【日独伊三国同盟】なぜ防共協定は軍事同盟に発展したのか【近衛文麿】
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【日独伊三国同盟】なぜ防共協定は軍事同盟に発展したのか【近衛文麿】」というお話です。
ぜひ、最後までお読み頂きますよう、よろしくお願いします。
今回の記事はかつて日本・ドイツ・イタリアが互いに手を組んだ三国防共協定を軍事同盟にまで発展するストーリーをご紹介します。
日本・ドイツ・イタリアはソ連に対抗するべく締結した日独伊三国防共協定をアメリカやイギリスにも拡大するべく日独伊三国同盟に発展させようとしました。これによって陸軍首脳は万が一、日本と戦えばナチス・ドイツとも戦うことになるぞと英米を牽制する狙いがありました。そうすれば日米通商航海条約の破棄を通告してきたアメリカも譲歩するだろうと考えたのです。
1936(昭和11)年11月25日、日本とナチス・ドイツは日独防共協定を結びました。
ヒトラーはもともと、共産主義を毛嫌いしており、ソ連の膨張政策にも警戒(仮想敵国と)するようになりました。
一方、このときの日本は二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣の時でしたが、この協定は外務省の意向を一切無視したもので、陸軍の言いなりの広田内閣は防共協定の締結を追認するカタチとなってしまいました。
この「防共協定」は「共産主義」を「防ぐ」ことを目的とした協定であり、もしソビエト連邦(以下、ソ連)と戦争になった場合、両国はお互いに採るべき道を協議し、場合によってはソ連をヨーロッパ側とアジア側で挟み撃ちにすることも辞さないという取り決めでした。
翌1937(昭和12)年11月6日にはイタリアも加わり、日独伊防共協定となったことで、3国はソ連を仮想敵国として対抗するべく互いに手を組んだのでした。
広田内閣の後、宇垣一成首相、林銑十郎首相と内閣の潰し合いが続く中、元老・西園寺公望が次の首相として希望を託したのが、近衛文麿という人物でした。藤原氏から分かれた摂関家の1つで、近衛家の当主であり、直前まで枢密議員議長を務めており、若くて、ハンサムで、背が高くて、温和な話し方をする首相で、就任当初は国民から絶大な人気を博していました。
しかし、近衛内閣誕生から1か月後、1937(昭和12)年7月に起きた盧溝橋事件をきっかけに日本と中国の全面戦争が勃発しました。(日中戦争)
優柔不断な近衛は陸海軍の言いなりで戦線を拡大させ、一応、和平交渉を試みるも、頓挫したとみると一転して「爾後、国民政府を対手(相手)とせず」という声明を発表するなどして戦線を泥沼化させてしまいました。
こうした中国大陸での戦線が拡大するたびにイギリスやアメリカからも反感を買うようになりました。
イギリスは、ずっと前から中国を巨大市場として開拓しており、それが日本の侵攻によって損なわれていることに反発していたのです。
また、中国進出に遅れたアメリカは、日本の「抜け駆け」的な中国進出は9ヵ国条約違反であるとして非難するようになりました。
こうして日本という共通の敵が現れたことで、英米両国は互いに手を組んだのです。
このように日中戦争の泥沼化は英米との対立という新たな問題を日本に突きつける結果となってしまい、日中戦争の事態を収拾できないと見た近衛は結局、1939年1月に総辞職。平沼騏一郎が首相の後を継ぎました。
1939(昭和14)年とは、日本にとって大きな事件に相次いで見舞われた年でした。
1つは1939(昭和14)年5月~9月に起きたノモンハン事件です。この事件は、満州国とモンゴルとの国境(ノモンハン)で起きた戦争ですが、モンゴル軍にはソ連軍機動部隊が、満州軍には関東軍がそれぞれ加勢し、両勢力は大きな損害を出しながら戦闘を続けていきました。
もう1つは同1939(昭和14)年7月のアメリカによる日米通商航海条約の破棄通告でした。これは突然の通告で、条約の失効は破棄通告から6か月後よされましたが、もし失効すればアメリカから石油をはじめ鉄鉱石や屑鉄、工作機械などが輸入出来なくなってしまいます。そうなれば日中戦争を続けることは出来ません。
