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【ノモンハン事件】実は日本軍の圧勝だった!?

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【ノモンハン事件】実は日本軍の圧勝だった!?」というお話です。

 ノモンハン事件をご存知でしょうか。
 1929年に起きた満州国とモンゴルの国境線をめぐる紛争です。事件という言葉から、ちょっとした揉め事なのかと思いきや、凄まじい「戦争」なのです。
 その当時国は4ヵ国。相手はソ連とその傀儡国家であるモンゴル人民協和国。対するは日本とその傀儡政権である満州国。両者とも利害関係が一致する連合軍としての体裁ですが、モンゴルも満州国も‘弱小国‘なので、事実上、ソ連陸軍と日本の関東軍の戦いになりました。

 しかし、結果的に、日本は大惨敗し、国境もソ連・モンゴル側の主張を呑まざるを得ず、帝国陸軍のあいだでは、「辺境での国境紛争を無駄に拡大させ、多くの兵力や戦費を無駄にしてしまった悪名高い出来事」として伝えられました。

 そのせいか、現代の日本史の教科書でも事件名とソ連軍という相手国の名前くらいしか出てこず、置き去りにされているような印象を受けます。

 しかし、ソ連解体後、文書公開された‘新資料‘から実はソ連軍も大きな痛手を負っていたことがわかりました。ソ連は自分達がどれくらい被害を被ったのかをずっと隠し通していたことです。確かに、本当にソ連が圧勝していたならば、その勢いで満州に雪崩れ込んできたはずです。それがかったということは、日本がそんなに負けておらず、むしろソ連に「日本恐ろし」と身震いさせたということです。現にソ連はこの「戦争」以降、1945年8月まで日本に攻め入ることが出来なくなっています。

 ということで、今回はノモンハン事件について解説していきます。

ノモンハン事件とは、辺境の国境紛争が拡大した本格的な「戦争」で、ソ連側の20万人の大兵力に対し、日本軍はわずか2万人程度で立ち向かいました。結果、日本の惨敗と同時にソ連も大きな損害を出してしまいました。戦後、モンゴル・ソ連軍を指揮したジューコフ将軍は会見で「もう、日本人とは戦いたくない・・・」と話したそうです。

まず、以下の表を見てください。

日ソ戦力・損害比較表

日本・満州国 ソ連・モンゴル
指揮官 小松原道太郎 ゲオルギー・ジューコフ
総合投入兵力(人) 20,000~30,000 57,000~230,000
死傷者数(人) 17,000~ 26,000~
航空機損害(機) 158~ 252~1,260
戦車・装甲車損害(両) 29~ 397~800

注:テレビではいまだに言えない昭和・明治の真実(熊谷充晃=著、遊タイム出版)より抜粋。

 表を見ると、まず、特筆すべきは、ソ連・モンゴル軍の20万人を超える大兵力に対し、日本軍はわずか1個師団(2万人程度)で立ち向かったことです。
 結果的に、日本軍は1万7千人の死傷者を出す大惨敗を期しているわけですが、ソ連側の被害も相当なものだったことは、戦車や戦闘機の被害を見れば、わかると思います。
 つまり、ノモンハン事件とは、日本の大惨敗というよりも、日ソ両軍の大敗というのが、結論だと思います。

 これはソ連解体後、文書公開されてはじめてわかった事実です。
 実際の戦場では、どっちが勝っているかなんてわからないですし、現場では「戦争は負けたと感じた者が、負ける。」の論法から最終的な結末を知ることなど出来ませんでした。
 しかし、結果としては1個師団の日本軍が惨敗したために、関東軍ソ連・モンゴル軍が主張する国境線を呑まざるを得なかったのです。

