から戦う力はとてもない。ロシアとの戦争は何とかして回避したいものだ。」
日本の軍備拡張はあくまで牽制行為であり、政府内ではロシアと戦争を始める意志はありませんでした。伊藤博文首相率いる当時の政府は戦争を回避するため、あるいは有利に導くための様々な外交政策が議論された。
そんな中1902(明治35)年に桂太郎内閣が誕生しました。桂は新たに小村寿太郎を外務大臣に任命。以後、桂と小村のコンビによる外交政策が始まりました。
政府内で提案された外交政策は日英同盟論と日露協商論のふたつでした。
「イギリスと同盟を結ぶことでロシアを牽制するべきだ」
という日英同盟論を唱えたのは、桂や小村などの現役陣。
「ロシアとの平和的協調を軸に東アジアの勢力範囲の画定を行うべきだ。」
という日露協商論を唱えたのは大御所政治家である伊藤博文や井上馨などの元老達でした。
明治天皇を含めた御御所会議の結果、締結するのは日英同盟に決まりました。そして1902年(明治35年)、日英同盟が締結されました。世界最強の海軍力を誇るイギリスと手を組んだ日本は、大きな自信が湧きあがり、ロシアを牽制することが出来ました。
motomiyatakahiro.hatenablog.com
日本とイギリスが手を組んだことに驚愕したロシアは、間もなく、清国と満州を還付する条約を締結し、満州から3回にわけてロシア兵を撤退させることを約束しました。日英同盟の効果は抜群だったようです。
しかし、1回目の撤兵は実行されたものの、2回目の撤兵は約束の期日になっても実行されることはありませんでした。そればかりか、ロシアは1903(明治36)年に清国と韓国(朝鮮)の国境に軍事基地の建設を行うようになりました。遂にロシアが韓国への進出意図を示し始めたのです。
その結果、日本国内の反ロシア感情は、最高潮に高まり、「ロシア許すまじ」の気運が高まりを見せました。
この国民感情を煽ったのは、当時の新聞や雑誌などのマスメディアでした。明治時代は、ジャーナリズムが発達した時代です。各新聞はロシアとの開戦派、非戦派に分かれ、さかんに議論が行われました。しかし、開戦派が圧倒的多数を占め、唯一、非戦論を唱えたのは『万朝報』という新聞であり、内村鑑三、与謝野晶子、幸徳秋水などの人々が非戦論を唱えました。
一方、政府内部では非戦論派が優勢でした。
「今の我が国の軍事力と経済力では超大国・ロシアに勝ち目はない。」
「しかし、だからといって、このまま朝鮮半島の利権をロシアに譲り渡すわけにはいかない。」
「何とか話し合いで解決出来ないものか」
1903(明治36)年7月、小村はロシアと交渉を始めました。8月には小村は第一提案を示します。
「日本の朝鮮における権益、そしてロシアの満州における権益を互いに認め合いましょう。」
いわゆる「満韓交換論」です。
ロシア側はすぐに回答をしました。しかし、それは日本には受け入れ難いものでした。
「満州及び、その周辺はそもそも中立地帯であり、日本の利権範囲外である。その中立地帯をなぜ交換の条件とするのか」
さらにロシアは続けます。
「日本による朝鮮の軍事的支配も認めない。北緯39度以北を中立地帯とせよ。」
一見、建設的な妥協案に見えますが、要するに「朝鮮半島の北側をよこせ!」ということです。ロシアは強硬姿勢に出たのです。
それでも小村はロシアと交渉を続けます。
交渉は7カ月に渡って行われましたが、とうとうロシアはその態度を変えることはありませんでした。日本も妥協点を見つけることが出来ず、いよいよロシアとの国交断絶は不可避なものとなった。
この間にも各新聞は開戦論を書きたて、国民感情を煽ります。そして最後まで非戦論を唱えていた『万朝報』も10月には主戦論に転じ、政府の弱腰外交を非難するようになりました。やがて国民のロシアに対する敵がい心は頂点に達しました。
こうしたロシアの強硬姿勢と世論の高まりを受け、翌1904年1月、ロシアとの戦争反対であった伊藤博文や井上馨も遂に「戦争やむなし」と明言するようになりました。
しかし、事ここにおよんでも明治天皇だけは開戦をためらっていました。
そんな中、ロシアが旅順港に停泊させていた太平洋艦隊の行方がわからなくなるという知らせが政府首脳に届きました。
「さては、ロシアが軍事行動に移ったか。遂に開戦の時だ!!」
焦りを覚えた軍と政府の首脳部は臨時会議を開催。この会議において明治天皇は遂に開戦を決定。翌日、ロシアに宣戦布告の知らせである最後通牒を発するのでした。
会議を終えた明治天皇は涙を流されていました。
「今回の戦争は私の意志ではない。しかし、ここに至ってしまっては、これはどうすることも出来ないのだ。もし、戦争に敗れることがあれば、私は何と祖先にお詫びし、国民に対することが出来ようか」と述べたのでした。
こうして1904(明治37)年2月、日本が最初に攻撃をしかけるカタチで日露戦争が勃発。日本は坂の上を昇り始めたのでした。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社