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【日中戦争1】最大の原因は日英問題だった!?

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【日中戦争1】最大の原因は日英問題だった!?」というお話です。

 

 戦後の日本では、1931年の満州事変から1945年の日本降伏まで、まるで日本と中国が15年間にわたって戦争してきたかのように「15年戦争」と呼ぶ人達がいます。

 これは本当でしょうか。

 おそらく、1931年の満州事変とそれに続く満州国建国、そして1933年の日本の国際連盟の脱退によって日本と中国の関係が大きく悪化し、それが一直線に日中戦争へとエスカレートしたという認識なのでしょう。

 確かに満州事変から国際連盟脱退までの間に、日本と中国の関係が悪化したのは事実です。

 しかし、国際連盟脱退宣言が行われた1933年から盧溝橋事件が勃発する1937年までの4年間、日本は日本なりに関係回復のために政治工作をしました。

 対する中国も日本との関係を回復したほうが良いと考える人が多かったようです。

 そりゃ、仲直りが出来るならした方が良いですもんね。

 戦争なんて、誰がどう見ても最悪な選択肢ですし。

 

 ということで今回は、そんな仲直りをし始めていた日本と中国がなぜ再び対立し、日中戦争を始めてしまったのかを見ていきたいと思います。

 1931年の満州事変で、中国東北部一帯が日本の支配下に置かれた時、中国国内が一致団結して日本に対抗しようとしたわけではありません。

 この当時の中国国内は動乱の時代であり、蒋介石による北伐で統一機構は出来ていたものの、主義主張が全く異なる政権が乱立し、国としての統制は全くとれていませんでした。言ってみればこの当時の中国は‘無法地帯‘なのです。

 中央政府には蒋介石汪兆銘(おうちょうめい)を2大指導者とする国民政府でしたが、彼らは日本との直接対決は避けようとしていました。

 少なくても1930年代前半まではそう考えていました。

 というのも、この時、国民政府にとって最大の関心事は最大の政治的ライバルである共産主義勢力ですから。

「先安内、後攘外」

 これは蒋介石の言葉ですが、国内をまず安定させてから、外敵を追い払うという意味です。つまり、国民政府は国内政情の対処を最優先としており、日本どころじゃなかったのです。

 むしろ、蒋介石汪兆銘も日本人の禁欲的で規律を重んじる国民性をほめたたえており、過去に留学経験も持ち、日本に対する敬意と好感を抱いていました。

 そのせいか、国民党内部には親日派も多く、1933年5月31日に締結された塘沽協定では中国側は熱河省満州への併合を認めても日本への敵意が国民党内から噴出することはありませんでした。

 蒋介石満州国の建国に関して「仕方なし」として、容認しました。

 こうして満州事変から国際連盟脱退に至るまでの一連の日中間の紛争は一応、収束しました。

 そして日本は、満州国と中国本土との間に「緩衝地帯」としての親日政権を置きたいと考えており、当面は日本に協力したほうが得策と考えた地元政権の協力もあって、1935年11月に冀東防共自治政府が誕生しました。

 これに対し、国民政府も満州国との緩衝政府として同1935年12月、北京に冀察(きさつ)政務委員会蒋介石の了承のもと、発足されました。

 その委員長には軍人の宋哲元(そうてつげん)が任命されました。これによって国民軍は関東軍の南下を防ごうという意図がありました。

「冀」とは、河北省のこと、「察」とは、チャハル省です。

 こうして塘沽協定以降、日本と中国の関係は和平へと向かう、はずでした。

 そんな日本と中国はなぜ、日中戦争という過酷な道を進んでしまったのでしょうか。

 

 イギリスは通貨という武器を使って近代化を目指す中国に対し強大な影響力を持っていました。恐慌から行き場を失った日本が中国での利権を獲得しようとしてもイギリスに拒まれました。日中戦争とは、専ら、日英問題であったといえるでしょう。

 欧米列強の中でも特に中国の利権に関わりを持っていた国がありました。

 イギリスです。

 日本が軍事力を背景に中国への影響力を強めているのならば、イギリスは「通貨」という経済的な武器を使って中国への影響力を強めていました。

 1935年、中国統一を目指す国民政府は、緊急令を発して貨幣改革を断行しました。
 ‘無法地帯‘の中国では、貨幣制度も近代化されておらず、これが経済発展の妨げになっていました。そこで、無統一に流通していた多種類の銀貨や補助通貨を政府の指定した銀行が発行する「法幣」に統一することで、経済の安定化と国民政府の政治力強化を同時に実現しようと考えたのです。

 実は1933年以降、アメリカの銀買い上げ政策によって銀の国際価格が高騰しており、銀本位制をとる中国から大量の銀が流出し、中国内では深刻なデフレーションとなりました。これに対し、蒋介石は国内の銀を全て買い占め、銀本位制を廃し、替わって法幣を導入する管理通貨制度に移行することにしたのです。

 こうした蒋介石の発表に対し、イギリス政府は即座に法幣導入を全面的に支援するようになりました。当時のイギリスと植民地を含む経済圏にはポンド(スターリング)ブロックが形成されていました。イギリスは中国の通貨をこれにリンクさせることで、イギリスは対中貿易における為替変動のリスクを回避することが出来ました。