 では、ノモンハン事件はいかにして起きたのでしょうか。
 現在、モンゴル国とは、中国とロシアの間に位置する独立国ですが、モンゴルの国境の南側と東側の縁をとりまくようにして、中国の内蒙古自治区があります。ここは外蒙古と呼ばれていたモンゴル同様広大な草原と大地が広がり、シベリアから移住してきたモンゴル族が遊牧生活を送っていました。
 このうち、外蒙古は1921(大正10)年、中国の支配を免れ、ソ連の支援によって独立を果たし、モンゴル人民共和国として独立を果たしました。
モンゴル人民共和国は1992年に解散し、モンゴル国となりました。)
 一方、1932年、内蒙古の北東部は日本の斡旋によって満州国として誕生しました。(満州国は国として認められていませんでした。)
こうしてモンゴルと満州の2国間のあいだには新たな国境が接するようになったわけですが、そこはもともと、外蒙古のハルハ族と内蒙古のバルガ族の勢力圏の堺目であいまいな国境でした。

 ノモンハンには、日本軍(関東軍)が旅の安全を祈って道を示す塚「オボー」のひとつ、「ノモンハーニー・ブルド・オボー」がありました。関東軍はそこを基準に20キロ西にあるハルハ河が満州・モンゴルの国境であると認識していました。
しかし、オボーは他にもいたるところに点在しており、ソ連とモンゴルは「ブルド・オボー」を含む複数のオボーを結んだラインが国境線だと認識していました。
 つまり、日本の想定よりも満州側に東へ20キロばかり出っ張ったラインがソ連・モンゴルが考える国境線だったのです。
 こんな曖昧な国境線では、いつか国際紛争が起きるのは時間の問題とも言えました。

 事件は、1939(昭和14)年5月11日、ハルハ河の東のノモンハン付近で起こりました。
 しかし、その事件の発端となった出来事も両勢力で認識が違います。
 日本側は「ハルハ河東岸でモンゴル国境監視兵がいきなり攻撃を仕掛けてきた」と報告。
 対するモンゴル側は「領土内で国境の監視をしていたら、満州側が自国内に踏み込んだため、注意しただけだ。」と報告。
 つまり、モンゴル、満州双方とも相手が自国領を侵したとして戦闘が始まったのです。

 知らせを受けた関東軍は北西200キロのハイラルに駐屯していた第23師団を「捜索隊」として派遣させました。「捜索隊」は15日にはモンゴル軍を包囲・攻撃し、ハルハ河対岸にまで追いやりました。
 戦闘が起きたという情報に触れた東京の参謀本部も、「ほうっておけば、ありきたりな国境紛争で終わるだろう」程度にしか考えていませんでした。
満州国としても、国境紛争だから満州国軍だけで対処したいという要望を関東軍に申し込んでいるくらいでした。

 事件は、一件落着かと思われました。

 しかし、「捜索隊」が引き揚げた後、モンゴル軍にソ連軍が加わった大部隊がハルハ河を超えて攻め込んできました。関東軍はすぐさま、23個師団を編成して2千人の部隊で迎え撃つも、多勢に無勢、約半数が戦死するなどの被害を受けた師団は撤退しました。

 その後、関東軍内部では、積極論と消極論が対立しました。
「再度、モンゴル・ソ連軍を攻撃するのだ。」
「待て、ソ連軍は手ごわい。しばらく様子を見よう。」
 関東軍は、東京の陸軍参謀本部に決断を仰ぎました。
 参謀本部は答えました。
「そんな辺境の国際紛争に兵力や戦費を投入できる余裕は、本来ないはずだ。」
 実はこの頃、日中戦争支那事変)が泥沼化している最中であり、軍中央では「いたずらに兵力を分散するべきではない」という意見が多数で、「反撃は時期尚早」として消極論の方針を示したのです。

 しかし、積極論を唱える辻政信参謀は言いました。
「我が関東軍の最大の義務は、満州国とそこに住む日本人を守ることではないのか。このままソ連軍の進撃を許せば、満州国の権益をすべて失うことになるかも知れないのだぞ。」
 結局、辻正信ら積極論が採用され、航空機や戦車隊を使っての攻撃準備が開始されました。
 関東軍はまたしても軍中央の意向を無視したのです。

 同1939(昭和14)年6月27日、関東軍は100機以上の航空機でモンゴル領のタムザク・ボクラという町を攻撃しました。
 ソ連側もその報復として最新鋭の航空機部隊で満州国内の基地を爆撃しました。
 両軍による派手な空中戦が繰り広げられました。
 しかし、戦況は日本側の優勢でした。具体的にはソ連が日本の航空機を1機撃墜するあいだに、日本はソ連の航空機を10機撃墜している状況です。

