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【陸軍の快進撃】東条英機の戦争責任を考える

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【陸軍の快進撃】東条英機の戦争責任を考える」というお話です。

 東条英機とは、戦後、A級戦犯として絞首刑に処せられた人物ですが、極東国際軍事裁判東京裁判)で、東条が昭和天皇に戦争責任をなすりつけなかったことを高く評価しているのか、ネットでは東条を「英雄」だとか「愛国者」などのコメントが散見されます。
 しかし、残念ながら東条自身は戦争責任からは逃れられず、「英雄」でもなければ「愛国者」でもありません。

 今回はその理由について考えてみます。
 さらに、これまで帝国海軍にばかりスポットを当ててきましたが、今回は帝国陸軍にスポットを当てたいと思います。

 ということで、今回は陸軍の快進撃を見ていきながら、東条英機の戦争責任について考えてみます。

帝国陸軍の快進撃によって、開戦からわずか3か月の間にマレー、蘭印、ビルマと次々に攻略し、念願の石油地帯も確保しました。しかし、首相兼陸軍大臣東条英機は「ここで和平を」と進言した軍務局長の武藤章(むとうあきら)をフィリピンに左遷してしまうのでした。東条英機は戦争の具体的な終わらせ方を考えていなかったのです。

 海軍が真珠湾攻撃で大きな戦果を上げている中、陸軍の快進撃もそれに勝るとも劣らない勢いでした。

 そもそも、日本が大東亜戦争を始めた最大の理由は「自存自衛」であり、もっと言うと「南方の石油地帯を確保すること」でした。
 したがって、この南方作戦は大東亜戦争の最大の目的です。
 真珠湾攻撃が単なる「博打(ばくち)」ならば、この作戦は「本命の戦い」です。

 陸軍は南方攻略にあたり、作戦部隊の編制を行いました。
 まず、南方方面の総司令官は寺内寿一(てらうちひさいち)大将。
まず、イギリス領マレー・シンガポール攻略の司令官は山下奉文(やましたともゆき)中将。
また、アメリカ領フィリピン攻略の司令官は本間雅晴(ほんままさはる)中将。
さらに、蘭印(オランダ領インドシナ)攻略の司令官は今村均(いまむらひとし)中将。
そして、イギリス領ビルマ攻略の司令官は飯田祥二朗(いいだしょうじろう)中将となりました。

「ヒノデ(開戦日)ハヤマダカ(12月8日)トス」

 この暗号電文が東京の参謀本部から発せられたのは、1941(昭和16)年12月3日のことでした。
 これを受けた南方方面司令官及び各方面の司令官は作戦を開始しました。

 山下奉文中将率いるマレー・シンガポール攻略部隊はマレー半島上陸後、イギリス軍はマレー半島はジャングルが生い茂り、戦車も通れないため、日本軍は海から来ると思っていました。そしてロイヤルネイビー(英国海軍)の誇りである不沈艦「プリンス・オブ・ウェールズ」が置いてあります。
 これで防備は万全と考えていました。
 しかし、日本兵は現地で調達した自転車に乗って、「銀輪部隊」としてマレーを驀進し、イギリス軍によって破壊された橋も工兵によって素早く建設され、中には、蛭(ひる)だらけの川や沼の中に兵士が入り、「人間柱」を作って橋を架けたこともあったそうです。

 イギリス軍と合計95回の戦闘を行いながら、わずか55日間でシンガポールを臨むジョホール・バルに到着。
 その距離およそ1100㎞。東京―下関間を、1日およそ2回の戦闘を繰り広げながら、55日で突破したのです。
 1日の移動距離は平均20㎞ですが、これを敵との戦闘を交えながら進むのですから相当な労力を要したはずです。

 猛将として知られる彼は写真を見てもわかる通り、おっかない顔をしています。「イエスかノーか」と迫ることで、イギリス軍は降伏。
 難攻不落と呼ばれたシンガポールは55日で攻略されたのでした。


