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【日米開戦前夜4】ABCD包囲網はこうして形成された

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日米開戦前夜4】ABCD包囲網はこうして形成された」というお話です。

 

 なぜ日本とアメリカは戦争をしてしまったのでしょうか。
 それを一言で説明すると、「アメリカが対日石油全面禁輸をしたから。」に尽きます。
 当時、日本は石油の輸入のおよそ8割をアメリカに頼っていました。それを全面禁止したというのですから、日本の軍事も産業もストップしてしまうのは当たり前です。
アメリカはそれを知っていて断行した確信犯なのです。イギリスもオランダもそうです。
 国際紛争を戦争によって解決するのが当たり前だった当時、「経済制裁」とは「宣戦布告」と同様の意味を持ちます。
 つまり、太平洋(大東亜)戦争とは、アメリカが最初に仕掛けてきたのです。

パールハーバー」というアメリカ映画がありましたが、その劇中でも山本五十六が「敵は我々の生命線である石油の供給を絶った。」としっかり発言しています。つまり、現在のアメリカ人だって本当のことは知っているのです。

 ではなぜ、アメリカは対日石油全面禁輸に踏み切ったのでしょうか。日本にも原因があったのではないでしょうか。今回をそれについてのストーリーを解説いたします。

 

 1940年9月、日本軍が北部仏印進駐(南部ではないですよ。注意してください。)したことで、アメリカは1940年10月、くず鉄及び鉄鋼の対日輸出を許可制とすることを決めました。

 そして翌1941(昭和16)年1月16日、ルーズベルトは政治顧問や陸海軍両軍事長官、陸軍参謀総長、海軍作戦部長をホワイト・ハウスに招き、今後の国策についての話し合いが行われ、アメリカ政府は以下の方針を打ち出しました。

「我が国が日本・ドイツの両国と戦争になった場合、同盟を結ぶイギリスと共に対ドイツ戦を優先的に戦う。」

 前1940(昭和15)年9月、日本はドイツ・イタリアのファシズム勢力と手を組みました。それによってアジアとヨーロッパの戦争が一体化してしまったわけですが、当初、アメリカは対日戦よりも、対ドイツ戦を優先的に考えていました。
 つまり、1941年初頭の時点までは、アメリカ政府の国家戦略において、対日開戦を行う予定はなく、主に外交によって対処する、若しくは軍の戦時態勢が万全に整うまで、対日戦は先延ばしにすることが決められていました。

 一方、日本国内では民間人が積極的に対米和平のために米民間人と交渉を行っていました。

経済制裁の見直しをお願い申し上げます。」

「石油の輸入禁止だけはご容赦を。」

「一人の日本人としてアメリカと戦争はしたくありません。」

 少数ながら民間人の中にも対米和平を何としても成功させたいと願う人達がいました。
 民間人が積極的に対米交渉をやっているのに、政府がやらないわけにいきません。これは本来、政府の仕事です。

 そこで、第二次近衛内閣はようやく、中国やインドシナにおける政治と軍事の問題解決に向けて対米交渉をはじめることにしました。それはアメリカ政府が、日本軍の北部仏印進駐に対して、くず鉄・鉄鋼の経済制裁をしてから半年後の1941年3月8日、あの優柔不断だった近衛文麿首相が、真面目に仕事をやるようになったのです。

 こうして駐日大使の野村吉三郎は、アメリカの国務長官コーデル・ハルと日米交渉を始めました。
 アメリカとしてもドイツとの戦いを控えている以上、出来ることなら日本とは外交によって和平を実現させたいと思っていました。
 交渉を始める前、ハルはルーズベルトに以下のように進言しました。

「いたずらに日本を政治的・経済的な圧力をかけてはいけません。日本側にも対米穏健派はたくさんいます。彼らの立場を弱めてしまってはアメリカにとっても大きな不利益が生じます。ここは理性的に対応し、日中間の戦争を収拾させ、ドイツとの同盟関係も死文化にする必要があります。」

