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【インド洋作戦】勝利した日本が得られなかった教訓【南雲忠一】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【インド洋作戦】勝利した日本が得られなかった教訓【南雲忠一】」というお話です。

 今回ご紹介するインド洋作戦はミッドウェー作戦が行われる2カ月前の海戦です。ミッドウェー海戦とは、日本が大惨敗した海戦として知られています。

 しかし、今回のインド洋作戦は日本の圧勝。これによって戦争末期までイギリス東洋艦隊はその戦闘能力を回復させることが出来ませんでした。つまり、日本はこのインド洋作戦で事実上、イギリス海軍に完全なる勝利を手にしたことになるのです。

 しかし、大きな課題も残りました。もし日本がそのような教訓をもっと生かしていれば、ミッドウェー海戦の勝敗も変わっていたかも知れません。
そのくらいインド洋作戦は様々な問題点が浮き彫りになった海戦でした。
 ということで、今回はインド洋作戦を見てきながら、勝利した日本が得られなかった教訓を見ていきたいと思います。

その命中率は驚異の87。インド洋作戦でイギリスに圧勝した日本は、レーダーや策敵機の甘さ、そして兵装転換の問題など様々な問題点が浮き彫りになりました。しかし、その問題点を連合艦隊深くは追及しませんでした。その結果、2か月後のミッドウェー海戦の大惨敗を招いてしまうのでした・・・。

 1941年12月8日、日本海軍の南雲忠一中将率いる機動部隊(空母部隊)はハワイの真珠湾を攻撃しました。太平洋戦争(大東亜戦争)の始まりです。

 それとほぼ同時に第1段作戦(南方作戦)が開始されました。第1段作戦の目的は南方資源地帯の占領でしたが、陸軍の快進撃によってマレー及びシンガポール、南部ビルマ、蘭印などが次々に攻略されていきました。
 蘭印のジャワ攻略では、翌1942年2月に落下傘部隊の活躍に呼応して輸送船団が組まれました。
 これを迎え撃ったのは、オランダのドールマン少将率いる艦隊。
 犬猿の仲だった陸軍と海軍が協力し、2月19日~20日にかけて、バリ島起沖海戦が展開されました。

 一方、真珠湾奇襲攻撃を成功させた南雲率いる機動部隊はウェーク島ラバウル、そしてオーストラリア北部のポートダーウィンなどを空襲するという陸上基地攻撃に転戦していました。
 ポートダーウィンの空襲はジャワ攻略にあたって、連合軍が反撃のために飛行場を使うことを阻止するために行われました。
海軍も続く2月27日~28日のスラバヤ沖海戦バタビア沖海戦でも勝利しました。

 こうして矢継ぎ早に行われる南方作戦が連戦連勝だったため、第2段作戦が計画されました。
 しかし、その作戦をめぐって、またしても陸軍と海軍が対立。
 陸軍側は、「セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアとの連携を強める」ことを主張。
 対する海軍側は、「アメリカとオーストラリアを遮断し、もう一度ハワイを攻撃し、占領する」ことを主張しました。
 結局、海軍側の主張が通りました。
 しかし、第1段作戦の最終局面であるビルマ作戦で空母を保有するイギリス東洋艦隊が立ちはだかりました。ビルマは陸軍が首都ラングーンを占領しましたが、ビルマ全域を制圧するためにその後も軍需物資や増援部隊をインド洋方面から送る必要がありました。
 一方で、シンガポールを失ったイギリス東洋艦隊はその拠点をセイロン島(現スリランカ)に移しており、これを駆逐しなければインド洋の安全は確保できない状況でした。
 そこで陸軍が提唱していたセイロン島の攻略を海軍のエース・南雲機動部隊が担当することになったのでした。
 こうしてセイロン島を根拠地とするイギリス東洋艦隊を奇襲撃滅するべく実行されたのがインド洋作戦なのです。

 1942(昭和17)年3月26日、蘭印のセレベス島を出港した南雲部隊は翌4月4日、敵の策敵機に見つかってしまい、急いで零式艦上戦闘機ゼロ戦)によって撃墜するも、目撃情報の発信までは阻止出来ませんでした。
 これによって、奇襲攻撃とは成りえなくなりました。

 それでも南雲はセイロン島への攻撃を断行。
 同4月5日早朝、空母5隻(赤城、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)から艦載機126機を第一次攻撃隊としてセイロン島コロンボ港に向けて出撃させました。

 案の定、セイロン島のコロンボ港の上空に殺到した第一次攻撃隊を待っていたのは、英戦闘機42機と激しい対空砲火で、しかも湾内には駆逐艦1隻と仮装巡洋艦1隻しかおらず、空母はおろか、主力戦艦すらもすでに出払っており、「もぬけの殻」でした。
 策敵機によって日本航空部隊の奇襲を察知したイギリス東洋艦隊司令長官のソマービルは空母3隻、戦艦5隻などをセイロン港から退避させていたのです。
 第一次攻撃隊は湾内の2隻を撃沈するも、対空砲火は激しく、第一次攻撃隊長の淵田美津雄は「第二次攻撃の必要あり」と艦隊に打電しました。
これを受けた南雲長官は魚雷を装備していた艦上攻撃部隊に陸上攻撃用爆弾への兵装転換を命じました。
(敵艦船攻撃ならば、魚雷が適していますが、陸上の基地攻撃ならば、陸上用爆弾の方が適しています。)

