【条約改正2】なぜイギリスは突然、法権回復に同意したのか【陸奥宗光】
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【条約改正2】なぜイギリスは突然、法権回復に同意したのか【陸奥宗光】」というお話です。
今回も前回に引き続き、日本の条約改正奮闘記についてストーリーを展開していきたいと思います。
1892(明治25)年に外務大臣に就任した陸奥宗光は、絶妙な外交手腕で列強諸国の特にイギリスとの条約改正(法権回復)に奮闘します。そんな中、突如イギリスは条約改正に同意しました。実はロシア帝国がシベリア鉄道を建設するなど中国北東部や朝鮮方面に勢力を拡大してきたのです。イギリスはこれに対抗するために日本と親密な関係を築きたかったのです。これはやがて1902(明治35)年の日英同盟の締結につながるのでした・・・。
陸奥宗光といえば、皆さんはどんなイメージをお持ちですか?
学校では不平等条約改正を達成した人物として教えられると思います。
陸奥は幕末、勝海舟が主宰する神戸海軍操練所に入塾し、海軍士官教育を受けていました。この塾頭が坂本龍馬で、陸奥は龍馬から見込まれた数少ない逸材でした。
一人で本ばかり読む内気な陸奥に対し、龍馬はいつも語りかけました。
「我が国は今後、独立国家として外国人と手を取り合い、貿易立国として発展していくべきだ。そんな壮大な夢を描けているのは、俺と陸奥だけだ。」
この言葉は陸奥の胸に強く残り、後述する彼の外交手腕に生かされることとなります。sつまり、陸奥宗光という人物は、いわば坂本龍馬の意志を継いだ人物と言えるでしょう。
明治政府は発足以来、条約改正を最大の外交課題としていました。
政府が改正を目指す不平等条約は大きく以下の2つです。
1.日本国内での外国人犯罪を日本の法律で裁けない領事裁判権の撤廃(法権回復)
2.輸入の際に、その輸入品にかける税金を決めることが出来ない関税自主権の回復(税権回復)
岩倉具視使節団が条約改正交渉のために渡航したのをきっかけに、寺島宗則外務卿が税権回復のための交渉をするも、いずれも失敗。
後を継いだ井上馨は、極端な欧化政策をするなどし、白人の取り入り、条約改正をあと一歩のところまでこぎつけることに成功しました。
しかし、井上は条約改正の条件として呑んだ「外国人の犯罪には外国人裁判官を任用すること」に対し、政府内部や世論が猛反発。結局、1887(明治20)年に井上は条約改正交渉の無期延期を発表。外務大臣を辞任し、条約改正は頓挫してしまいました。
詳しくは前回までの記事をご覧ください。
motomiyatakahiro.hatenablog.com
「日本で起きた外国人犯罪を日本人が裁くことが出来ない」
これは主権国家・独立国家を目指す日本にとって、大きな障害でした。
井上の後を継ぎ、外務大臣に就任した大隈重信は井上のような列国を集めて集団で交渉する方式(集団方式)ではなく、列国と個別に交渉を進める方式(個別方式)を取りました。
「井上殿のような集団交渉会議では、交渉は長期化してしまう。なぜなら、帝国主義の西洋諸国は互いに領土の奪い合いで対立している。これでは列強各国は互いに様子を見合い、最初に条約改正に応じる国がいつまで経っても出てこないではないか。」
として、個別に各国と交渉する方式を取ったのです。
大隈は外国人裁判官の任用は大審院(最上級の裁判所)に限るという妥協案を提示。その上で列強各国と交渉した結果、1888(明治21)年にアメリカ、ドイツ、ロシアとは妥結に成功。井上同様、世論に秘密で行われた条約改正は成功するかに思われました。
しかし、翌1889(明治22)年、大隈の条約改正案がイギリスの「ロンドン=タイムズ」紙上に掲載されると、またも日本国内の民権論者(左翼派)や国権論者(右翼派)が猛反発。各地で反対運動が勃発しました。
そして同年10月、大隈は九州の国権論者(右翼派)に爆弾を投じられて、右足を失う重傷を負いました。この事件にすっかり委縮してしまった時の首相・黒田清隆は内閣を総辞職。条約改正は頓挫してしまいました。
大隈の後を継いだのは、外交経験豊富な大ベテランの青木周蔵です。彼も法権及び税権の回復のために列強各国と交渉を開始しました。
しかし、列強諸国は中々首を縦に振りません。
特に断固反対の姿勢をみせたのはイギリスでした。先程の大隈の件もそうですが、イギリスは日本から獲得した既得権益をそうそう手放そうとはしなかったのです。
当時、イギリスは「海の覇者」として世界のトップに君臨する軍事大国であり、植民地争奪戦がおきている国際情勢の中、その強大な軍事力を背景に、冷徹で現実的な外交により、いかに有利な条件で自分達の利権拡大とその維持を実現するかに注力していたのです。
イギリス側の主張はこうです。
「日本は昨年、大日本帝国憲法も発布されるなど立憲国家樹立への努力がうかがえる。しかし、現状の日本の法典整備はまだまだ十分なものとはいえない。したがって、誤審や冤罪を招く危険性もあり、日本にイギリス人の裁判権を任せるわけにはいかない」
