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【日中戦争2】盧溝橋事件はなぜ全面戦争に発展したのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【日中戦争2】盧溝橋事件はなぜ全面戦争に発展したのか」というお話です。

 今回は、盧溝橋事件から日本と中国の全面戦争に至るまでの経緯を見ていきながら、その黒幕はアメリカだったことについて詳しく解説していきたいと思います。

 

 盧溝橋とは、北京から南西に約5キロに位置する橋で、永定河(えいていが)とよばれる川に架かっています。

 ヨーロッパではマルコポーロ橋と称されているくらい非常に古い橋です。

 1937(昭和12)年7月7日の七夕の夜、盧溝橋湖畔の一帯で日本軍は夜間演習を行っていました。日本は1894(明治12)年の日清戦争に勝利したことで、日本軍は北京に兵を置くことを認められていたのです。

 一方、中華民国側では国民党の国民革命軍が訓練をしていました。

 

 午後10時40分頃、訓練中の日本軍にむけて小銃弾が数発飛んできたことで事態は大きな騒ぎになります。

 大佐である牟田口廉也は、「敵に撃たれたら撃ち返すのが当然だ」と攻撃を命令したため、翌7月8日に部隊を永定河の堤防に展開する中国軍部隊を攻撃し、日中双方に死傷者を出す本格的な戦闘へと展開していきました。

 小銃弾は明らかに中国軍が駐屯する竜王廟(りゅうおうびょう)付近から射撃されたものでした。

 しかし、「衝突」は小規模なもので、7月11日午後8時の時点で、現地中国軍と日本公使館駐在武官との間で行われ、停戦協定が成立し、盧溝橋事件そのものは、収束しました。

 ところが、この事件を利用しようとする日本政府と陸軍首脳部がいました。

 

 陸軍首脳部は建前上では「不拡大方針」を示しましたが、本心では「面白いことが起きた」としました。

 これを口実に武力をもって新たに中国権益を拡大させようというのです。

 満州国はデフレ不況の打開策として、満州国を建国しました。

「王道楽土の建設」を謳い文句として建国された満州国には新天地で花をさかせようとする移住者が殺到しました。しかし、思ったほど資源がとれませんでした。

 

 前回の柳条湖事件は自作自演だったために、国際社会からの印象が悪く、強い非難を浴びてしまった。

 しかし、今回は最初に攻撃してきたは中国側です。

 これを口実にして、中国に威嚇攻撃をし、新たに中国での権益拡大を図ろうとするのが、陸軍省の意向でした。

 したがって、陸軍省は現地で停戦協定が結ばれたにも関わらず、「この際、3個師団を現地に派兵し、中国を徹底的にたたけ」と主張するようになりました。関東軍参謀長だった東条英機や、参謀本部の作戦課長の武藤章(むとうあきら)らは拡大論を唱えました。

 

 盧溝橋事件が起きた当時の首相は近衛文麿でした。

近衛は貴族院議員で、若くて、ハンサムで、背が高くて、頭良さそうで、まさに「プリンス」にふさわしい容姿で組閣当初は、国民から絶大な期待を受けていました。

 そんな近衛が首相に就いてからわずか1カ月後に、盧溝橋事件が勃発したのです。

 彼は陸軍の意向に逆らうことはせず、7月11日には「国民政府に反省を促すため」として陸軍から提出された動員派兵案に対し、天皇の裁可を得ました。

蒋介石は日本軍の強さをよくわかっているので、ここで一撃を加えて軍事力の差を改めて思い知らせておけば、すぐに屈服して日本の言うことを聞くようになるだろう」

 近衛はそう考えていました。

 近衛内閣は盧溝橋事件を北支事変と名付け、河北への増援部隊を派遣することを決意しました。

 

 当時、無法地帯であった中華民国では、盧溝橋事件の影響も相まって、反日運動が激化しました。

 近衛は当初、そんな中華民国に対する威嚇行為のつもりで、すぐに万事収まると考えていました。

 しかし、結果、日本政府の予想とは正反対の結果となりました。

 

 日本政府は盧溝橋の事件の現地停戦協定を無視する態度に出ましたが、蒋介石もまた同様な態度に出たのです。

 しかし、盧溝橋事件勃発の報に蒋介石は態度を変えました。

 国民政府は停戦協定に盛られた内容を一切承認しないとし、河北省に兵力を集中させ、日本に対し、徹底抗戦することを宣言しました。

 蒋介石は「最後の関頭(せとぎわの意味)演説」を行い、「我々は弱小国であるが、・・・・・最後の関頭に至れば、あらゆる犠牲を払っても徹底抗戦すべきである」と呼びかけました。

 また、日本軍には勝てないとわかっていた宋哲元は日本に屈服することを考えていましたが、蒋介石に説得され、徹底抗戦することを決めました。

 盧溝橋事件が起きる前年、蒋介石西安事件を経て、中国共産党中国国民党との合作を実現させました。

「日本には一切、妥協せず」

 蒋介石は、その姿勢を鮮明にしました。

 こうした状況の中、7月25日、北京と天津の間で日中の軍事衝突が発生したのでした。

 盧溝橋事件が点火した炎は、本格的な戦争へと燃え広がるようになりました。日本側はこの衝突を新たな口実として利用し、駐屯軍をさらに増強、航空部隊の支援と共に、7月28日に中国国民軍に対する総攻撃を開始しました。
それにしても、なぜ蒋介石は宥和政策から一転して対日強硬姿勢に態度を変えたのでしょうか。

アメリカと手を組んだ蒋介石はすっかり強気になり、日本に徹底抗戦することを決意しました。日中戦争とはアメリカの策略によって引き起されました。日米開戦はこの頃からすでに始まっていたのです。