 が、そこにインド洋沖を偵察していた策敵機より「敵巡洋艦発見」の知らせが入ってきました。おそらく逃げ遅れた英巡洋艦だと判断した南雲長官は再び魚雷への兵装転換を命じました。しかし、急激な兵装転換によって艦内は大混乱し、一部の攻撃機(97式艦攻機)が発艦出来そうになく、爆撃機(99式艦爆機)53機のみが飛び立つことになりました。

 爆撃機53機はまもなく、英巡洋艦「ドーセットシャー」と「コーンウォール」を発見。攻撃を開始するや、爆弾は吸い込まれるように命中し、2隻ともわずか20分たらずで撃沈してしまいました。この時、日本軍は爆弾の命中率を88%という驚異的な数値を叩きだしました。
 当時、戦艦の主砲の命中率は高くても10%前後でした。マレー沖海戦に続き、またしても航空機の戦艦に対する優位性が証明されたのでした。

 こうしてセイロン島コロンボ港の空襲および、英巡洋艦2隻を撃沈した南雲機動部隊は、一旦、敵の哨戒圏を出て、態勢立て直し、再度セイロン島に向かいました。そして9日早朝、今度はセイロン島北東部の軍港トリンコマリーを空襲しました。
 そこにはコロンボ港と同じく主要な軍艦はいませんでしたが、その帰途、セイロン島東岸沖合に小型空母「ハーミス」を発見。今作戦で初めて空母を発見したのでした。
 すぐさま南雲部隊は94機が発進し、わずか15分で「ハーミス」を撃沈。命中率は82%とまたしても驚異的な数字でした。

 しかし、南雲部隊は最後まで英主力艦隊を見つけ出すことが出来ませんでした。
 セイロン島を退避したソマービル率いる英艦隊は「ハーミス」も撃沈されたことを聞いて戦意を喪失。ソマービル艦隊はその後、はるか遠くに撤退しました。
 こうしてインド洋の制海権は完全に日本のものとなり、戦争末期まで日本はイギリス東洋艦隊の再起を封じることに成功したのです。

 南雲部隊は作戦の成功に満足し、「大勝利」の美酒に酔っていました。
 しかし、南雲部隊も危うい一面がありました。
 9日、航空部隊が「ハーミス」撃沈に向かった後、セイロン島から飛来した英爆撃機9機が空母「赤城」のすぐ近くに大型爆弾を投下したのです。
誠に信じがたい事実ですが、南雲部隊は巨大な水柱が上がる直後まで敵機の存在に気づきませんでした。
 完全なる油断と言えば、それまでですが、これは深刻なものでした。日本にはまだレーダーがなく、護衛の戦闘機よりも高空を飛ぶ敵には気づきにくいという状態でした。
 そもそも、今回最大の標的だったソマービル本隊を取り逃したのも、策敵機の発見に遅れ、目撃情報の発信を阻止出来なかったことにありました。

 日本の空母部隊は攻撃には強くても、レーダーの未発達や索敵の甘さなど防御に関する装備も態勢も立ち遅れていました。

 南雲部隊にはさらに大きな課題が残りました。コロンボ空襲の際、兵装転換が2度も行われたことです。それによって艦上攻撃機の一部が出動できないという事態を招いてしまいました。
 南雲部隊はインド洋作戦の帰途、平常航海中における97式艦上攻撃機18機で兵装転換の実験し、それに要する時間を測定しました。
 その実験結果は以下の通りです。

兵装転換 所要時間
魚雷→250キロ爆弾 2時間30分
魚雷→800キロ爆弾1個 1時間30分
魚雷→800キロ爆弾2個 2時間30分
250キロ爆弾→魚雷 2時間
800キロ爆弾1個→魚雷 2時間
800キロ爆弾2個→魚雷 1時間30分

 このように、せっかく南雲部隊が実験をしても連合艦隊司令部はそのデータを深く追求することはありませんでした。
「まぁ、勝ったのだから良いではないか。」
 その程度のものでした。
 日本海軍には「拙速を尊ぶ」という考えがあり、多少問題があっても、「先手必勝」、「敵よりも先に敵を叩け」、「叩けるときに一気に叩きのめせ!」というのが蔓延していました。

 こうした問題点が浮き彫りになっていながら、日本海軍は目を背けた。
その結果が2か月後のミッドウェー海戦の大惨敗につながるのでした。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
手に取るようにわかる 太平洋戦争   瀧澤中=著  日本文芸社
日本の戦争 解剖図巻   拳骨拓史=著  X-knowledge
太平洋戦争「必敗」の法則 太平洋戦争研究会=編著  世界文化社