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【日米開戦前夜1】なぜ日本とアメリカは対立するようになったのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日米開戦前夜1】なぜ日本とアメリカは対立するようになったのか」というお話です。
 是非、最後まで読んでいただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

 1941(昭和16)年12月~1945(昭和20)年8月までのおよそ3年半、日本とアメリカは戦争をしました。いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)です。しかし、そもそもなぜ日本とアメリカが敵対したのでしょうか。考えてみれば、非常に不思議です。
 というのも、日本とアメリカは太平洋を挟んで地球の裏側に位置する国同士です。よく日本でみかける世界地図は太平洋を中心にアメリカが東側に位置していますが、これは非常に珍しい地図で、世界的に使われている地図はイギリスのロンドンを通る本初子午線を中心としてアメリカは西側に位置しており、日本は東側(極東)に位置しています。
 中国やソ連のような近隣諸国とならまだしも、なぜ遠く離れた国同士がケンカをしてしまったのでしょうか。

 日本がアメリカに戦いを挑んだのは、アメリカが日本に対する石油の輸出を止めたことだとされています。当時、日本は国内で消費する石油のおよそ8割をアメリカに依存していました。その石油の輸出を止められてしまえば、日本の軍事や産業がストップしてしまうのは当然です。

 なぜ、アメリカは日本にそんな嫌がらせをしてきたのか。

 表向きは、アメリカが日本の中国大陸での暴走行為に対して正義の鉄槌を下したということになっています。しかし、国際関係にそんなキレイごとは存在しません。
ということで、今回は日米開戦の1回目ということで、「そもそも日本とアメリカはなぜ対立するようになったのかについて見ていきたいと思います。

日本とアメリカの対立は満州問題に遡ります。しかし、アメリカにとって大事な貿易相手国(お客さん)である日本に対しアメリカは当初、宥和的でした。そんな中、日本が中国大陸での権益を拡大させ続けることに危機感を覚えたルーズベルト大統領は日本やドイツを‘病原菌‘と見なすようになるのでした。

 アメリカが日本を敵視するようになったのは、1904(明治37)年に勃発した日露戦争にさかのぼります。他の列強諸国に比べ、植民地競争で出遅れていたアメリカは中国での権益が欲しかった。
 中国大陸とは非常に魅力的な場所です。資源は豊富だし、自国の工業製品を買ってくれる人口も多い。気候も温暖で港もたくさんある。経済活動には絶好の場所と言えました。その中でもアメリカが特に狙っていたのが大豆など豊富な農業生産力がある満州でした。

 19世紀、満州はロシアの勢力下に入ったものの、そのロシアが日本との日露戦争で劣勢に立たされたことで、満州地帯は宙に浮いた状態となりました。
アメリカは日露戦争の講和の仲介を行う代わりに、南満州鉄道を日本と共同経営をする権限が欲しいと申し出て、日本もそれを承認しました。
 そして、アメリカのポーツマスで行われた講和会議によって日露戦争は日本の勝利に終わりました。
 しかし、日本は当然のごとく南満州鉄道を独占し、アメリカとの共同経営を拒否しました。

「おいおい。これでは話が違うだろう。」

 アメリカの日本に対する敵対心が初めて芽生えた瞬間でした。

 アメリカ国内でも日本が白人国であるロシアを降したことは衝撃であり、黄禍論(イエロー=ぺリル)が吹き荒れて、日本人移民に対する差別・偏見が酷くなっていきました。
 もともと、日本人移民は勤勉なうえに、生活習慣がアメリカ人とは大きく異なっており、白人社会と交わろうとしない。そのような根本的な性格の違いによる違和感も相まって、アメリカ国民の日本人移民に対する嫌悪感が募るようになりました。
 それを一気に沸騰させたのが、今回の満州問題だったのです。

 

 その後、中国では1911年に起きた辛亥革命の時、清が倒され、新たに中華民国が誕生しました。そのために中国の政情は不安定になり、中国大陸における列強の権益が脅かされるようになりました。
 そんな中、日本は満州における権益を死守するために、1931(昭和6)年に満州事変を起こして、翌1932年には満州国の建国宣言をしました。

 この時のアメリカ大統領はハーバート・フーヴァーでしたが、フーヴァー大統領は日本に対しては非常に宥和的な対応しました。1930年のロンドン海軍軍縮条約では、日本の主張をほぼ飲んでくれたし、満州国建国に対しても非常に寛容な態度を示しました。
 通説では、満州国の建国は全世界から反対され、国際連盟に認められなかったために、日本は国際連盟を脱退せざるを得ず、結果的に国際的な孤立をしてしまったとされています。
 しかし、実際に満州国建国に強く反対していたのは、主にポーランドチェコスロバキアのようなヨーロッパの小国でした。彼らは大国が小国を再び軍事力によって侵略するという前例を作りたくなかったのです。

「ようやく平和な時代が訪れ、民族自決で我々は独立出来たのに・・・。また大国の支配に苦しまなくてならないのか?」

 そんな小国の強い主張にイギリスやアメリカなども同情してしまっただけなのです。

 ですが、イギリスやアメリカなどの大国としては、日本の満州国などどうでも良いものでした。
 というのも、この時代、イギリスもアメリカも世界恐慌の対応で忙しく、アメリカ国民はリンドバーグの息子誘拐事件に大注目しており、日本の満州国のことなんて、まるで無関心だったのです。
 国民からすれば、遠くの国の国際紛争よりも、自国のワイドショーの方に興味を示すものなのです。
 そんな中、アメリカの国務長官スチムソンだけが独りよがりにも「アメリカは満州国を絶対に認めない!これは明らかな9ヵ国条約違反だ。」と主張していました。
 しかし、フーヴァー大統領の本音としては「満州国?どうぞ、好きにやってください。」という感じでした。