中国、ソ連、イギリス、アメリカと徐々に日本に対する包囲網が形成されつつある中、日本の陸軍は防共協定を結ぶナチス・ドイツに頼るようになりました。
しかし、そのナチス・ドイツが1939(昭和14)年8月23日にソ連と独ソ不可侵条約を結んでしまいました。ソ連を警戒するためにドイツと組んだのに、そのドイツがソ連と組んでしまうという事態は、ノモンハンでソ連と抗戦状態にあった日本を大きく失望させました。
ヒトラーは日本に何も知らせず、一方的にソ連と手を組んだのです。
この知らせを聞いた平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を残して内閣を総辞職し、ノモンハン事件も日本の大惨敗の終わり、国境もソ連の主張を呑まざるを得ない状況になってしまいました。
平沼の後を継いだのは、阿部信行という陸軍軍人でした。阿部が首相就任2日後の1939(昭和14)年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、3日にはイギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦の幕が開いたのです。
独ソ不可侵条約の締結からわずか2週間でそれまでヨーロッパの和平は破られたのです。
こうして英仏と戦争状態となったヒトラーは、日本にある提案をしてきました。
それは、現在結んでいる三国防共協定を三国軍事同盟に発展させ、仮想敵国をソ連だけでなく、アメリカやイギリスにも拡大しようとする案で、3国のうちの1か国が英・米・ソのいずれかと開戦した場合、他の2か国も参戦するというものでした。
一方的にソ連と手を組んだうえに、いざ自国が戦争状態になったら、今度は軍事同盟を提案してくるという非常に勝手なドイツですが、陸軍首脳部にとってはまさに救世主ともいえるものでした。
というのも、日中戦争の泥沼化に伴うアメリカとイギリスの対立に交渉で解決することが出来ないと見た陸軍首脳部は、ヨーロッパで勢力を強めるドイツと手を組むことで対抗し、万が一、日本と戦争した場合、ドイツとも戦争をすることになるぞと英米を牽制出来ると考えたのです。
そうなれば、経済制裁をしてくるアメリカも譲歩するのではないかという期待もありました。
この時、ヒトラーはすでに隣国オーストリアの併合を済ませ、チェコスロバキアのスデーデン地方割譲を英仏にも認めさせており(ミュンヘン会談)、さらに1939(昭和14)年3月にはプラハに進駐してチェコスロバキアそのものを解体するなどナチス・ドイツははっきりとヨーロッパ制覇に向けて踏み出していきました。
こうしたドイツの勢力拡大を目の当たりにした陸軍首脳はすっかり乗り気になり、防共協定の強化という名目で日独伊三国同盟案を政府に提出しました。
三国同盟締結に急ぐ陸軍首脳部に対し、米内光政ら海軍首脳部は、そんなことをすれば英米の反発をさらに強め、アメリカの対日経済制裁はさらに強まるだろうととして同盟締結に猛反対しました。三国同盟締結をめぐって陸軍と海軍は対立したのです。
しかし、この同盟案に反対したのは、米内光政海軍大臣や山本五十六海軍次官、それに海軍省の井上成美軍務局長のいわゆる‘海軍トリオ‘と呼ばれる海軍の首脳部で、彼らはアメリカの日米通商航海条約の破棄は日中戦争を続ける日本に対する経済制裁であることをしっかりと見抜いており、こうした状況で英米をも共通の敵とする三国同盟が結ばれたら、日米貿易はどうなるのか。
そうなれば、日本はいよいよ世界経済からシャットアウトされてしまいます。
こうして三国同盟締結をめぐる陸軍と海軍の対立が始まりました。
同盟案の承認を迫る板垣征四郎陸相は言いました。
「我が国に英米との戦争に勝ち目はない。ドイツと手を組み、英米を牽制するのだ。」
しかし、承認を拒否する米内海相は反論しました。
「確かに、我が国は英米との戦争に勝ち目はありません。しかし、ドイツと手を組めば、そんな英米の反発をさらに強めてしまいます。」
