【日米開戦前夜5】なぜ東条英機は対米開戦に踏み切ったのか【東条英機】
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
お待たせしました。
今回のテーマは「【日米開戦前夜5】なぜ東条英機は対米開戦に踏み切ったのか【東条英機】」というお話です。
1941(昭和16)年8月1日、アメリカは日本に対する石油の全面輸出禁止を決定し、イギリスもオランダも続きました。
日本国内の新聞では、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)の日本に対する経済制裁を中国(China)と連携した「日本いじめ」という構図でわかりやすく「ABCD包囲網」として国民に被害者意識を煽りました。
日本国内では「即、対米開戦!」が声高に叫ばれるようになり、陸海軍の中でも、「石油の供給を絶ったのであれば、軍としては開戦以外に道はない」として開戦強硬論が強くなってきました。
当時の国際ルールにおいては、「宣戦布告」が政治面での国交断絶ならば、「経済制裁」は経済面での国交断絶を意味します。
つまり、大日本帝国が滅び去った悪名高き‘大東亜戦争‘は、アメリカが仕掛けてきた戦争なのです。
そこで、海軍は以下のような内容をまとめた「帝国国策遂行方針」なる文書を作成しました。
「放置すれば、物資不足のために陸海軍の戦力は立ち行かなくなる。それくらいならば、対米開戦を覚悟してでも、資源獲得のために南方進出を断行するべきだ。10月下旬を目標に戦争準備と対米外交を並進させ、10月上旬になっても、対米交渉が成立しそうもないと判断した場合には、対米開戦は発動する。」
しかし、対米(英蘭)開戦に慎重であった及川古志郎(おいかわこしろう)海相は、この文書に「目途なき場合」という字句を加え、当初よりも幾分弱めた内容にしたうえで、9月6日の御前会議に備えました。
遂に御前会議で日米開戦についてはじめて取り上げられたのでした。
9月6日の御前会議では、昭和天皇が杉山元参謀総長に対して質問しました。
「杉山よ。もし、対米開戦となった場合、どのくらいで決着がつく?」
杉山は答えました。
「だいたい3か月くらいかと思われます。」
昭和天皇は大激怒し、問いただしました。
「杉山よ。お前は北支事変(日中戦争)のときも、1カ月で終えられると言ったな。しかし、4年経った今でもまだ収拾がついていないではないか。支那は広いというが、太平洋はもっと広いぞ。一体何を根拠に3か月としているのだ。」
昭和天皇は、和平実現を心から願っておられました。
「よもの海 みなはらからと思う世に など波風たちさわぐらん」
これは明治天皇の御製の和歌ですが、「世界の平和を願ってやまないときに、なぜこうも波風が立つのだろうか」という意味で、昭和天皇は席上で朗読し、列席の人々の心を動かしました。
しかし、海軍としてはその立場上、開戦反対へと進めるわけにはいきませんでした。石油が断たれているゆえに、海軍は2年以内にその機能を完全に喪失してしまいます。
結局、9月6日の御前会議では対米(英蘭)戦が決定されましたが、その戦争はひょっとすると、いやかなりの確率で負けるかもしれないという不安を覚えつつも下された重要な国策決定となってしまいました。
一方、日米交渉においては、近衛文麿首相が和平交渉のために自ら親書を送り、ルーズベルト大統領と日米首脳会談を行いたいとアメリカ側に伝えました。
「近衛殿、対米開戦の気運が高まる中で、和平を実現するのは危険すぎます。」
「バカもん。そのくらいの覚悟は出来ている。対米和平は私の命をかけてでも絶対に達成してみせる。」
近衛は、帰国後に自身が暗殺される危険を冒してでも対米和平を実現させようとしていました。これまで何事も優柔不断で投げやりに政治運営をやってきた近衛ですが、日米開戦を目の前にしてようやく真面目に仕事をする気になったようです。
しかし、時すでに遅し。ルーズベルトはそんな近衛を全く信用しておらず、「原則的諸問題の了解が必要だ」として交渉には応じませんでした。
結局、日本郵船の新造船「新田丸」が近衛の乗船として準備され、随員の人選も進められていましたが、首脳会談は実現しませんでした。
近衛内閣における日米関係はもはや「末期症状」だったのです。
こうして、日米交渉が進展しない中、ついに10月上旬を迎えました。
東条陸相は先の御前会議に基づき、対米開戦を強く主張しました。
「交渉妥結の目途がないのなら、予定通り、対米開戦はやむを得ない。しかし、対米戦となると海軍が主力となる。むろん海軍さんの方に自信がないのならそれまでだが。」
