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【日米開戦前夜2】なぜアメリカは日米通商航海条約を破棄したのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日米開戦前夜2】なぜアメリカは日米通商航海条約を破棄したのか」というお話です。

 1858年(幕末の頃)、日本はアメリカ合衆国日米修好通商条約を締結しました。しかし、これは「領事裁判権」と「関税自主権」などの面で大変不平等なものでした。
 そんな不平等条約は、明治政府の外交官たちの努力によって、1894(明治27)年に日米通商航海条約が締結されたことによって、日本は領事裁判権を撤廃させ、1911(明治43)年には日米通商航海条約の改定によって、関税自主権の回復に成功しました。

 つまり日本は、アメリカと対等な立場で、貿易を行うことが出来るようになったのです。

 その後、日本とアメリカは互いに重要な貿易相手国として依存し合う関係となっていきました。

 

 しかし、そんなアメリカが1939年(昭和14)年7月に突然、日米通商航海条約を破棄することを通告してきました。

 一体何があったのでしょうか。

 1937(昭和12)年7月、日本は中国大陸で国民政府と戦争を始めました(日中戦争)。
 しかし、イギリスやアメリカは、日本が中国大陸での戦線を拡大することに危機感を覚えてしました。
 イギリスは中国大陸の莫大な投資をしており、多くの権益を持っていました。それが戦争によって破壊しつくされてはたまったものではありません。
 また、中国進出に出遅れていたアメリカは日本が中国大陸で戦線を拡大することは日本の市場独占のように映っており、アメリカは日本を9ヵ国条約違反であるとして、非難するようになりました。

 そんな中、1938(昭和13)年11月、日本の近衛文麿首相による「東亜新秩序の建設」という声明が発表されました(第二次近衛声明)。

 これにイギリスとアメリカは強く反発し、両国は互いに日本という共通の敵を倒すべく手を組んで、中国(蒋介石政権)を支援するようになりました。

 そんな中、アメリカ政府内では、対日報復として対日経済制裁を科すべきではないかという意見が高まるようになりました。
 こうした「対日強硬意見」を主張したのは、モーゲンソー財務長官やスティムソン陸軍長官などでした。

 そんなモーゲンソーらの主張に対し、ハル国務長官は警告しました。

「現在、我が国の軍事力はその整備が遅れています。もし日本に経済制裁を加えて、日本が反撃してきた場合、対抗できるのでしょうか。なにしろ、相手は日清戦争日露戦争に勝利した世界最強の帝国陸海軍を擁する国です。」

 このハルの主張に強い説得力を感じたルーズベルト大統領は、モーゲンソーらの「対日強硬意見」を却下し、日本に対しては当面、非難と牽制にとどめることにしました。
以後、アメリカは軍備の充実を図る一方で、中国に対しては引き続き支援を続けることを決めました。

 そんな中、アメリカから遠く離れた中国の天津で事件が起こりました。
 1939(昭和14)年6月14日、天津の日本陸軍が天津英仏租界を封鎖したのです。事の発端は同年4月9日にイギリス租界内で、日本側に立って便宜をはかってくれていた関税委員が4人の中国人に殺されたことでした。
 日本陸軍は裁判にかけるため、イギリス側に容疑者の引き渡しを要求したものの、イギリス領事館はこれを拒否。これを受けた日本の現地軍は天津英仏租界を武力によって封鎖したのでした。
 それ以前に、天津の英仏租界内は反日勢力の隠れ家となっているなど、イギリスが影で中国を支援している様子も日本にとっては面白いものではありませんでした。

 租界を封鎖されたイギリスは、東京でグレーギー駐日大使は有田八郎外相 と会談を行い、今後の対応についての取り決めを行いました。

「イギリスは中国における現実の事態を確認する」

 グレーギーは日本軍に敵対する勢力は徹底的に排除するとしました。つまり、イギリスは日本の要求を受け入れ、譲歩したのです。

 この知らせはすぐにアメリカのホワイト・ハウスにも届きました。
 人種差別主義者のルーズベルトは大激怒しました。

「イギリスめ。おいしいチーズをかじるドブネズミにひれ伏したのか。情けない。」

 これによって日本がますます中国大陸での勢力拡大を加速させると見たアメリカ政府は遂に、対日経済制裁の時が来たと判断し、同1939(昭和14)年7月26日、アメリカは日本に対し、日米通商航海条約の破棄を通告しました(失効は6か月後の翌年1月)。

 これがアメリカの日本に対する最初の経済制裁でした。

 一方、日米通商航海条約の破棄を通告された日本は失効が6か月後であったことからあまり大きな騒ぎになりませんでした。

 しかし、日本のアメリカからの輸入額は1930年代を通して30%を超えており、国別では1位であり、綿花、鉄鋼、くず鉄、石油であり、こと石油に関しては大半をアメリカからの輸入に頼っていました。この輸入が途絶えてしまうのですから、日本の軍事や産業はたちまちストップしてしまいます。
 一方、アメリカの日本からの輸入品目は生糸、缶詰、絹織物、お茶などの日常生活用品であり、アメリカにとって軍事や産業に支障をきたすものではありませんでした。

 当時の日本政府はこの通告に対して、どう対応すればよいのかわかりませんでした。

 というより、日本政府はそれどころではなかった。
 この当時、日本は日中戦争に加え、ノモンハンではソ連軍と抗戦状態であり、同盟を結んでいたはずのナチスドイツがソ連と手を組んでしまうという裏切り行為も受けるなど国際社会から閉め出されるのではないかという不安と恐怖でいっぱいでした。

 そんな中でのアメリカの対日経済制裁です。
 日本としては「もう勘弁してくれ」という状態でした。

 結局、日本政府は何の対応も出来ずに1940年1月、その失効の時を迎えてしまったのでした。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。

参考文献
「昭和」を変えた大事件          太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
5つの戦争から読みとく 日本近現代史   山崎雅弘=著      ダイヤモンド社