こうした進まぬ条約改正交渉の中、突如、事件が起きました。
モスクワからウラジオストクまで続くシベリア鉄道建設の起工式に出席したロシア皇太子(後のニコライ2世)が日本にも立ち寄り、会談や祝賀典が開かれました。そんな中、1891(明治24)年5月、滋賀県大津市で警備にあたっていた巡査の津田三蔵が、ロシア皇太子を襲撃したのです。(大津事件)
ロシアの報復を恐れた日本は、負傷したロシア皇太子を、明治天皇自らが見舞いに行く事態にまでなりました。
あわや戦争にまで発展するかに思われたこの事件は外務大臣である青木が引責辞任することで和解。しかし、条約改正交渉はまたしても頓挫してしまいました。
青木の後を継いだのは、期待の新星、陸奥宗光です。
陸奥宗光が政府に入閣したのは1888年のことです。政府の中心人物である伊藤博文からそのスキルを見込まれ、外務省に入りました。
1890年、第一回帝国議会が開催されました。第一回選挙の結果、自由党と立憲改進党
が合わせて過半数の議席を獲得し、予算案をめぐって政府と激しく対立しました。
1892(明治23)年、第2次伊藤博文内閣が誕生。陸奥は外務大臣に就任しました。
伊藤と陸奥は衆議院の最大勢力である自由党と協働し、政治を運営していく必要があるとしました。
(民党・・自由党や立憲改進党などの政党の総称。かれらは国民寄りの政党として政府と対立しました。)
「民党を味方につけるには、どうしても外国人裁判官の任用は避けなければならない。」
陸奥は自らの条約改正の方針をまとめた改正案を政府に提出しました。そこにはしっかりと、「外国人を裁判官にすることは断固反対する。そのうえで法権回復を実現する」と書かれていました。
「白人から裁判権を獲得する・・・いや、取り戻すのだ。それが達成されて初めて日本は独立国家として世界にデビューしていくことが出来るのだ。」
この陸奥の熱いメッセージは自由党の幹部に響きました。こうした陸奥の活躍によって伊藤内閣は自由党の条約改正への理解を得ることに成功。伊藤内閣と手を組んだ自由党は今後、これに反対する立憲改進党と対立を深めていきます・・・・。
さぁ、陸奥宗光外務大臣はどのような外交手腕を見せてくれるのでしょうか。
陸奥は強硬姿勢を貫くイギリスと集中的に交渉をすることを決めます。
「イギリスさえ条約改正に応じれば、その他の国との条約改正は容易になる。」
1893(明治26)年、陸奥は、前任者の青木周蔵をイギリス公使に任命。ロンドンで条約改正交渉をするよう命じました。
「青木殿、現地に着いたら電報を。外交の指示は随時、私がいたします。どうかお気をつけて。」
間もなく、青木はロンドンへ赴任。条約改正交渉をするも、イギリスは依然として日本の法典未整備を理由に法権回復に同意しません。
1892(明治25)年、日本の軍艦千島が瀬戸内海でイギリス船と衝突して沈没する事故が起きました。千島の乗組員が90名中74名が殉職するという大惨事となりました。これはイギリス側に過失があるとして参謀本部(軍部)は伊藤内閣とともにイギリス側に損害賠償を請求しました。しかし、イギリス領事はイギリス側には責任はないという判決を下しました。この裁判は最終的に和解するも、日本国内は猛反発しました。
「これは事故ではない。事件だ。一体いつになったら領事裁判権が撤廃されるのだ。政府は何をやっているのだ。」
翌1893(明治24)年に開かれた第五回会議では多数派を占めた立憲改進党や国民協会が手を組み対外硬派連合を組織。政府の一向に進まない条約改正を批判しました。
「日本は条約上、まだ内地雑居は認めていない。なのに、平然と居留地外を行き来している。現行条約が徹底されていない。」
などと、対外硬派連合は「内地雑居反対」、「現行条約励行」を掲げ、政府を攻撃しました。
この運動は民衆にも波及しました。
「白人は居留地外で商売をやるな。おら達の商売を邪魔するな。」
人々は、居留地外を行き来する白人達に石を投げ、罵声を浴びせるなどの暴動を働きました。
こうした日本の圧力に機嫌を損ねたイギリスは、代理公使を派遣し、陸奥との面会を求めて外務省を訪れてきました。
「日本国内で精力的に活動するイギリス人が、日本人から何やら陰湿な嫌がらせを受けていると聞いた。これはどういうことだ。今すぐ暴動をやめさせよ。さもないと、条約改正は全て白紙に戻す。」
「本当に申し訳なく存じ、心からお詫び申し上げます。」
陸奥が答えると、イギリス代理公使は間髪いれずにこう言います。
「これは日本が法典未整備であるがゆえに起きた事件だ。国内を全く統制出来ていないではないか。日本は真剣に条約改正をする気があるのか。全く誠意が感じられない。」
このように一方的に意見するイギリスに対し、さすがに反感を覚えた陸奥ですが、冷静に対応します。
「イギリス人への暴動は申し訳なく思っています。これに関しては早急に対応させて頂きます。どうか我が国の法権回復には同意して頂きたい。しかし、その新条約の施行は5年後とします。その5年間に我が国は憲法・司法・条例あらゆる法典を完全に整備致します。」
