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【日中戦争3】なぜ当時は支那事変と呼ばれたのか【近衛文麿】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日中戦争3】なぜ当時は支那事変と呼ばれたのか【近衛文麿】」というお話です。

 1938年に始まり、1945年の終戦まで続いた日本と中国の戦闘のことを私達は「日中戦争」と呼ばれています。
 実際、学校の授業やテストでは「日中戦争」と解答しなければ「間違い」とされてしまいます。

 しかし、当時は「日中戦争」ではなく、「北支事変」や「支那事変」と呼ばれていました。
 それが戦後に編纂された日本史の中で日中戦争とよばれるようになったのです。

 では、本題に入る前に、「戦争」と「事変」の違いについて確認しておきましょう。

 よく、「事変」とは「戦争」の前段階であったり、戦争ほど大規模ではない「ミニ戦争」のような認識があるようですが、戦争と事変とでは全く異なります。
 以下、戦争と事変の違いを表にしました。

戦争 事変
宣戦布告で始まる 宣戦布告を伴わない
講和発効で終戦 終戦の当てがない
けじめがつけやすい 泥沼化しやすい
戦闘員同士の戦い ゲリラ隊も参戦
他国は中立を守る 中立国は存在しない

 まず、「戦争」とは、宣戦布告で始まり講和発効で終了する国家間の状態のことを指します。
 他方、「事変」とは、宣戦布告を伴わず終了する当てもない国家間の状態のことを言います。

 つまり、「戦争」とは、戦時と平時の区別がつき、講和をもって終戦とするけじめのつけやすい戦闘であるのに対し、「事変」とは、戦時と平時の区別がつかず、いつ始まって、いつ終了するのかという終戦の目途がつかない泥沼化しやすい戦闘になります。

 次に、「戦争」とは戦闘員同士、すなわち正規の軍人同士の衝突なのに対し、「事変」とは戦闘員以外の戦闘員(ゲリラ隊)も参戦することがあるのが大きな特徴です。
 ゲリラ隊とは、正規の軍人ではない民間人が武装して軍事要員として参戦することですが、油断させて不意を打つ便衣兵だったり、手段を選ばずに攻撃してくるテロリストなどが参戦するため、被害が拡大しやすいです。

 そして、「戦争」の場合、他国は中立の立場でなくてはなりません。
 例えばA国とB国が「戦争」をした場合、第三者であるC国は中立を守らなくてはいけません。そのため、どちらの国にも石油などの軍事物資を売ることは出来なくなります。
 ところが「事変」となると、第三者であるC国は中立を守らなくても良くなるため、どちらか一方、若しくは両国にも軍事物資を売ることが出来てしまいます。

 以上、戦争と事変の違いについて解説しましたが、これらの背景知識を踏まえて、日中戦争の拡大を見ていきながら、なぜ当時は支那事変とよばれるにいたったのかについて見ていきたいとおもいます。

 盧溝橋事件が起きた1937(昭和12)年7月当時、北京市街の東にある通州という町に、約400人の日本人が住んでいました。
 通州には日本と中国との緩衝地帯として冀東防共自治政府がつくられていました。そこは親日派の殷汝耕(いんじょこう)に組織させた政権であり、日本は約100人の守備隊を、国民党は第29軍を、さらに冀東防共政府の保安隊3千人が駐留していました。

 ところが、盧溝橋事件から20日余り過ぎた7月28日、冀東防共政権の地域で事件が起きました。
 それまで日本軍に従っていた保安隊と呼ばれる中国人部隊が反旗を翻し、北京近くにいた日本人居留民を襲撃したのです。
 彼らは略奪や強姦を行ったうえ、子供を含む200人以上の日本人(うち約半数は朝鮮人)を残虐な方法で虐殺しました。(通州事件

 日本人は安心したところを「身内」である防共政府の保安隊に襲われたのです。彼らは盧溝橋事件以降、反日姿勢を強める蒋介石の動きを見て、国民党に内応し、攻撃のチャンスを狙っていたようですが、日本人からすれば、裏切り以外の何ものでもありません。
実は、この冀東防共地帯とは日本側が密輸と薬密造の拠点としており、不満を募らせていた保安隊が爆発してしまったからとされています。

この通州での事件は日本本土の新聞で大々的に報じられました。
「鬼畜も及ばぬ残虐」
「百吸血に狂う銃殺傷」
こうした見出しと共に大きく報じられ、日本人の間では中国人に対する敵意と、中国で軍事作戦を行う日本部隊に対する国民的な支持が、さらに高まっていきました。

