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【どう違う?】「戦争」と「事変」

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【どう違う?】「戦争」と「事変」」というお話です。

 戦後の日本では、1931年の満州事変から1945年の太平洋戦争終結まで、「15年戦争」と呼んだりします。「事変」と「戦争」はどう違うのでしょうか。
 よく、「事変」とは「戦争の前段階」であったり、戦争ほど大規模ではない「ミニ戦争」のような認識があるようですが、戦争と事変とではその形式が全く異なります。
以下、戦争と事変の違いを表にしました。

戦争 事変
宣戦布告で始まる 宣戦布告を伴わない
講和発効で終了 終了の当てがない
けじめがつけやすい 泥沼化しやすい
他国は中立を守る 中立国は存在しない
戦闘員同士の戦い ゲリラ隊も参戦する

 まず、「戦争」とは、宣戦布告で始まり講和発効で終了する国家間の状態のことを指します。
 他方、「事変」とは、宣戦布告を伴わず終了する当てもない国家間の状態のことを言います。
 つまり、「戦争」とは、戦時と平時の区別がつき、講和をもって終戦とするけじめのつけやすい戦闘であるのに対し、「事変」とは、戦時と平時の区別がつかず、いつ始まって、いつ終了するのかという終戦の目途がつかない泥沼化しやすい戦闘になります。

 次に、「戦争」とは戦闘員同士、すなわち正規の軍人同士の衝突なのに対し、「事変」とは戦闘員以外の戦闘員(ゲリラ隊)も参戦することがあるのが大きな特徴です。
 ゲリラ隊とは、正規の軍人ではない民間人が武装して軍事要員として参戦することですが、油断させて不意を打つ便衣兵だったり、手段を選ばずに攻撃してくるテロリストなどが参戦するため、被害が拡大しやすいです。

 そして、「戦争」の場合、他国は中立の立場でなくてはなりません。
 例えばA国とB国が「戦争」をした場合、第三者であるC国は中立を守らなくてはいけません。そのため、どちらの国にも石油や軍事物資を売ることは出来なくなります。
 ところが「事変」となると、第三者であるC国は中立を守らなくても良くなるため、どちらか一方、若しくは両国ともに軍事物資を売ることが出来てしまいます。

 以上、戦争と事変の違いについて理解できたところで、後半記事では満州事変から日中戦争勃発までの流れをストーリー形式で見てみましょう。
昭和初期、日本は泥沼の戦争に引きずり込まれ、破滅の道を歩むことになるわけですが、実はその原因は「戦争」を「事変」として処理したことが原因だったのです。

満州事変とは、事実上の戦争ですが、パリ不戦条約に調印し、戦争放棄を約束していた日本はこれを「戦争」ではなく、「事変」としました。パリ不戦条約は破っていないと弁明したのです。しかし、これが国際連盟脱退という大失態を招いてしまうのでした・・・。

 1931(昭和6)年9月18日夜、奉天(ほうてん)郊外の柳条湖で、満鉄線路爆破事件(柳条湖事件)が起きると、関東軍はこれを中国側の仕業として発表し、ただちに軍事行動を起こしました。
 当時の関東軍は1万を超える程度であったが、満州の支配者である張学良は、奉天での最初の不意打ちをくらった時には多少の抵抗をしたものの、以降は散発的な抵抗をしただけでした。
 したがって、関東軍奉天長春など南満州の主要都市を次々に占領することが出来ました。

 こうした関東軍の一連の軍事行動を聞いた第二次若槻礼次郎内閣は、すぐさま不拡大方針を声明するも、関東軍はこれを無視し、次々と軍事行動を拡大させ、9月21日には、吉林を占領しました。
 中国側は、こうした関東軍の軍事行動を「侵略行為」として国際連盟に提訴しました。張学良は日本が軍事行動を起こせば、国際問題となるのが、避けられず、戦線は拡大するはずがないと考えて無抵抗主義に徹したのです。
 日本側とすれば、1928年にパリ不戦条約に調印しているてまえ、関東軍の軍事行動を「戦争」とするわけにはいかず、「事変」として処理し、弁明しました。

「ただちに、事態の収拾に尽力致します。」

 幣原喜重郎外務大臣は連盟理事会に事変の不拡大方針を宣言しました。
 国際連盟理事会は、欧米諸国と協調外交を展開する幣原を信用しました。

 そんな中、関東軍は同1931年10月8日、新たに錦州を空襲しました。関東軍は日本政府の制止や国際世論を振り切って、名目だけの出兵理由をつくりあげて、全満州の占領に突き進んだのです。
 幣原の協調外交は関東軍によって葬られたのです。
 関東軍の暴走はその後も止まらず、翌1932年2月までにチチハルハルビンなど満州各州を制圧しました。