 アメリカとしても日中和平は最重要課題であり、特に厄介な日独伊三国同盟の解散を交渉によって達成出来るならと交渉に応じたのでした。

 

 日本国内では一方で、「北進論」と「南進論」が争われていました。
「北進論」を唱える陸軍はソ連を仮想敵国として満州国日中戦争などを根拠に予算を貰っていました。一方、「南進論」を唱える海軍はアメリカを仮想敵国とすることで予算を貰っていました。したがって、海軍としては南方に兵を進めなければ、その立場が危うくなります。
 当時、大日本帝国の陸軍と海軍は犬猿の仲です。これは明治時代の健軍以来から続くもので、陸軍と海軍は国家予算という限られたパイを互いに奪い合ってきたのです。

 日米交渉では、野村は民間人が作成した「日米諒解案」として知られる草案を持って交渉に向かいました。

その主な内容は、以下の通りです。

1.日本が中国から撤退し、満州国を承認することを条件に、アメリカは日中和平に乗り出すこと。

2.日本が武力南進政策をとらないことを条件に、アメリカは日本の南方資源獲得への支持と協力をすること。

これらの条件が全て成立したうえで、日独伊三国同盟の持つアメリカへの敵対心は弱めるとしました。

一方、ハルが突きつけてきた条件は以下の通りです。

1.あらゆる国家の領土保全と主権尊重

2.他国に対して内政干渉を行わぬこと

3.通商を求めた機会均等を認めること(特に中国に対して)

4.平和的手段によらぬ限り太平洋事情は現状を維持する

ハルはまず、日本政府がこれらの原則を守ることが先決だとしました。「とにかく日本は征服と侵略を放棄して平和的な原則に立ち返りなさい」というアメリカなりの正義を振りかざした条件でした。

 早速、交渉は難航しました。

 

 そんな中、同1941年4月22日に日ソ中立条約を結んだ松岡洋右(まつおかようすけ)外務大臣が帰国してきました。
 松岡は自分が留守のあいだ、政府が勝手に対米交渉を行っていることを知って大激怒しました。

「勝手に対米交渉を進められては困る。外務大臣はこの私だぞ。それに三国同盟を解散するだと?ふざけるな。私は何のためにソ連と中立条約を結んだと思っているのだ。日独伊にソ連を加えたユーラシア同盟で英米に圧力をかけるためだぞ。」

 ソ連と手を組むことが出来たことで、すっかり強気になった松岡は、南進については、武力に訴えることなくという字句を削り、三国同盟に関しては日本は確固たる参戦義務を持っているとして大幅に修正した日米諒解案を5月11日に野村大使を通じてハルに提出しました。

 日独伊三国同盟の解消を最大の目的としていたアメリカにとって、この修正案は交渉に値するものではありませんでした。
 これを受けたハルも「これでは対日開戦はやむを得ないか」と感じるようになります。しかし、日本がソ連と手を組んでいる以上、直接的な戦争は避けたい。ハルは交渉の引き延ばしをすることにしました。

 

 そんなとき、予想外の出来事が起こりました。
 1941年6月、ドイツがソ連に侵攻したのです。

勝利の女神は我々に微笑んだ。」

 これでソ連が枢軸国陣営につく可能性がなくなったことで、今度はアメリカ政府が強気になり、今後の日米交渉継続の条件として「松岡外相を罷免すること」を要求しました。

 ドイツのソ連侵攻の知らせを聞いた日本政府は驚愕し、松岡を罷免するために第二次近衛内閣は1941年7月18日に、いったん総辞職し、松岡を除いた第三次近衛内閣が誕生しました。またしてもドイツに裏切られた日本は、アメリカとの戦争を避けるために、アメリカの容赦なき「内政干渉」を聞き入れたのです。

