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【日米開戦前夜3】アメリカを強硬にした日本の行動とは

 こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日米開戦前夜3】アメリカを強硬にした日本の行動とは」というお話です。

 

 コンピエーニとは、フランス北部のパリから北北東に約80キロの地点に位置する都市です。
 ここには別名「休戦広場」と言われるコンピエーニの森があり、2度の世界大戦の休戦協定が結ばれています。
 1918(大正7)年11月11日、第一次世界大戦の休戦協定はこの広場で行われました。勝者であるフランスは敗者であるドイツに対し、屈辱的ともいえる休戦条約を調印させました。

 それから約22年後の1940(昭和15)年6月22日、第二次世界大戦が行われる中、今度は立場が逆転し、勝者であるドイツが敗者であるフランスに対し、報復的ともいえる休戦条約を調印させました。
 連合国陣営の大国であるフランスがドイツに降伏したのです。

 1939(昭和13)年8月に勃発した第二次世界大戦は翌1940(昭和14)年4月9日以降、ドイツ軍の西方攻勢が行われ、デンマークノルウェーを制圧同年5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、そしてフランスにも侵攻し、同年6月14日、遂にドイツ軍はパリを占領したのでした。強力な軍事力を持っていたフランスはわずか6週間で完全な敗北を喫してしまいました。

 これは、ヒトラーの大拡張政策によって生まれた最新鋭の戦車や戦闘機などのハードウェアと、それを巧みに組み合わせてスピーディに作戦を行うソフトウェアの両面で他国よりも2歩も3歩も先んじていたからです。これは「ドイツ軍の電撃戦」と呼ばれています。
 こうして、ヨーロッパ戦線で唯一ドイツに抵抗出来る国はイギリスのみとなってしまいました。

 こうしたドイツの電撃戦は、ヨーロッパから遠く離れた日本の政府と軍首脳部も驚き、やがて東南アジアへ進出する「南進論」が熱を帯びてきました。
 当時、東南アジアを植民地とする宗主国はイギリス、フランス、オランダ、アメリカでしたが、アメリカ以外は今回の大戦でドイツ軍に圧倒され、これらの植民地は一時的に「管理者が弱体化」した状態となり、少し圧力をかければ簡単に制圧することが出来ると思われたのです。アメリカから日米通商航海条約を破棄されたことで、輸入の大幅な制限を受けた日本としては石油が豊富に採れるであろう東南アジアの植民地化は早急な課題でした。石油がなければ、現在も交戦状態である日中戦争を継続できなくなってしまいます。

 そして、フランスの降伏から一か月後の1940(昭和15)年7月22日、近衛文麿が再び首相の座に就き、陸軍大臣には東条英機を、外務大臣には松岡洋右を据え、第二次近衛内閣が誕生しました。
 陸軍と海軍は、このヨーロッパの戦争は遠からずドイツの勝利で終わると予想を立て、ドイツの勝利に便乗することを前提として今後の国策が取り決められました。
すなわち、第二次近衛内閣の当面の政策は、「東南アジア方面への南進」と、「ドイツ・イタリアとの三国同盟の締結」の2つとなりました。

 こうした方針に基づき、まず日本が着手したのは、フランスの植民地である「仏領インドシナ仏印)」への軍事的進出でした。仏印とはフランスが20世紀初め頃までに植民地または保護国としていたベトナムラオスカンボジアのことで、仏印シンドシナ連邦を組織しており、戦前の日本では「仏印」と呼ばれていました。
 日本軍の仏印進出の目的は、日本軍の東南アジア進出のための前線基地を作ることでしたが、最大の目的は、「援蒋ルート」の遮断でした。
 日本側も日中戦争の長期化の原因は、このルートを通じた英米による国民政府(蒋介石政権)への軍事的・物資的な支援であると見抜いており、仏印を通るこのルートはその大動脈ともいえるほど大規模な援助がされていました。この酸素ポンプを断ち切る必要がありました。

