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【日中戦争5】なぜ日本は日中戦争を交渉によって解決できなかったのか【近衛文麿】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【日中戦争5】なぜ日本は日中戦争を交渉によって解決できなかったのか【近衛文麿】」というお話です。

 

 日中戦争といえば、1937年に勃発した泥沼化した過酷な戦争で、当時の日本の国力を大きく疲弊させてしまった‘悪名高い‘戦争として知られています。

 結局、日中戦争は1945年の終戦まで続いてしまいした。

 なぜ日中両国は戦争を解決できず、愚かしくも8年間も続けてしまったのでしょうか。
 もちろん、当時の日本も中国もこれ以上戦争を続けたいなんて思っていませんでした。
 その証拠に、後にトラウトマン工作と呼ばれる和平交渉の機会を作っています。日本も中国も何とか和平交渉にこぎつけ、事態を収拾させようとしていたのです。
ということで、今回記事では、なぜ日本は日中戦争を交渉によって解決できなかったのかについて見ていきたいと思います。

 

 膠着状態だった上海での一戦も、ようやく日本軍の勝利で終わった。
 しかし、その代償は非常に大きいものだった。
 日本は戦死者だけでも1万人を超えてしまい、膨らむ一方の戦費に国力を疲弊させていました。

 支那との戦線拡大は今後も続くと予想される。
 敗走した国民政府は依然として日本との戦争を続ける姿勢を見せているからだ。
 中国との戦争をこのまま2年、3年と続けてしまうのか。
 それは国益上、好ましくない。
そういう意見は近衛内閣だけでなく、陸軍参謀本部でもありました。
「現場の悲鳴が聞こえてくる。」
蒋介石は直接的に我が国とは交渉をしないだろう。両国の関係はそれくらい悪化している。」
近衛内閣は対応を迫れました。
こうなったら、日中双方にかわって和平交渉(仲介)をしてくれる大国を探さなくてはいけません。

 

 イギリスはどうか。
 イギリスは日中戦争を何とか回避させたいと思っていました。
 すでにイギリスは中国に莫大な投資をしているし、その工業基盤が日中の戦争によって破壊しつくされてしまってはたまったものではありません。
 首相のネヴィル・チェンバレンは、日本側に何度も申し出ています。
「我が国は仲介役をする用意が出来ている。日英同盟復活・・・・まではいかなくても不可侵条約だけでも結んでおくべくではないか。」
 しかし、日本陸軍は、中国における圧倒的な権益を持つイギリスは中国関連の問題において、中立ではなく「中国寄り」だとみなしており、不信感を募らせていました。
 それに、日英同盟を破棄された過去もあるため、あまり信用できない。
こうした陸軍の意見に押された近衛内閣もイギリスに和平の仲介を頼むことはしませんでした。

 

 アメリカはどうか。
 明治時代後半までは日本とアメリカは友好関係にありました。
 しかし、そんなアメリカがここにきて中国側に寝返った。もはや確信犯のレベル。
 蒋介石が中々降伏しないのも、コイツが裏で蒋援物資を送っているから。
 アメリカの策略はこうです。
 蒋介石率いる国民党に物的支援をすることで恩を売り、傀儡化させる。そして日本と戦争をさせることで国力を疲弊させ、‘そのとき‘が来たら、中国権益をごっそりと入手してしまおうというのです。

 建前では中立国の立場をとっていても、本心では日中の衝突に大喜びだ。
かといって、日本としては石油が欲しいので、アメリカとの関係は悪化させたくはない。
 一方のアメリカも1920年代の恐慌の後遺症からまだ立ち直っておらず、「お得意さん」である日本との貿易を続けたいと思っていました。
 日本とアメリカは互いに中国権益を争うライバルであると同時に、経済的には相互に依存し合うパートナーだったのです。
 いずれにしても、仲介を頼めるような奴じゃない。

 

 北の大国・ソ連はどうか。
 こいつはもう論外だ。日本にとっては明治以来、一番の仮想敵国で米英以上に厄介な存在だ。
 スターリンは領土を拡大するためなら手段を選ばない。チャンスとなれば、見境なく侵攻してくる。
 日中戦争によって日本が国力を疲弊させていることを知れば、すぐにでも攻めてくるだろう。
 一方で、スターリン満州国が誕生してからの日本軍への警戒を一段と強めていました。満州からシベリアや沿海州へと攻め込まれるのを恐れていたのです。
 したがって、ソ連も日本と中国が戦争してくれるのを喜んでおり、それを発展させれば、日米開戦だってありうる。
「海の向こうから高笑いが聞こえてくる」とはこのことです。

 この後、スターリンは日本の疲弊をチャンスとみて、満州の国境を挑発します。それがきっかけとなり、ソ連は日本と軍事衝突をしました。(ノモンハン事件

 