 7月2日~3日には、陸上部隊がハルハ河に架橋し、渡河、モンゴル側に攻め入る作戦に出ました。この作戦では、関東軍の「虎の子」と言われた戦車部隊も動員、渡河作戦を支援するも、ソ連軍の圧倒的多数の戦車部隊に阻まれ、大きな戦果を挙げられませんでした。
 日本側には兵員や物資輸送の利便性からトラックの使用はありましたが、戦車や機甲車の本格的な投入はされていません。ノモンハンのような砂漠地帯では、トラックの方が有利だと判断したという説が有力ですが、戦車は日中戦争のような陸戦には欠かせず、ノモンハンにまで回す余裕がなかったのではないでしょうか。


 7月下旬には関東軍は重砲部隊を投入し、1日に1万4千発の砲弾を放つなど総攻撃を仕掛けるも、しかし、ソ連軍の圧倒的な戦車の数に反撃され、結局は歩兵隊が塹壕にこもり、膠着状態が続くことになってしまいました。
 もともとソ連軍とは、後の「独ソ戦」でもいえることですが、自軍の損害を度外視して大量の兵力を投入する傾向が強く、戦術で勝てないならば、数で勝負し、結果として勝てれば良いという戦法がうかがえる。

 8月に入ると、膠着状態が続く戦況にしびれを切らしたソ連軍の指揮官・ゲオルギー・ジューコフ将軍は秘密裏にシベリア鉄道のボルジャ(ソ連領)から、トラックで兵員5万7千人、戦車約500両という大部隊を投入、8月20日、総攻撃をしかけました。
 この兵力結集に気づかなかった関東軍は敗走するしかなく、モンゴル・ソ連は自らが主張する国境線をほぼ回復、9月15日、モスクワで日ソ両国による停戦協定が結ばれるに至りました。
 このノモンハン事件は戦前昭和の大きな転機となりました。戦争ではソ連に勝つことが出来ないと悟った日本は北進を諦め、南進へと舵を切ったし、対するソ連軍も、「日本恐ろし」として1945年8月まで日本に攻めてこれなくなってしまいました。


 先述のとおり、このノモンハンでの軍事衝突は「事件」ではなく、本格的な「戦争」でした。
結局、日本は9千人近い戦死・不明者、8千人あまりの戦傷者を出し、対するソ連・モンゴル側も合わせて2万人以上の死傷者をだしてしまいました。

 この戦いは正式な宣戦布告もなく、日本では「ノモンハン事件」と呼ばれているが、ソ連では主要戦闘地域となった地名から「ハルハ河の戦闘」と呼ばれています。モンゴルでは自国領が主戦場となったことが原因なのか「ハルハ河の戦争」と呼ぶのが一般的で、唯一、モンゴルのみが「戦争であった」と意識しています。

 日本では戦後、ノモンハン事件とは、として伝えられました。
一方で、ソ連でもこの戦いで日本人の恐ろしさを身を持って体験し、太平洋戦争終結後、指揮官のジューコフは会見で「今までで一番辛かった戦闘は何か」と問われ、と答えたそうです。
「最も辛かった戦いは、ハルハ河・・・・もう日本人とは戦いたくない。」
 クルスクの戦いやスターリングラードの戦いと予想していた報道陣は、驚愕したといいます。
 なんでもソ連軍は最新鋭の戦車で攻めてきているというのに、日本軍はまともな機甲車もなく、ピアノ線と火炎瓶を持った歩兵隊が立ち向かって来たそうです。
「日本人とは、一体どんな民族なのだろう・・・・」

 今回紹介したノモンハン事件は、結果的に日本軍の全滅によって停戦協定が結ばれたわけですが、総合評価では「日本惨敗」ではなく、「痛み分け」、それどころか「戦術的には日本が勝利した」と表現しても間違いないでしょう。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。

参考文献
テレビではいまだに言えない昭和・明治の「真実」 熊谷充晃=著 遊タイム出版
昭和史 上 1926~1945 中村隆英=著  東洋経済新報社
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
負けるはずがなかった大東亜戦争 倉山満=著  アスペクト