陸奥は日本の主権国家としての立場を守りつつ、イギリスの要求もしっかりと受け入れるという絶妙な外交手腕を発揮しました。
イギリス代理公使はしばらく黙り、こう言いました。
「検討をしておきます。」
「諸君、条約改正は政府発足以来、外交における最重要課題です。国内では条約励行運動と称して白人に対する暴動が起きています。しかし、交渉とは本来、対等に行われるべきで、条約締結とはお互いが納得したうえで行われるべきです。私はここに条約励行運動の一切を排除することを宣言します。これからは外国人と手を取り合って経済活動をしていかなくてはいけません。さもないと、日本国民の損失は計り知れないものとなるでしょう。日本は今後、貿易立国として発展していくのです。」
野党は猛反発。結局政府は議会を解散することにしました。
1894に開かれた第5回議会では立憲改進党や国民協会などの民党が過半数の議席を獲得。これに自信をつけた民党は、「内地雑居反対」と「現行条約励行」を主張しました。
陸奥は焦ります。
「このままではイギリスとの交渉も頓挫してしまう。」
そんな時です。イギリスは突如、法権回復に同意する旨を青木に申し出てきたのです。
「日本は函館港をイギリスが独占的に使用することを認めよ。それを条件に法権回復に同意する。」
なぜ、イギリスは突然、法権回復に同意したのでしょうか。
実は、先程の大津事件で、ロシア帝国がシベリア鉄道の建設に着手していると述べました。ロシア帝国はシベリア鉄道を敷くことで中国北東部や朝鮮方面へ領土を拡大しようとしたのです。しかも、イギリスの最大のライバルであるフランスとも手を組み、東アジアにおける利権を互いに認め合うことまでしています。
イギリスは東アジアにおける自国の利権を守るために対抗します。しかし、極東はイギリス本国から遠く離れています。そこで日本と親密な関係をつくり、極東の貿易拠点や燃料補給の中継地点として利用しようと考えたのです。
法権回復に同意しながらも、「函館港を独占させろ」という新たな要求を突き付けてきたイギリスに陸奥は頭を抱えながらも、ロンドンの青木に電報します。
「あのイギリスが条約改正に同意してきたのだ。このチャンスを逃すわけにいかない。函館港におけるイギリスの独占を認めよ。」
「副島殿、寺島殿、井上殿、大隈殿、そして青木殿、彼らの無念を今こそ果たす時がきたのだ。」
陸奥からの電報を受けた青木はその旨をイギリスに報告。
そして1894年7月、日本はイギリスと不平等条約に代わる新たな条約、日英通商航海条約を締結しました。これによって日本は遂にイギリスとの間の法権回復を実現したのです。その後、アメリカとも同等の条約を結んだのをきっかけに列強諸国各国とも同等の条約を結びました。長きにわたり、不平等条約に苦しんできた日本がその領事裁判権は完全に撤廃。主権国家・独立国家として日本は世界のスタートラインに立つことが出来たのです。
陸奥は天を見上げてこう言いました。
「龍馬さん、見ていますか。我が国は着々と近代国家としての体裁を整えています。日本は今後、貿易立国・経済大国として必ず成長していくでしょう。」
条約改正を達成した日本は間もなく、日清戦争に突入します。陸奥は、清国との外交、そして戦後処理である下関条約締結のために奮闘します。
陸奥の意志はやがて大正時代に19代総理大臣となる原敬に引き継がれていき、原は海外と国際協調をとりながら、海外との貿易を充実させる積極政策に出るのでした・・・。
ところで、一方の税権回復に関しては、今回締結された新条約の更新の時に達成されます。しかし、その時の日本は既に産業革命が起きており、本格的な資本主義経済の国として成長段階にありました。これに脅威を感じた列強諸国は日本との交渉をトラブルもなく進めていきます。そして1911年、小村寿太郎外務大臣のもとで税権が完全に回復します。この3年後、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発します。日本は大戦景気を享受し、経済大国・債権国として国際社会において、その地位を確立します。もし、日本が自由に関税をかける権利を認められていなければ、これほどの経済的利益享受は得られなかったでしょう。税権回復は、まさに滑りこみセーフの条約改正だったのです。
以上
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
早わかり幕末維新 外川淳=著 日本実業出版社
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
もういちど読む山川日本近代史 鳴海靖=著 山川出版社
ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社
人物で読む近代日本外交史 佐道明弘=著 吉川弘文館
参考映像