 そんな中、日本が国際連盟からの脱退宣言をしたのと同じ年、1933年3月4日、世界恐慌に上手く対処できなかったフーヴァー大統領が大統領選挙に負け、替わりにフランクリン・ルーズベルトが第32代アメリカ大統領に就任しました。
 しかし、ルーズベルトも日本との友好関係を重視し、満州国問題についても一定の距離を置いていました。ルーズベルトは将来における「日中両国による中国経済の共同支配」も視野に入れながら、日本との協調関係を模索し続けたのです。
というのも、ルーズベルトは大統領選挙の際、「我々は皆さんの夫や恋人、兄や弟を戦争に送りこむことはしません。」という公約しているてまえ、むやみに日本と戦争をすることは出来なかったのです。
 それに1930年代を通して、日本とアメリカは経済的に互いに依存しており、日本からアメリカへの輸出額は、日本の総輸出額の16%を占めており、アメリカから日本への輸出に至っては、アメリカの総輸出額の34%を占めていました(国別で第一位)。
 つまり、アメリカにとって日本とは大事な貿易相手国(お客さん)であり、世界恐慌の後遺症から中々脱却出来ないアメリカにとって、日本への輸出は重要な外貨収入源だったのです。

 しかし、1935年から始まったイタリアのエチオピア侵攻、1936年に始まったスペイン内戦によるドイツとイタリアの介入、そして1937年に日中戦争が始まるなど、次々に世界の平和秩序が崩壊する出来事が起きてしまいました。

 これを見たルーズベルトはシカゴで次のような演説を行いました。

ベルサイユ条約やパリ不戦条約、9ヵ国条約を無視した‘戦争‘という病が世界中に広まりつつある。このような国際的無政府状態を容認してよいのだろうか。戦争はアメリカ国民の平和を脅かす伝染病であり、その治療のためにはその病原菌を隔離する必要がある。」

 後に「隔離演説」と呼ばれるこの演説は、日本に中国市場を独占される恐れを感じたルーズベルトによる日本も含めたファシズム勢力への批判を国民に呼びかけたものでした。

 しかし、アメリカ国民にとって戦争とは、兵器などの軍需品を取り扱う特定の企業も儲けさせただけで、他国を救うために若者を死に至らしめる厄災でしかなく、そんな根強い厭戦ムードによって、ルーズベルトが期待した効果は生まれませんでした。

 そんな中、1938(昭和13)年11月に、日本の近衛文麿首相が国策上の方針を声明として全世界に発表しました(第二次近衛声明)。

「日本と満州、そして中国を政治的・経済的・文化的に統合させる東亜新秩序を建設する」

 これを聞いたルーズベルト率いるアメリカ政府は、日本の中国市場独占の可能性に危機感を覚え、アメリカは日中戦争で中国側を支援する方策へと路線変更しました。

 それから1か月後の同1938(昭和13)年12月15日、ルーズベルトは中国(蒋介石率いる国民党)政府に2500万ドルの借款を供与することを発表しました。
 さらに、ビルマ(現・ミャンマー)から中国南部雲南省を通り臨時政府の置かれた重慶にいたる「援蒋ルート」を開発し、対日宣戦布告もされていないにも関わらず、軍用機パイロット集団「フライングタイガース」およそ300人を中国大陸に派遣するなど、公然と蒋介石軍の支援を始めました。

フライング・タイガース・・・日中戦争時に中国国民党軍を支援した米国義勇軍の愛称。彼らの乗る航空機は頑丈で急降下性能にも優れたものでした。)

 こうしてルーズベルトアメリカ国民の支持を待つことなく、大統領権限の範囲内で日本との対立への第一歩を踏み出したのでした・・・・。

 太平洋戦争における日米対立の原因は、当然ですが、日本ばかりにあるわけではない。しかし、日本が反省すべきなのは、中国大陸での戦線をむやみに拡大させてしまったことだと言えます。
 日本人の中には、いまだに日中戦争を「侵略行為」だったという人がいますが、問題なのは、中国を侵略出来なかったことではなく、侵略する気もないのに、ズルズルと戦線を拡大させてしまったことです。これが陸軍の暴走だったといわれる所以(ゆえん)です。
 日中戦争時、日本国内では「暴支膺懲」という言葉が流行りましたが、日中戦争とは、中国を侵略するというよりも、懲らしめるという意味合いの方が強いものでした。
 こうした日本の中国における動きを英米は中国市場を独占しようとしているように映った。それを阻止するためにアメリカは「中国を日本の侵略から守る」と大義を掲げ、日中戦争に介入していったといえるでしょう。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。

参考文献
教科書には載ってない 大日本帝国の真実      武田知弘=著 彩図社
5つの戦争から読みとく 日本近現代史       山崎雅弘=著  ダイヤモンド社
子供たちに伝えたい 日本の戦争          皿木喜久=著   産経新聞出版
テレビではいまだに言えない 昭和・明治の「真実」 熊谷充晃=著 遊タイム出版