【珊瑚海海戦】世界初の「空母対決」を日米はどう見たのか【井上成美】
こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【珊瑚海海戦】世界初の「空母対決」を日米はどう見たのか【井上成美】」というお話です。
この珊瑚海海戦は、一つの転機を迎えた海戦であり、それまで連戦連勝を重ね、作戦を順調に遂行させてきた帝国海軍にとって、初めてその作戦が失敗した海戦です。
また、世界初の「空母対空母」の戦いと言われており、それまでの「戦艦対戦艦」による戦いの常識が大きく覆されたという意味でも、転機となった海戦です。ここで両者の違いを以下の表にまとめて解説しておきます。
「戦艦」対「戦艦」 | 「空母」隊「空母」 |
---|---|
射程圏内での戦い | 射程圏外での戦い |
敵同士が見える戦い | 敵同士が見えない戦い |
大鑑巨砲主義 | 情報戦 |
「戦艦」対「戦艦」はお互いが戦艦の射程圏内で戦うので、敵が見える位置での戦いとなります。したがって、戦艦はより大きく頑丈で、大砲を備えている必要がありました。
しかし、「空母」対「空母」の戦いになると、戦艦の射程圏外から航空機を飛ばし、航空機動戦が展開されるため、お互い敵が見えない戦いとなります。
つまり、「空母」対「空母」の戦いは、奇襲作戦が可能になるのです。奇襲作戦の場合、先に敵を見つけた側が圧倒的に有利となります。
そうなると、海戦は今後、情報戦となります。暗号を解読し、敵がいつ、どこで、どのように攻撃を仕掛けてくるのか、出来る限り正確に把握しておく必要が出たのです。大鑑巨砲主義の時代から情報戦の時代へ。それまでの海戦の常識が全く通用しなくなってしまったのです。
アメリカはこうした時代の変化に柔軟に対応しました。
ハワイの太平洋艦隊本部の暗号解読班は、総勢150人の職員が24時間体制で暗号解読に取り組み、その結果、珊瑚海海戦では日本側の暗号を米軍側がほとんど解読しており、日本はほとんど待ち伏せされた状態で海戦に臨んだのでした。
もっとも、日本側も暗号解読をやっていなかったわけではありません。しかし米軍ほど注力していなかった。暗号とは結局、時間や労力をかければ解読できるものです。しかし、日本はそれをやらなかった。
これは時代錯誤の情報軽視と危機管理意識の欠如と言わざるを得ません。
では、そんな珊瑚海海戦はどのような戦いだったのでしょうか。
帝国陸海軍は第1段作戦(南方作戦)で日本軍は連戦連勝を重ね、マレー・シンガポール、香港、蘭印、南部ビルマと次々に勢力を拡大し、国民は緒戦の勝利に大熱狂していました。
こうして第1段作戦が順調に進みつつある中、次の第2段作戦の決定において、陸軍と海軍でまたしても意見対立が起こりました。
陸軍参謀本部としては「南方の資源地帯を確実に押さえ、長期持久体制を確立する」ことを主張。
対する海軍軍令部は「オーストラリアを攻略し、米豪の連絡を遮断し、オーストラリアを屈服させる」ことを主張しました。
もし、アメリカが反転攻勢に出た場合、オーストラリアは最大の拠点となってしまいます。盤石な守備力強化を主張する陸軍に対し、海軍は積極的に攻撃を仕掛け、早期に決戦をしたいと考えたのです。
そこで陸海両軍の折衷案として決まったのが、「フィジー・サモア・ニューカレドニアを攻略し、米豪の連絡を遮断し、オーストラリアを屈服させる。」という作戦でした。
しかし、これに異議を唱えたのが、連合艦隊司令長官・山本五十六(やまもといそろく)大将でした。
「南方作戦が完了しつつある現在、いよいよアメリカが本格的に動き出すだろう。アメリカの国力は強大だ。早急に叩かなくてはならない。そのためにハワイを占領し、米太平洋艦隊の動きを封じるのだ。ミッドウェー攻略はその前哨戦とする。この作戦が許可されなければ、私は連合艦隊長官を辞任する。」
そう言って山本がまたしても辞表をチラつかせたために海軍軍令部は結局、1942(昭和17)年4月3日、ミッドウェー攻略作戦を許可しました。
こうして軍部としての方針は「フィジーやサモアを攻略し、米豪の連絡を遮断する。それと同時にミッドウェー作戦を実行し、ハワイ占領にも着手する」ことに決まりました。