 フィリピン方面では本間雅晴中将率いる攻略部隊が同1941(昭和16)年12月23日にフィリピンのルソン島・リンガエン湾に上陸し、翌1942(昭和17)年1月2日にマニラを占領しました。
 しかし、バターン半島に逃げ込んだアメリカ軍はマニラ湾口にあるコレヒドール要塞を中心に反攻し、日本軍はかなり苦戦を強いられます。
 一方のアメリカ軍も追いつめられており、コレヒドール要塞には1カ月分の食糧しかなく、1万5000人のアメリカ兵と6万5000人のフィリピン兵の間で対立が起き、内部分裂が起こるまでになりました。
 事態を憂慮したルーズベルト大統領は、現地の司令官に「脱出せよ」と命じます。
こうして部下を捨てて、夜陰に紛れ、オーストラリアに向けて脱出した司令官の名前をダグラス・マッカーサーと言います。
 彼は悔しそうに「l shall return(必ず戻ってくる)」というセリフを残し、受けた屈辱を絶対に晴らすことを約束しました。しかし、司令官に見捨てられたことで士気が落ちた米軍とフィリピン軍は間もなく降伏。コレヒドール要塞も陥落し、日本軍のフィリピン攻略は完了しました。

 

 蘭印(オランダ領インドシナ)とは現在のインドネシアです。ここは東南アジア最大の油田地域であり、まさに日本が最も攻略するべき地域でした。
 オランダは1940年5月の時点でドイツに降伏していますが、石油地帯の蘭印は、いまだオランダの統治下に置かれていました。
 インドネシアの広さはヨーロッパ大陸に匹敵し、日本からはおよそ5000㎞も離れています。もし連合国軍がここに拠点を築けば、攻略は不可能になってしまいます。さらに、日本軍が進撃して敵が「日本には勝てない」と分かれば、石油施設を破壊してしまうのも目に見えていました。
 したがって、蘭印攻略はマレー・シンガポール作戦以上にスピード攻略が求められる作戦でした。
 そこで実行されたのが落下傘部隊(パラシュート部隊)です。

「パラシュートで敵中枢に侵入し、施設破壊の時間を与えずに一気に攻略する」

 こうして陸軍落下傘部隊はスマトラ島のバレンバンに降下。すぐに地上部隊も突入し、飛行場やガソリンタンクなどの製油施設をほぼ無傷で確保することに成功しました。海軍もスリバヤ沖海戦バタビア沖海戦などに勝利し、攻略作戦を有利に進めていきました。
 そして今村均率いる作戦部隊がジャワ島のバンドンを攻略したことで作戦は終了。オランダが300年間支配したインドネシアを日本軍はわずか92日という電撃的な速さで占領したのでした。
 これを可能にしたのは、オランダからの圧政に苦しむインドネシア人の積極的な協力にありました。インドネシア人は日本軍を「空から救世主がやってきた」として希望を抱いていたのです。

 

 ビルマとは現在のミャンマーのことですが、19世紀以来、イギリスが支配していましたが、実はこの作戦、開戦前からすでに行われていたものでした。
 陸軍には南方の資源確保以外に、もう一つ目的がありました。
 それは「援蒋ルート」の遮断です。
 この時すでに、日中戦争は4年半が経過しており、いまだに蒋介石が屈しないのは英米の支援があるからだと陸軍は考えていました。その援助物資はビルマのラングーンから陸揚げされ、マンダレー、ラシオと北上し、中国の昆明に運ばれていました。陸軍はビルマを攻略すれば、こうした中国への輸送ルートを完全に絶ち切れると考えました。
陸軍は現地の反英運動を利用して、占領をよりスムーズに行う計画を立てました。開戦前の1940年、陸軍は反英運動を展開していたアウン・サンらに軍事的指導を行い、武装蜂起させる計画を立てました。
 これがビルマ独立義勇軍となり、日本軍とともにイギリスと戦い、その結果、日本軍は3月8日にラングーンの占領に成功。その勢いに乗じて5月18日にはビルマ全土を占領し、念願だった援蒋ルートの遮断にも成功しました。
(しかし、英米はインドからヒマラヤ上空を超えて、昆明への空輸を始めたため、完全な「援蒋ルート」遮断とはなりませんでした。)

 