「日本は、満州はおろか、中国全土を占領しようと企んでいるのではないか。」
 連盟理事会は初め、この「事変」をごく局地的なものとして楽観的に見ていました。しかし、事変不拡大という日本政府の約束が実行されないため、しだいに日本に対する不信感を強めていきました。
 中国の主権や領土に関しては、1922年2月に開かれたワシントン会議アメリカやイギリス、日本を含めた世界9ヵ国が中国における門戸開放・商工業の機会均等を互いに約束する9ヵ国条約が結ばれています。
 そのため、日本が抜け駆け的に中国の権益を独占することは条約違反になってしまいます。

 そこで、国際連盟は1932年3月、満州問題調査のためにイギリスのリットンを代表とするリットン調査団満州や日本に派遣しました。
 しかし、その翌日、関東軍満州国の建国宣言をしました。元首は天津からひそかに連れ出した清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)で、溥儀は執政として就任した翌日、関東軍司令官宛の書簡に署名させられました。
 同1932年10月、リットン調査団は報告書を発表しました。
 そこには、「満州国」は自発的な民族独立運動の結果、成立したもとする日本の主張を否定したものの、日本の権益は保障すべきと一定の配慮が示されたものでした。
 当時、国際連盟の日本政府代表だった松岡洋右(まつおかようすけ)は1932年12月4日、リットンの妥協案を受け入れて、中国にも多少譲歩することで、問題の幕引きを図るべきとしていました。
 
 そんな時、とんでもない事件が新たに発生してしまいました。

 1933年2月、関東軍熱河省にも軍事行動を拡大してしまったのです(熱河作戦)。
これは執政の溥儀が「熱河はもともと満州国の一部だからここも我が国としてほしい」と関東軍に申し出ていたために起こった事件でした。
 国際連盟は、まだ満州事変や満州国の問題が完全に処理されていないにも関わらず、関東軍が新たに軍事行動を始めたことは、国際連盟に対する侮辱と挑戦であると理解しました。

 同月に開かれた国際連盟総理事会では、満州における日本軍の撤退を勧告した決議案が、42対1(反対は日本だけ)で可決されてしまいました。
 これに失望した全権大使の松岡はただちに退場し、3月12日、日本政府は国際連盟を脱退することを通告しました。
 結局、満州事変は1933年5月の塘沽(たんくー)停戦協定で一応は収束しますが、すでに日本は国際的孤立を深める立場にまで陥ってしまいました。

 これは満州における日本軍の一連の軍事行動を「満州事変」として処理してしまったがために、終了の当てがなく、戦線を拡大させてしまったことが原因であったと考えられます。

 戦争を事変として処理してしまったがために、戦線を泥沼化させてしまったもう一つの例として日中戦争が挙げられます。

 1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件をきっかけに日中は激しい戦闘を繰り広げていきました。
 しかし、第一次近衛文麿内閣はそうした日中間の軍事衝突を当初、「北支事変」と呼んでいました。

 近衛は考えました。
「もし、このまま宣戦布告して正式な戦争状態となれば、アメリカなどの中立国から兵器や軍需物資を売ってもらえなくなる。」
正式な「戦争」になった場合、他国は中立を守らなくてはなりません。したがって、どちらかに、若しくは両国に武器や石油を輸出してはいけないのです。

さらに、近衛は続けました。
「まぁ、統制のとれていない国民軍など、我々の敵ではない。少し威嚇すれ奴らはすぐに屈服するだろう。」
近衛はほんの数か月間の限定的な武力行使で事態は収拾すると考えていました。
こうして宣戦布告を見送った近衛内閣は、翌8月15日、次のような声明を発表しました。
「わが国としては、もはや我慢の限界に達し、支那(中国)軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し、南京政府の反省を促すため、今や断固とした措置をとることをやむを得ない状況にいたった。」
暴戻・・・・残虐非道な行いという意味。)
(膺懲・・・・懲らしめるという意味。)

 つづく。
 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
 本宮貴大でした。それでは。

参考文献
もういちど読む 山川日本近代史 鳴海靖=著 山川出版社
「昭和」を変えた大事件  太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
教科書よりやさしい日本史    石川晶康=著  旺文社
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社