フィジー、サモア、ニューカレドニアは、ハワイからオーストラリアに至る要衝であり、つまりアメリカ軍の通り道です。ここを先に叩こうというのです。
そんな米豪分断作戦の先駆けとしてポートモレスビーを占領しようという作戦がまとまりました。
こうしてポートモレスビー攻略のMO作戦、フィジー・サモアの攻略のFS作戦、ミッドウェーのMI作戦とそれぞれ計画がされていくのでした。
この中のMO作戦こそが、今回の珊瑚海海戦になります。
MO作戦はトラック島に司令部を置く第4艦隊の井上成美(いのうえしげよし)中将が総指揮をとりました。井上成美といえば、米内光政、山本五十六と並んで帝国海軍の良識派三羽烏として知られています。戦後も罪に問われることなく平然と生きた海軍上層部の中で、井上だけはしっかりと謝罪した人です。
「我々が戦争下手で負けてしまいました。国民の皆さん、申し訳ございません。」
通常、軍人は様々な団体が支援してくれるので、生活できるのですが、井上だけはそういった支援を一切絶ち、娘さんと一緒にひっそりと生活し、国民の皆さんに一生お詫びしながら生きた人物です。
さて、そんな井上率いるポートモレスビー攻略部隊を護衛するのは、空母「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする原忠一(はらちゅういち)少将率いる第5航空戦隊でした。
翔鶴も瑞鶴も開戦直前に慌ただしく建造された空母で、第1航空戦隊の「赤城」「加賀」や第2航空戦隊の「蒼龍」「飛龍」よりも見劣りするいわゆる「2級空母」でした。第1航戦も第2航戦も次のミッドウェー作戦(MI作戦)のために引き抜かれたため、参加できませんでした。
これに対し、アメリカ側も主力空母「ヨークタウン」と「レキシントン」で迎え撃つのですが、「ホーネット」と「エンタープライズ」はドゥーリットル攻撃のため、日本近海におり、今回の海戦には参加できませんでした。
つまり、この珊瑚海海戦とは、両軍とも万全な兵力ではない状態での戦いだったのです。
作戦は1942(昭和17)年5月1日に発動、3日にツラギ占領、10日にポートモレスビー上陸という予定となりました。
その頃、アメリカ軍は4月22日、真珠湾の太平洋艦隊司令部で日本側の暗号を解読していました。
「様々な情報を解読した結果、日本軍がニューギニア、ニューブリテン、ソロモン諸島方面で攻撃をかけてくるようです。」
暗号解読班の報告を信じた太平洋艦隊司令長官のチェスター・ミニッツは現在、呼び寄せられる2隻の空母「ヨークタウン」と「レキシントン」を擁する第17任務部隊を、珊瑚海に急行させました。
アメリカ軍は同1942(昭和17)年1月20日に沈没させた日本の潜水艦「伊124」から日本海軍の暗号書を入手しており、これによってアメリカ軍は日本の作戦をほぼ突き止めていました。
5月1日、アメリカ軍は間もなくこの海域に現れるはずの日本起動部隊や上陸部隊を乗せた輸送船団を待ち構えていました。
すると、読み通り、日本のポートモレスビー攻略のための陸上部隊輸送船団が現れ、アメリカ軍はこれを撃滅します。
日米による珊瑚海海戦のはじまりです。
5月4日、日本のポートモレスビー上陸部隊が続々とラバウルを出撃。第五航空戦隊も6日には珊瑚海に至ります。
5月7日午前6時15分。アメリカ軍策敵機は日本の軽空母「祥鳳」を伴うポートモレスビー攻略部隊を発見し、空母「ヨークタウン」や「レキシントン」から攻撃隊を発艦させました。攻撃隊は「祥鳳」に殺到し、これを撃沈。
帝国海軍は開戦以来、初めて空母を喪失したのでした。
翌8日午前6時30分、「翔鶴」から発艦した菅野兼蔵飛行長率いる策敵機群が米空母「ヨークタウン」と「レキシントン」を発見し、空母「翔鶴」、「瑞鶴」から攻撃隊(97式艦上攻撃機・99式艦上攻撃機)を出撃させました。
しかし、同じ頃、アメリカ軍も「翔鶴」と「瑞鶴」を発見しており、同時に攻撃隊を発艦させていました。