 それでも、親独派の東条ら陸軍は「三国同盟は日ソ中立条約に優先する」としてあくまでドイツ側に立ってソ連と対立する姿勢を示しました。
 東条は、北の守りを確固たるものとするために満州に駐在する関東軍に動員をかけ、総勢70万人の大兵力を関特演(関東軍特種演習)と称して満ソ国境に集結させました。

 ドイツのソ連侵攻は、スターリンも予測しておらず、彼は別荘に2週間、身を隠していました。そこに東側から日本軍が大兵力で構えているわけですからシベリア(東側)からモスクワ(西側)に兵を送ることが出来ません。兵力が分散されている分、ドイツはソ連侵攻を有利に進めることが出来ます。同盟を結んでいる日本からのドイツに対する軍事的支援でした。
 陸軍としても、関特演は予算をしっかり獲得するためには非常に重要で、政府としても、「北は守られた」状態になったので、好都合でした。そこで、海軍としは「では、南に兵を進めましょうよ。」となるわけですが、政府内での「北守南進」の意見が強くなってきました。

 同1940(昭和16)年7月2日に御前会議で開かれた大本営連絡会議では北守南進論こそが「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」として決まり、フランス政府には南部仏印進駐を強要し、日本軍は同年7月23日以降、南部仏印への進駐を始めました。

 こうした日本軍の動きに対し、アメリカ政府の日本に対する警戒心は一気に高まりました。
 1940(昭和15)年に実行された北部仏印進駐の場合、日中戦争に関する「蒋援ルートの遮断」という大義名分があったことは明白でした。しかし、今回の南部仏印進駐には明確は大義名分が見当たりませんでした。
 アメリカ政府は日本の南部仏印にはどのような意図があったのか考えました。

「日本はなぜ南部仏印にまで兵を進めたのだ?もしや、ここに前線基地として我が国領フィリピンや英領マラヤ及びシンガポール、蘭領東インドなどインドシナ全ての占領を企んでいるのでは?」

 こうしてアメリカにとって日本とはもはや見過ごすことのできない存在となってしまい。イギリスやオランダも同様に警戒心を持つようになりました。

 

 一方、日本側としては南部仏印進駐には、特に深い意味を持っていませんでした。

「北部を占領したんだし。ついでに南部も取っちゃおうよ。どうせフランス領なんだし。同じでしょう。」

 そんな軽い気持ちでした。
 よく南部仏印進駐は石油を確保するための前線基地の建設のためだったと述べる歴史学者がいますが、そもそもベトナムに石油はありません。石油が眠っているのは当時オランダ領インドネシアであり、前線基地なら北部仏印だけで十分です。

 日米対立がここまで悪化させる原因を作ったのは、主に陸軍です。しかし、海軍はそんな陸軍の失態を学ばずに、南方方面でいたずらに戦線を拡大してしまった。アメリカを仮想敵として予算を取るために。

 理性や論理などの合理的発想を重視する西洋人にとって、日本軍の明確な大義名分のない進駐は理解し難いものでした。
 一方、感情や精神などの非合理的発想をする傾向のある日本人にとって、大義名分なき進駐に対して、西洋人が警戒心を強めることを予測することが出来なかったのです。

 

 こうして1941(昭和16)年8月1日、アメリカは遂に対日石油全面禁止という最も強い切り札を出してきました。イギリスとオランダもその後を追った。

 この経済制裁によって日本はいよいよ国際経済から閉め出されることになってしまいました。
 日本国内の新聞では、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)の日本に対する経済制裁を中国(China)と連携した「日本いじめ」という構図でわかりやすく「ABCD包囲網」として国民に被害者意識を煽りました。

 これによって、日本国内は「即、対米開戦!」が声高に叫ばれるようになり、日本政府内でも、「対米開戦やむなし」という意見が強くなってきました。

 日米対立はどうなってしまうのでしょうか。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。

参考文献
「昭和」を変えた大事件 太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
教科書には載っていない 大日本帝国の真実 武田知弘=著  彩図社
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社
もういちど読む 山川日本史  鳴海靖=著  山川出版社