両者に共通しているのは、日本はイギリスやアメリカとの戦争には勝てないということでした。目的は同じでも手段が異なる両者の意見が一致するはずもなく、会談は延々と続きました。
そんな陸海軍の対立を受けた阿部信行首相は、政権運営の自信をなくし、翌1939(昭和14)年末に総辞職し、その後、昭和天皇が三国同盟締結に消極的であることを知った元老・西園寺は海軍大臣の米内に組閣を命じました。
その頃、ポーランドに侵攻したドイツは、凄まじい快進撃を続けており、同じくポーランド侵攻を開始したソ連軍とブレスト・リスクで出会い、ポーランドを
完全に分割してしまいました。
その後、ナチス・ドイツは西ヨーロッパへと戦線を拡大させ、翌1940年4月にデンマークを占領、続けてノルウェーも制圧、5月に入るとベルギー、オランダ、ルクセンブルクにも兵を進めました。そしてドイツ軍は遂にフランスにも侵攻し、英仏軍をダンケルクに追い詰めて潰走させ、同年6月14日、パリを占領しました。
こうしたドイツ軍の怒涛の快進撃を目の当たりにした日本の陸軍は、再び三国同盟締結に走り出しました。
「いずれこの戦いはドイツの勝利で終わる。バスに乗り遅れるな!」
しかし、そのためには三国同盟締結に反対する米内を首相の座から引きずり降ろさなくてはいけません。
倒閣は簡単です。
復活した軍部大臣現役武官制度を利用して、陸軍大臣を辞任させ、後任の陸軍大臣も指定しなければ、内閣を成立せず、米内内閣は総辞職をせざるを得なくなります。
これによって、米内内閣を崩壊させた陸軍首脳部は、優柔不断な近衛文麿を再び首相として担ぎ上げ、同1940(昭和15)年7月19日、第二次近衛内閣として発足させました。
第二次近衛内閣は通称‘陸軍の言いなり内閣‘とも呼ばれ、東条英機や松岡洋右が政治の表舞台で活躍するようになります。
第二次近衛内閣は組閣後、早速、三国同盟締結を急ぎました。
同年9月19日、御前会議で同盟を結ぶことが決定され、9月27日にはベルリンで「世界に新秩序を」というスローガンが掲げられたうえで、日独伊三国同盟が締結されました。
しかし、この三国同盟に対し、アメリカ・イギリスは譲歩どころか、大激怒し、強硬姿勢をとるようになりました。つまり海軍トリオの予想とおりの展開になったのです。
アメリカのルーズベルト大統領は日独伊が目指す世界秩序は「全人類を支配し、奴隷化するための権力と金力との邪悪な同盟」であるとラジオで呼びかけ、この世界大戦を悪の枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)と正義の連合国(アメリカ・イギリス・フランス)の戦いであるとやさしく図式化したのでした。
このようにアメリカ・イギリスとの対立をさらに悪化させてしまった近衛内閣は結局、その責任を取るように以後、対米和平に尽力するようになります。
今回は日独伊三国同盟をご紹介しましたが、陸軍の謀略によって締結されたこの同盟によって、ヨーロッパの戦争とアジアの戦争が一体化し、日本は枢軸国の一国として仕立て上げられた結果、多くの日本人が耳を覆いたくなる‘日米開戦‘へと発展してしまいました。
「陸軍悪玉論・海軍善玉論」の由来はここから来ていますが、これは結果論に過ぎません。陸軍も海軍もアメリカと戦争をしたくなかったのです。
当時の官僚達の誰もが、アメリカとの戦争には絶対に勝てないことを知っていました。
そんな中、自分達なりに外交のグランドデザインを描き、模索しながらも何としても対米開戦を回避しようとしていたことは間違のない事実だったのです。
参考文献
「昭和」を変えた大事件 太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
今さら聞けない日本の戦争の歴史 中村達彦=著 アルファポリス
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
教科書よりやさしい日本史 石川晶康=著 旺文社
教科書よりやさしい世界史 旺文社