これに対し、及川海相としては、正直アメリカとは戦争したくないけど、明治よりアメリカを仮想敵として巨額の予算を取り、軍備を拡張してきたてまえ、自信がないとは言えない。巨大戦艦「大和」と「武蔵」の竣工も間近に迫っています。
「どうぞ、陸軍さんの方からご決断を。」
東条陸相はすかさず答えました。
「何を言うか。これは海軍の問題だろう。」
「では、総理に一任してみてはどうでしょう。」
こうして最終的に決断を迫られた近衛首相ですが、なおも開戦に踏み切ることが出来ず、交渉継続を主張。しかし、アメリカは交渉に応じてくれそうもない。そこで近衛は回答しました。
「陸海軍の意見が不一致で、そんな重大な決断をすることは出来ない。」
もはやダチョウ倶楽部を連想させるような責任のなすりつけ合いですが、その後も東条と近衛は何度か懇談を重ねたものの、結局、話はまとまらず、最後には東条が会見を拒否するカタチで、第三次近衛内閣は総辞職しました。
翌日、東条は木戸幸一内大臣に呼び出された。
木戸幸一とは、明治維新の木戸孝允の孫ですが、東条に組閣の命を下しました。御前会議での決定を盾に近衛内閣を総辞職に追いやった東条は怒られると思っていたので、意外でした。
「東条殿、陛下はなおも対米和平を望んでおられる。9月6日の御前会議での取り決めは全て白紙に戻し、内情の情勢を深く検討のうえ、和平実現に注力してほしい。」
対米強硬派の東条に首相を任せるのは大きなリスクでした。
しかし、木戸としては「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の心境で、これまでのいきさつを熟知している者でなければいけないことに加え、東条ならば陸軍を抑える立場にもあるので、方針の変更も可能であると判断したため、組閣を命じたのでした。
「全力を尽くします。」
東条自身も、対米強硬を煽ったのは、陸軍大臣という立場上やむを得ないことで、本音のところはアメリカと戦争などしたくありませんでした。
組閣の命を受けた東条は、そのまま現役にとどまり、中将から大将に昇進し、陸相と内務大臣を兼任するカタチで組閣に着手しました。
こうして同1941(昭和16)年10月18日、東条英機内閣が成立しました。
新たに外務大臣に就任した東郷茂徳は、東条に言いました。
「日本が中国より撤退しなければ、日米交渉は無意味だと思われますが。」
東条は答えました。
「それも含めて再検討しよう。」
東条内閣は組閣後の10月24日~30日までの連日、政府統帥部連絡会議を開き、総理、陸、海、外、蔵、商の各大臣の他、企画院総裁、陸軍参謀本部総長、海軍軍令部総長らが出席のうえ、対米開戦の再検討がされた。
そして、11月1日以降の連絡会議では以下の三案が議題とされました。
第一案.戦争を極力避け、臥薪嘗胆する
第二案.ただちに開戦を決意し、諸政策をこれに集中する
第三案.戦争決意のもとに作戦準備を決意し、外交施策を続行して、これが妥結に努める。
第一案は、陸海軍ともに検討に値するものではありませんでした。特に海軍からの反発は強く、アメリカ、イギリス、オランダによる経済封鎖のもとにあっては、物資の欠乏は激しさを増すことは明確で、特に石油に関しては、先述通り、海軍は2年以内にその機能を完全に喪失してしまいます。
「我が国の石油貯蔵量は約840万キロリットルであり、ただちに対米開戦した場合、早くて1年半、持って2年余りの間には完全に使い切ってしまうでしょう。」
一部からは「人造油田プラントを開発できないか」という意見が出ましたが、そんな時間はありません。
こうして第一案は放棄されました。
この時の海軍兵力は対米7割に達しており、短期決戦であれば、勝算は十分あるとのことでした。
しかし、十中八九、アメリカは戦争を3年目以後に引き延ばしてくることが予想される。長期戦となれば、日本に勝ち目はない。
東条首相は軍部としての総括を「2年目までなら勝算はある。3年目以降は不明である」としました。
残ったのは第二案と第三案ですが、誰も対米戦に踏み切る決心がつかず、結局、第三案が採用されることになりました。
東郷外相は第三案にのっとり、日米妥結案を作成しました。
「日本は仏印(フランス領インドシナ)以上に武力進出を行わないことを条件に、アメリカは石油をはじめとした物資の輸出を再開すること。」
これは駐米野村大使を通じてからアメリカのハル国務長官に提出されました。
ハルは当初、この案に興味を示しました。ルーズベルトも興味を示し、アメリカ側は、「日本は南進も北進もせず、アメリカは民需用の石油、綿花、食糧、薬品などを毎月一定量供給する」という代替案を作成し、イギリス、オランダ、中国、オーストラリアなど各国代表に提示しました。
しかし、この暫定案に対しては、イギリスと中国の強い反発がありました。