 国民政府としても、イギリスが法幣導入の支援は非常に助かりました。

 つまり、法幣の導入は、蒋介石政権を確固たるものにしましたが、それと引き換えに国民政府はイギリスの完全なる従属国となったことを意味していました。
イギリスは満州事変のずっと前から中国に莫大な投資をしていました。

 1936年時点で、満州国を除く中国全土には欧米から約18億ドルの投資が行われていました。その約6割にあたる10億8000万ドルは、イギリスの資金でした。(次はアメリカで2億2000万ドル)

 その中でも最も大きいのが工業基盤への投資で、その金額は3億3000万ドルにもなりました。

 もし、日本と中国が大規模な戦争を起こせば、こうした投資が全て破壊しつくされてしまうため、イギリスは日中戦争の勃発は何としても避けたいと考えていました。

 こうして、国民政府による法幣導入の発表がされてから10日後の1935年11月13日、アメリカとの間で「米中銀協定」が結ばれ、国民政府は買い占めた銀をアメリカに売却することで、為替安定資金を確保しました。

 実は、日本が冀東政権のような親日地方政権の樹立を図った理由には、こうしたイギリスの経済分野での対中進出を阻止するためでもありました。

 日本政府は親日的な国民党の実力者に「銀円の法幣への交換に協力するな」と圧力をかけたり、日本の支配地域での銀貨の輸送を妨害したりしました。

 しかし、こうした日本の動きとは全く逆効果となりました。

 国民党内部で日本に対する不信感や猜疑心を煽る結果となり、最初は日本に協力的だった親日派の中国人も、次第に日本から距離を置くようになりました。

 この時期、中国人の対日感情を悪化させた原因は他にもありました。

 特に不評だったのは、日本側が冀東政権の支配地域で「密輸」や「薬(やく)の密造と販売」を半ば公然と行っていたことでした。

 19世紀半ば、中国はアヘンの密輸に苦しめられ、戦争まで起こされている経験を持っています(アヘン戦争)。しかも、それを仕掛けたのは、中国の大株主であるイギリスです。

 日本が国際連盟脱退を発表してから2か月後の1933年5月に、国民政府は「国内産業を保護するため」との理由で、輸入品に対する関税を引き上げました。

 しかし、これによって日本の対中輸出は大きな打撃を受けていました。

 日本は輸出大国なのだから、輸入品に関税をかけられては大打撃を受けるのは当たり前です。

 それまで日本にとって一番のお客さんだったイギリスもアメリカも保護貿易ブロック経済)を行っており、ただでさえ苦しい状況です。日本が中国大陸を最大のマーケットとして景気回復の希望を見出したのも無理はありません。

 その中国でさえも保護貿易を始めようというのですから、たちまち日本は世界経済から閉め出されてしまいます。

 これによって、一部の貿易商は密輸という手段で対中貿易での利益を得ようとしました。しかし、国民政府の支配下にある地域では監視の目が厳しく大々的に密輸を行うことは事実上不可能でした。

 ところが、冀東政権の地域では親日派の地方幹部が実権を握っていたため、彼らは日本を配慮して、1936年2月以降、一定の手数料をと引き換えに正規の関税よりも低い関税での輸入を認める方針をとりました。

 しかし、こうした日本の国際ルールを破る行為は瞬く間に冀東政権地域から中国全土にひろがりました。

 関税収入を奪われた国民政府は激しく起こりました。

 また国内市場に介入されたことで中国の生産業者も激怒しました。

 再び排日運動が激しくなってきました。

 欧米各国も密輸という日本側のルール破りを激しく非難しました。特にイギリスは国民政府の関税収入を預かる英国系銀行の利益にも直結するため黙ってはいませんでした。

 こうした抗議を受けて日本政府は1936年6月27日、冀東政権を通じた密輸の停止を決定しました。

 しかし、そういった取り決めが通用しないのが、「裏ビジネス」というものです。日本の製薬会社は関東軍と癒着して、現地勢力に懐柔したり、政治工作を行うことで、大量の薬を売りさばいていました。

 中国人の日本に対する敵対心は再過熱しました。

 こうしたことが少しずつ積みあがった結果、中国国内では1936年から1927年にかけて日本人を敵視し、襲撃するテロが頻発するようになりました。

 こうした状況の中、1937年7月7日に北京郊外の盧溝橋という橋の付近で日本と中国の衝突が発生するのでした・・・・。

 

 このように日本と中国の関係悪化の背景にはイギリスが関与していました。恐慌にあえぐ日本は、その解決の道を中国に見出そうとしても、イギリスの強欲ともいえる利権拡大に拒まれ、行き場を失ってしまいました。

 そうして状況から盧溝橋事件をきっかけに日本は日中戦争をはじめてしまった。しかし、中国での戦線が拡大するたびにイギリスは怒りを増していく。

日中戦争とは、専ら、「日英問題」であったといってもよいでしょう。

 

つづく。

最後までよんでいただき、ありがとうございました。

本宮貴大でした。


参考文献
5つの戦争から読みとく 日本近代史       山崎雅弘=著  ダイヤモンド社
負けるはずがなかった! 大東亜戦争       倉山満=著  アスペクト

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著   祥伝社