 以上が陸軍の快進撃ですが、どうでしょう。

 1942年2月にシンガポールが陥落し、3月までには蘭印、南部ビルマが攻略、5月にはフィリピンも陥落しました。
オランダの石油地帯が手に入ったということは、当初の戦争目的は達成されたことになりました。

 日本の戦争目的は一応、達成されました。

 軍務局長の武藤章は2月のシンガポール陥落の時点で、首相・東条英機に進言しました。

「東条殿、今こそ和平の好機です。」

 しかし、これを受けた東条は何を血迷ったのか武藤をフィリピンに左遷してしまいました。

「せっかくここまでみんなが頑張ってくれたのに、なぜそんなことを言うのだ。」

 ということなのでしょうか。

 しかし、戦争は勝っている時に終結させなければ意味がありません。

 東条は、この戦争の終わらせ方を考えていなかったのです。

 歴史に「もし○○だったら・・」は禁句ですが、もし、この時点で和平交渉や講和会議など何かしらの手を打っていれば、大東亜戦争は日本の勝利に終わっていたかも知れません。

 では、和平プランはなかったのかといえば、そんなことはありません。
「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」が当時の和平プランらしきものですが、そこには「日本が中国を屈服させ、さらにドイツ・イタリアと協力してイギリスを降伏させれば、アメリカも戦意を失う。」という内容が記されていました。
 長期戦でアメリカに勝てないことがわかっているから、戦意喪失というカタチで戦争を終わらせる。しかし、イギリスを降せば、アメリカも戦意を喪失することに客観的な根拠がありません。

 連合艦隊司令長官山本五十六は「かつての南北戦争アメリカは100万人の犠牲者が出た時点で戦意を喪失し、戦争を辞めた。」と言っていました。

 では、その100万人のダメージをどのように与えるのか。
 決戦をいつ、どこで、どのように行うのか。
 決戦とはその戦いに勝って、すぐに和平に持ち込む戦いのことで、日露戦争のときには、日本海海戦ポーツマス条約をほぼ同時に行いました。

 帝国海軍は40年近く、フィリピンを占領して、アメリカ軍をおびき出し、それを迎え撃つカタチで艦隊決戦に持ち込むことを教義としてきました。
それを変えて、いきなりハワイ奇襲作戦という派手はことをやり、アメリカは戦意を喪失するどころか、やたらと好戦的になってしまいました。

 今後、対米戦をどのように進めるのか。東条は全く見当がついていません。
 東条は首相に就任してわずか一か月後に、対米開戦に踏み切りました。日本は石油を全面的に絶たれてしまっていたので、それは仕方がなかった面もあるでしょう。しかし、具体的な和平プランも考えずに、戦争を続けてしまうなら話は別です。
この一事をもって、東条は戦争責任からは逃れられず、残念ながらA級戦犯です。

 陸軍は親ドイツ派として有名ですが、特に東条はドイツと同盟を結ぶことに切望していました。
 ドイツはヨーロッパ戦線において「ゲルマン民族統一国家の樹立」を目標として掲げており、そんなドイツにならい、日本も当初の目的だった「自存自衛」から「大東亜共栄圏の建設」なんていう巨大スケールな目標を掲げてしまいました。
順調に勝っていきそうだから、相応の大義名分を掲げて、行けるところまで行こうということでしょうか。
 冗談じゃない。
 アジアを白人支配から解放しても、自国が滅んでしまっては意味がありません。
そんなの歴史的な結果論だと言う人もいるでしょうが、本当に日本を愛しているならば、こうやって日本を滅ぼした人達に徹底的な筆誅(ひっちゅう)を加え、二度とこんな過ちを繰り返さないことを誓うべきではないでしょうか。
後世の人間たるもの、「東条さんは愛国者」など言ってはいけません。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
大間違いの太平洋戦争    倉山満=著 KKベストセラーズ
手に取るようにわかる 太平洋戦争   瀧澤中=著  日本文芸社
日本の戦争 解剖図巻   拳骨拓史=著  X-knowledge
太平洋戦争「必敗」の法則 太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
朝日おとなの学びなおし! 昭和時代 保阪正康=著 朝日新聞出版