 しかし、こうした日本の策略はフランス側にも見抜かれており、フランスがドイツに降伏した翌日の6月18日、アンリ駐日大使を通じてすでに外務省に「本日をもって仏印は自発的に仏印―中国国境の全面封鎖をした」と通告されていました。
 「援蒋ルート」遮断の絶好の機会であるとみていた日本は、先手を打たれたカタチとなりました。
 そこで陸軍参謀本部は、西原一策(にしはらいっさく)陸軍少将を団長とした組織を派遣し、仏印通過・航空基地の使用・軍事資材の貯蔵などの交渉にあたった。

「この仏印通過及び航空基地の使用は、重慶の国民政府に対する昆明作戦の準備と、広西省に展開している日本軍の撤退が目的であり、支那事変(日中戦争)の処理の一環であります。」

 しかし、本当の狙いは中国南部に展開している南支那方面軍と新たに編成する印度支那派遣軍を北部仏印に進駐させることでした。

 これを受けた仏印のドクー総督(フランス極東艦隊司令長官)は、こうした日本側の要求は、実質的な日本軍進駐を意味するものであることを見抜いていましたが、かと言って拒否できるほどの武力もないとのことで、その回答を先送りにしました。

 同じ頃、日本軍は蘭印(オランダ領インドシナ)に対しても、仏印同様に、オランダ本国のドイツ軍への敗北を見越して、石油・ゴムなどの13品目にわたる原料資源の買い付けを要求しました。

 こうした日本軍の南方進出の動きは、アメリカのホワイト・ハウスにも伝わりました。

「ただちに、日本に対する石油・くず鉄・鉄鋼の全面禁輸を断行するべきだ。」

 そう主張したのは、モーゲンソー財務長官やスティムソン陸軍長官ら「対日強硬派」でした。
 こうした彼らの進言に同調的な態度を見せたルーズベルト大統領でしたが、ハル国務長官は、またしても警告しました。

「待ってください。今すぐ石油やくず鉄を禁輸にすれば、いたずらに日本の対蘭印侵攻を駆り立てられかねません。ここは慎重にいきましょう。」

 ルーズベルトはこうしたハルの主張を受け入れ、モーゲンソーらの提言は一旦、却下しました。

 一方、仏印では、ドクー総監による回答の先送りに対し、業を煮やした参謀本部作戦部長の富永恭次(とみながきょうじ)らが、強硬姿勢をとるようになり、日本軍の仏印進駐承認の期限を同1940年9月22日と定め、それを破った場合、武力衝突も辞さないとする強談判に出ました。

 こうした圧力を受けて、同1940年8月29日、仏印当局は日本の要求を呑み、現地にて「松岡・アンリ協定」が調印されました。
そして、同年9月23日、日本軍は仏印軍との交戦の末、北部仏印進駐をスタートさせ、25日の夕方には仏印軍を降伏させ、戦闘を終了させました。

 こうした予想以上に早く仏印進駐を果たした日本軍に対し、アメリカ政府はいよいよ対日経済制裁を本格化させるべきだとし、それまで慎重な対応をしていたハルも、同調しました。
 そしてホワイト・ハウスは9月29日、「大統領は10月16日以降、全等級のくず鉄・鉄鋼の輸出を許可制とすることに同意した」と新聞で発表しました。
この翌日、日独伊三国同盟が結ばれました。

「ヨーロッパ戦線は遠からず、ドイツの勝利で終わる。今のうちにドイツと手を組んでおけば、その権益を多く享受できるだろう。バスに乗り遅れるな!」

 ヨーロッパにおける(一時的に)覇者となったドイツと手を組めば、アメリカも日本に対する対応を譲歩するだろうと考えていました。

「我が国は上手くバスに飛び乗った。」

 そう安心していた日本に対し、アメリカはこの三国同盟を、日本の自国に対する侮辱と挑戦であると取った。

「事実上の同盟関係にあるイギリスと敵対するドイツと手を組むなど、無礼極まりない。」

 こうしてアメリカの日本に対する敵視は取り返しのつかないところまで悪化したのでした。

つづく。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。


参考文献
「昭和」を変えた大事件 太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社