 帝国主義国家にとって中国とは、非常に魅力的な国です。

 資源が豊富なので原料を安く買いあげることが出来るし、自国の製品を売りつける人口もたくさん抱えています。

 そんな中国を自国のマーケットとして取り込むことが出来れば、世界一の経済大国として成り上がることが出来ます。

 

 そんな野望を一番に抱いていたのがアメリカでした。

 中国進出に出遅れたアメリカは、いまだにその権益獲得に意欲的でした。

 1905年、アメリカは南満州鉄道を日本と共同統治することを条件に日露戦争に仲介に入り、ポーツマスで講和会議まで開きました。それにも関わらず、日本はアメリカの経営参加を拒絶しました。

 そんな過去があってか、アメリカは恩知らずの日本が中国での影響力を強めることを快く思っていませんでした。

 また、イギリスが中国権益を独占しているのも面白くなかった。

 当時、アメリカとイギリスは犬猿の仲と言ってよい関係です。

 1920年の国際連盟発足時だって、イギリスとアメリカは散々揉めた結果、アメリカは国際連盟に加盟しないという事態になってしまいました。

 1927年のスイスで行われたジュネーヴ軍縮会議も、アメリカとイギリスが散々揉めた結果、無効になってしまいました。

 世界の権限を死守するイギリス、それを奪いとろうとするアメリカ。

 19世紀はイギリスの覇権でしたが、20世紀はアメリカの覇権でした。

 当時は、ちょうどその転換点だったのでしょう。

 

 日中戦争に話を戻します。

 イギリスとしては日本と中国が戦争をされるのは、非常に困ります。

 すでにイギリスは中国に莫大な投資をしているし、その工業基盤が戦争によって破壊しつくされてしまってはたまったものではありません。

 

 一方、アメリカは日本と中国が戦争してくれることを望んでいました。

 アメリカの策略はこうです。

 蒋介石率いる国民党に物的支援をすることで恩を売り、傀儡化させる。そして日本と戦争をさせることで国力を疲弊させ、‘そのとき‘が来たら、中国権益をごっそりと入手してしまおうというのです。

 アメリカは蒋介石に働きかけました。

「日本は中国全土を植民地にしようとしている。我が国は全力で国民政府をバックアップいたします。」

 蒋介石としても中国から搾取することばかり考える日本よりも、物的支援をしてくれるアメリカに従いたいと考えていました。

 かつて蒋介石は中国軍が日本軍に比べて極めて弱体であることを自覚していました。下手に抵抗して、それを口実に日本軍の全面的な攻撃を受けることになれば、元も子もないと考えていたからです。

 しかし、アメリカが味方になってくれるということで、一気に強気な態度で対日抗戦を宣言したのです。

 中国の反日感情を煽り、日中を戦争に導いたのはアメリカだったのです。

 その証拠に、アメリカは日中の戦いが本格的になる前から、大量の援蒋物資を送っていたし、軍用機パイロット集団「フライング・タイガース」を300人派遣しています。
(フライングタイガース・・・日中戦争で国民党を支援するカタチで参戦したアメリ義勇軍の愛称です。戦闘機K-40は頑丈で急降下性能に優れた機体でした。)

 

 物事はアメリカの目論見とおりに進んでいったのです。

 一方で、日中戦争回避に必死になるイギリスは日本と同盟を組むことを提案しました。

 イギリス首相のネヴィル・チェンバレンは日英不可侵条約の締結を提案しました。

「もし、日本が中国と戦争したら、泥沼化するであろう。そんな時、我が国は仲裁に入る。そのためにここは手を組もうではないか。」

 しかし、日本はこれを拒絶しました。日英同盟破棄の恨みがあったのでしょうか。

 日本にとって一番の仮想敵国はソ連、次がアメリカです。そんな状況で日本が中国と戦争をはじめることがどれだけ愚かなことか。イギリスは自国の利権を守りつつも、極めて冷静に分析していたのです。

 20世紀の、アメリカは「世界の警察」と言われていましたが、この当時はイギリスが「世界の警察」だったのです。

 しかし、そんなイギリスが、その態度を変える出来事がすぐに起きてしまいました。ネヴィル・チェンバレンにかわり、戦争強硬派のウィンストン・チャーチルが首相に就任したのです。

「日本がそこまで拒否するならば、もう知ったことではない。」

 チャーチルは、ルーズベルトスターリンにも働きかけ、日本という共通の敵を倒すべく奔走するようになります。日本は完全に包囲されていくのでした・・・・。

 今回は日中戦争をテーマにした話でしたが、その裏にはアメリカの策略があったことには私も驚きました。太平洋戦争はすでに始まっていたのです。

 なぜ、日本はこんな状況に追い込まれてしまったのでしょうか。その最大の原因は、日本には資源がなかったということです。

 その解決策を中国に見出すも、欧米諸国から猛反発を受けてしまいました。資日本が中国での権益を諦めない限り、アメリカやイギリスとの対立も深刻化していく結果になります。

源がないから戦争に突入した日本、資源があるから戦争に突入したイギリスとアメリカ。

「戦うも亡国、戦わずとも亡国」

これは遅れてきた資本主義国・大日本帝国の宿命だったのでしょうか。

つづく。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

本宮貴大でした。

それでは。

 

参考文献
5つの戦争から読みとく日本近現代史 山崎雅弘=著 ダイヤモンド社
テレビではいまだに言えない 昭和・明治の真実  熊谷充晃=著 遊タイム出版
負けるはずがなかった!大東亜戦争   倉山満=著   アスペクト
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
教科書よりやさしい日本史  石川晶康=著   旺文社