 こうした背景の中、帝国陸軍は中国側に総攻撃を開始しました。それは北京や天津付近を中心に布陣していた宋哲元ら国民軍を南方に駆逐するためのもので、総攻撃を行った陸軍の支那駐屯兵は増強されて3万人まで達していました。
 この掃討作戦は、日本側の一方的な勝利と共に進展し、7月29日には北京(北平)と天津が完全に日本の支配下にはいりました。
中国軍も抵抗しましたが、約5000人の戦死者を出して撤退していきました。現地部隊では「満州の成功再び」と高らかに叫ばれました。

 それから約10日後の8月9日、通州や北京から遠く離れた上海でも、新たな事件が発生してしまいました。まるで華北での日中衝突に触発されるかのように。
 帝国海軍の大山勇夫中尉が乗る乗用車が中保安隊に襲撃され、運転手ともども殺される事件でした。大山中尉は海軍のキャリア軍人であったため、米内光政海相は大激怒しました。

 すぐさま、日本は中国に謝罪を求めるも、中国は2人が挑発したから応戦したまでだと反論しました。
 こうした中国の対応は火に油を注ぐ結果となりました。

支那の奴らめ、何様のつもりだ。帝国海軍の恐ろしさを思い知らせてくれる。」

 それまで中国戦線は陸軍の問題であり、海軍は無関心でした。しかし、この事件がきっかけで米内海相は、軍令部に出兵要請を下し、8月13日には海軍陸戦隊が上海に上陸し、日中両軍は衝突しました(第二次上海事変)。

 盧溝橋事件からはじまった日中の衝突は、わずか2カ月の間に北京、天津、そして上海にまで飛び火してしまったのです。

 第二次上海事変のことは、日本本土の新聞各紙によってまたも大々的に報道されました。
 その煽りを受けた国民達は中国との戦争強硬を叫びました。

「もはや全面戦争だ。今すぐ中国に宣戦布告しろ。」

 こうした国民の熱狂を受け、8月14日、近衛内閣は臨時閣議を開いて、中国に宣戦布告するべきかどうか議論をしました。
「世論がこれほど熱狂しているのだ。ここで事態を収束させても国民は納得しないであろう。」

 しかし、戦争となれば しかし、それを「戦争」とするかどうかには躊躇しました。
 近衛内閣は当初、盧溝橋事件以降の一連の日中間との軍事衝突を日本政府は「北支事変」と呼んでいました。
 近衛首相は考えます。
「もし、このまま宣戦布告して正式な戦争状態となれば、アメリカなどの中立国から兵器や軍需物資を売ってもらえなくなる。」
先述とおり、正式な戦争になった場合、他国は中立を守らなくてはなりません。したがって、どちらかに、若しくは両国に武器や石油を輸出してはいけないのです。

 さらに、近衛は続けました。
「まぁ、統制のとれていない国民軍など、我々の敵ではない。少し威嚇すれ奴らはすぐに屈服するだろう。」
 近衛はほんの数か月間の限定的な武力行使で事態は収拾すると考えていました。

 こうして宣戦布告を見送った近衛内閣は、翌8月15日、次のような声明を発表しました。
「わが国としては、もはや我慢の限界に達し、支那(中国)軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し、南京政府の反省を促すため、今や断固とした措置をとることをやむを得ない状況にいたった。」
暴戻・・・・残虐非道な行いという意味。)
(膺懲・・・・懲らしめるという意味。)

 この声明にある「暴戻支那の膺懲」というくだりは、やがて「暴支膺懲」という4文字のスローガンが掲げられ、日本軍の中国に対する武力行使を正当化するために、日本国民の間でも流行語となりました。
 そして9月2日、「北支事変」は「支那事変」と改名され、街中には国債購入を促すポスターが貼られるようになりました。

 現地軍には、この勢いのまま首都・南京も制圧してしまおうという考えが強かった。(南京・・・当時、中華民国は南京を首都に置いていました。)

 しかし、東京の陸軍中央は戦闘地域を上海地域に限定し、その上で南京政府と交渉する予定でした。
 しかし、東京の軍中央と現地軍との意思疎通が十分にできない中、現地軍の第10軍が突然、南京を目指して西に進みはじめてしまいました。

 こうした暴走によって日中の戦火はいよいよ歯止めがかからなくなってしまいした。

 日中戦争とは泥沼化した過酷な戦争でありました。それは近衛首相が「事変」という選択をしてしまったからことが大きな要因ですが、ここでもやはり資源に恵まれない日本の弱点が露呈した結果であることがわかりました。
 当時、国家としての統制がとれていない中華民国を懲らしめ、短期間で終結させることが出来るという楽観的な見通しに囚われていたことも事変として片づけてしまった原因でした。
つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。

参考文献
子供たちに伝えたい 日本の戦争   皿木喜久=著      産経新聞出版
5つの戦争から読みとく日本近現代史 山崎雅弘=著      ダイヤモンド社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史  中村達彦=著      アルファポリス
「昭和」を変えた大事件       太平洋戦争研究会=編著 世界文化社