「日本は甚だしい勘違いをしている。インドシナなど問題ではない。我々が一番に望むのは、中国大陸からの日本軍の即時撤退なのだ。」
イギリスは幕末のアヘン戦争以来、中国に莫大な投資をしており、それらの工業基盤が戦争に破壊しつくされることに強い不満を持って庵、アメリカ以上に日本を敵視していました。
その頃、アメリカ側ではモーゲンソー財務長官やスティムソン陸軍長官らによって極めて強硬な内容が含まれた以下の項目を含む10項目が作成されていました。
1. 日本は、米、英、ソ、中、オランダとの多辺的不可侵条約を締結すること。
2. 中国大陸(満州を含む)からの一切の軍隊の撤退させること。
3. 仏印(フランス領インドシナ)からの一切の軍隊の撤退させること。
4. 重慶政府を正式な中国政府として認めること。
5. 日独伊三国同盟を直ちに解散すること。
これはいわゆるハル・ノートとよばれるもので、翌11月26日、ハルから野村、来栖(くるす)に渡された。
この内容を知った東郷外相は大激怒しました。
東郷が特に激怒したのは、満州からの撤退であり、満州国はもともと中国の領土なのだから、中国に返せということを要求してきたのです。アメリカは無関係であるにも関わらず。
つまり、このハル・ノートの趣旨は、日本は1931(昭和6)年以前の状態に戻れという要求でした。
東郷外相が怒こるのも無理はありません。
現代なら、日本とアメリカがTPPや普天間基地についての交渉をしている時に、日本側がいきなり、「アメリカはテキサス州やカリフォルニア州をメキシコに返せ!ここはもともとメキシコ領なのだから。」と言ってきたらアメリカはどう思うでしょうか。
それまで最も対米和平派であった東郷外相が一番の開戦論派になってしまいました。そして東条に進言しました。
「アメリカはまともに交渉する気がないようだ。東条殿、もはや対米開戦はやむをえないのでは。」
「人間、ときには清水の舞台から飛び降りる決心が必要なのかも知れない。」
そう言って、東条首相も対米開戦に踏み切りました。
こうして12月1日。御前会議にて正式に対米開戦が決まりました。
東条は個人的に昭和天皇に面会し、号泣したそうです。
「陛下、申し訳ございません。対米和平に全力を尽くしましたが、このたび、対米開戦を決断するに至りました。」
翌2日、大本営は陸海軍の両司令官に電報を発しました。
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」
これは12月8日を日米開戦の日とするという意味ですが、これを受けた連合艦隊司令長官の山本五十六は、すでに太平洋上に布陣していた南雲忠一(なぐもちゅういち)中将率いる機動部隊にハワイへの奇襲攻撃を正式に命じたのでした・・・・。
以上、日米開戦前夜について解説してきましたが、現代ではハル・ノートは戦争を前提とした最後通牒ではなかったという主張が散見されます。書類の冒頭には「一時的かつ拘束力なし」との文言が記されていたからだそうで、例えば「中国からの全面撤退」も必ずしも強制的なものではなかったという解釈もされています。
しかし、日本としては石油の輸入を絶たれている以上、一刻の猶予も許されていません。そんな切羽詰まった状況の中、あのような挑発行為をされては誰でも対米開戦もやむを得むなしとするのが当然でしょう。当時は、国際的な紛争を戦争で解決させるのが当たり前の時代です。
中国大陸からおとなしく撤退していれば、対米開戦は免れたという人もいます。
そんなの簡単に出来るはずがありません。
日本はすでに支那事変(日中戦争)で20万人の兵を失っており、国民は緒戦の勝利で大熱狂しています。ここで政府や軍部が撤退を命じたら、彼らの権威は最低ランクにまで失墜していまいます。
「国の滅亡と自身の名誉を天秤にかけたとき、彼らは名誉の方を取ったのだ。」
それは歴史的な結果論に過ぎません。この当時の日本人で国が亡ぼされると予見していた人は少数派で、ましてや原爆なんていう非人道的な爆弾までおとされるなんて誰一人として予見していません。
日本は支那(中国)での戦線を拡大した時点で、対米開戦は避けることのできないものだったのでしょう。
つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
太平洋戦争「必敗」の法則 太平洋研究会=編著 世界文化社
手に取るようにわかる 太平洋戦争 瀧澤中=著 日本文芸社
昭和史 上 1926ー1945 中村隆英=著 東洋経済新報社
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著 産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著 ダイヤモンド社