索敵を行っていた菅野機は帰投中、味方の攻撃隊と出会い、菅野は「ワレ誘導ス」の信号を送り、自機の燃料が不足していることを知りながらも、攻撃隊の先頭に立って、米機動部隊の位置まで誘導しました。
菅野機は燃料が切れ、その後、未帰還となりました。
そんな菅野の犠牲によって米空母群に到着した日本の攻撃隊は、午前11時18分に攻撃を開始し、「レキシントン」に魚雷を2発、爆弾2発を命中させました。「レキシントン」はガソリンから漏れ出した気化ガスが引火し、大爆発を起こし、やがて自沈処分されました。
「ヨークタウン」も爆弾1発、至近弾2発を浴びて、大損害を被りました。
しかし、一方の第5航空戦隊もアメリカ軍機の猛攻を受けており、「翔鶴」の甲板が破壊されました。「瑞鶴」はスコールの中に退避したため難を逃れたものの、着艦場所を失った戦闘機部隊(零式艦上戦闘機)は次々に海上に不時着していきました。
そして午後2時。第5航空戦隊の原少将は、作戦の中止を決断しました。残存機も39機しかなく、その燃料も残り少なかったからです。
総指揮官の井上中将も原の判断を追認し、ポートモレスビー攻略作戦の無期延期を正式に決断したのでした。
この戦いで日本側は軽空母「祥鳳」、駆逐艦1隻を喪失し、主力空母「翔鶴」は中破する被害を受けました。
対するアメリカ側は主力空母「レキシントン」と駆逐艦1隻を失い、主力空母「ヨークタウン」は中破する被害を受けました。
よく珊瑚海海戦の勝敗は日米痛み分けだったといわれています。
さらに、戦果だけをみれば主力空母「レキシントン」を撃沈した日本側に分があるように見えます。
しかし、ポートモレスビー攻略という作戦目的は達成されず、中破した「翔鶴」の修理にも3カ月かかり、次の作戦であるミッドウェー海戦には参加できませんでした。また多くの熟練パイロットを失ったことも痛手となりました。
そういう意味では、大局的にはアメリカの勝利で、日本は「戦術的勝利、戦略的敗北」を喫したと言えるでしょう。
ミニッツは思わず「ニヤリッ」と笑いました。
暗号解読が功を奏し、日本軍の作戦を始めて阻止出来たからです。
アメリカは主力空母「レキシントン」を失っているだけに、この海戦から多くの戦訓を学び、今後、同じような戦闘になったとき、その戦訓を生かそうと考えたのです。
暗号解読の重要性を再認識したこと。策敵機を多く放ち、とにかく先に敵を見つけ出すこと。さらに、空母が攻撃を受けた場合のダメージコントロールを研究する必要があること。
(ダメージコントロール・・・空母が被弾したとき、その事後処理をすること)
そして、今後の海戦は航空機がメインになってくるため、航空機の生産と、そのパイロットの育成に注力すること、などです。
以下の表は航空機の重要性に気づいたアメリカが航空機の量産に乗り出したことを表しています。
1941年 | 1942年 | 1943年 | 1944年 | 1945年 | |
日本 | 2,625 | 3,200 | 4,050 | 4,600 | 4,100 |
アメリカ | 1,500 | 3,537 | 11,442 | 17,975 | 21,908 |
日本も航空機の重要性に気づくも、アメリカのそれにはとても追いつきません。アメリカは航空機会社だけでなく、自動車産業も発達する工業大国です。山本五十六がおそれた「アメリカ経済の巨大さ」がうかがえます。
一方、日本は今回の「戦術的勝利、戦略的敗北」を勝ち戦と認識してしまいました。開戦以来、勝ち戦が続き、ただでさえ敵を見くびる驕った空気が蔓延する連合艦隊では、第5航空戦隊でも勝てたのだから、第1、第2航空戦隊ならば、鎧袖一触のもとに片がつく、としました
「敵の兵力・技量は大したことはない。」
この慢心が次のミッドウェーの惨敗へと突き進んでいくのでした・・・・。
つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
手に取るようにわかる 太平洋戦争 瀧澤中=文 日本文芸社
太平洋戦争「必敗」の法則 太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
日本の戦争 解剖図艦 拳骨拓史=著 X-Knowledge