 こうした状況の中、近衛政権が仲介役として選んだのは、ドイツでした。
 ナチスドイツとは1936年に防共協定を締結して友好を深めています。
 ドイツも武器の輸出や鉱山資源の購入で中国と交流している。
 支那事変の終結には積極的に動いてくれると予想される。

 ドイツ大使のトラウトマンは日中双方に和平交渉を働いていました。

 ドイツとしても日中両国に恩を売ることで、ドイツの国際的心証を良くしようという目論見と、ドイツにとっても仮想敵国であるソ連を日本が東側から牽制してくれる存在として期待していました。
 1937年11月2日、近衛は中国側に提示する「和平の条件」をドイツの駐日大使ディルクセンに伝えました。
近衛の提示した「和平の条件」は以下の通りです。
華北の行政権は南京(国民)政府に返す」
要するにこれは、満州事変以降、日本が獲得した権益を全て放棄するということで、日本側としてはこれ以上ないほど寛大な譲歩でした。近衛としては何としても日中戦争を収拾させたかったのでしょう。

この内容はディルクセンからすぐさま駐華大使トラウトマンに伝えられ、11月6日、トラウトマンは蒋介石と面会し、日本の条件を伝えました。
しかし、蒋介石は言いました。
「我が国と日本は激しい戦争状態にあるのだぞ。そんな状況下で調停交渉など成功するはずがない。まずは停戦が先決だろう。」
蒋介石はまず、停戦を求めました。
しかし、上海を陥落させた日本軍は進撃をやめず、南京に向かってしまっている。
これに対し、蒋介石も徹底抗戦の意思を固めている。
このままでは交渉は頓挫してしまう。
そんな時、今度は蒋介石の側から「和平の条件」が提示されました。
蒋介石の提示した「和平の条件」は以下の通りです。
「もし、日本側が中国の領土保全を約束するなら、先の条件で和平を受け入れても良い。」
これが日中戦争を交渉で解決できたかもしれない最大のチャンスでした。トラウトマンはすぐに、この内容をディルクセンに伝え、日本政府の決断を仰ぎました。
しかし、事態は思わぬ展開となってしまいました。
日本軍が1937年12月22日付で首都・南京を陥落させたという知らせが入ったのだ。
「情勢は我が国に有利になった。」
近衛内閣はすっかり強気になり、新たな和平案をディルクセンに伝えました。
それは「華北の行政権を南京政府に返す」だった前案から「華北を特殊地域化する」と修正されたものでした。
「特殊地域化」とは、華北満州国のような傀儡国家を新たにつくることですが、つまり前案の「返還」とは180度違う強硬姿勢でした。
「首都である南京を陥落させたのだから、蒋介石もこの条件を受け入れるであろう」
近衛はそんな期待を持っていました。
近衛はこの条件に対する回答期限を翌1938年1月15日としました。
しかし、蒋介石はこの和平案で妥協するはずもなく、明確な回答もしませんでした。
近衛内閣はこれを引き延ばし工作と判断し、翌1938年1月16日、近衛の名で声明が発表されました。
「帝国政府は南京攻略後、中国国民政府に反省の最後の機会を与えたが、みだりに抗戦を策している」
そのうえで、こう続けました。
「爾後、国民政府を対手(相手)とせず」
この捨てセリフのような声明は第一次近衛声明と言われており、近衛内閣は今後、国民政府との交渉を一切打ち切ると決断したのです。
この声明を決めた15日の政府と大本営の連絡会議では、大本営側の陸軍参謀本部は交渉の継続を主張していました。
しかし、近衛をはじめ政府側がそれを断交で押し切ったのでした。
これによりトラウトマン工作は水泡となり、近衛は自ら日中戦争終結の機会を絶ってしまうことになりました。

なぜ、日本は日中戦争を交渉で解決することが出来なかったのでしょうか。
日本の外交能力の低さは今も昔も変わっていませんが、その原因として考えられるのは、自国と相手国の関係性を客観的・相対的に分析する力が欠如しており、日本中心の主観的・絶対的な視点で他国の状況を見ていることにあります。
「かつての日本は諸外国とは比べ物にならないくらい優れた国だったのだ」
江戸時代に本居宣長によって大成された国学によって、そんな認識が日本人のあいだに広がりました。
この国学が水戸学と合体して尊王攘夷という思想となり、明治維新大義名分となりました。それが昭和時代になって国体明徴運動を経て、「日本は神の国である」という極端な自国中心主義的な考えになってしまいました。
こうした態度は特に中国に対して顕著です。
先進諸国である欧米に対しては幾分、譲歩する構えを見せているものの、「文明未発達」で「無法地帯」である当時の中国に対してはやけに強気な態度で接します。
日清戦争以来、日本は中国をどこか見下すような態度をとっているのがうかがえます。
これは現代の日本人にも言えるでしょう。言われてみれば、私達は中国人をどこか見下しているようなところがありませんか。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社