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【マレー沖海戦】勝利した日本が得られなかった教訓 その1

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【マレー沖海戦】勝利した日本が得られなかった教訓 その1」というお話です。

 

 不沈艦とは文字通り、沈まない艦のことを言います。イギリスの東洋艦隊主力戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は当時、そう呼ばれていました。
 圧倒的な装甲と、重火器の充実。船側装甲は381ミリ、甲板防御は同じく152ミリ。主砲は40センチ砲と同等の威力を持つ新式の35.6センチ砲。その他、毎分6万発以上という対空火器能力を持ちます。
 そんな最新鋭の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は200年の歴史を持つロイヤルネイビーイギリス海軍)の誇りでした。

 しかし、今回のマレー沖海戦で、巡洋戦艦「レパルス」とともに日本の航空機動部隊により、わずか2時間で撃沈されてしまうのでした・・・・。

 

 本題に入る前に、軍事戦略における「ある法則」をご紹介します。
軍事において、戦略上優位に立つには「敵よりも高い位置を確保すること」だといわれています。したがって、高台、飛行機、そして宇宙空間へと軍事競争は発展してきたのです。
 当時も、制空権を確保すれば、戦略上有利であることは明白でした。しかし、海上戦においては戦艦による対空砲火はかなり強力で、激しい弾幕ゲームが繰り広げられるため、航空機によって戦艦を撃沈することは難しい、またはほぼ不可能であるとされていました。

失敗から学ぶことは簡単です。しかし、成功から学ぶことは難しいです。マレー沖海戦で最新鋭の英戦艦が日本の航空機動部隊によって撃沈されたことで、それまでの「航空機では戦艦は沈められない」という常識が覆されました。英米はそんな失敗から学び、戦艦に対する航空機の優位性を知るようになります。一方の日本は大鑑巨砲主義を捨てられないどころか「英米もこんなものか」と見くびるようになっていくのでした・・・・・。

「ヒノデ(開戦日)ハヤマダカ(12月8日)トス」

 この暗号電文が東京の参謀本部から発せられたのは、1941(昭和16)年12月3日のことでした。
 これを受けた山下奉文中将を司令官とした第25軍3個師団(陸軍)は翌4日、中国領の海南島から将兵を満載した輸送船団をマレー半島に向けて出撃させました。

 日本が戦いの目標としていたのは南方資源の確保、つまり石油が豊富な蘭印(インドネシア)を押さえることでした。
 日本は開戦前にすでに仏印ベトナムラオスカンボジア)に進駐していましたが、そんな仏印と蘭印の間にあるのが、英領マレー及びシンガポールです。したがって、仏印から蘭印に向けて輸送船団を送っても、イギリス軍によって撃滅されてしまいます。
 そのため、イギリス領のマレー及びシンガポールはどうしても攻略しなければならないものでした。

 真珠湾攻撃が「博打打ち」なら、こちらは「本命の戦い」です。
 そもそも太平洋戦争(大東亜戦争)の直接的な原因は支那事変(日中戦争)でした。支那事変は専ら日英問題が原因で引き起こされたものだったので、この時までに日英間は決定的に悪化していました。
 陸軍としても、日中戦争蒋介石を支援するイギリスの「援蒋ルート」を遮断することが目的だったので、イギリス領は是非とも攻略しておきたい。

 太平洋戦争といえば、どうしても「対米戦」をイメージしてしまいがちですが、むしろ「対英戦」としてとらえた方がしっくりきます。
 というのも、今後、何をどうしたらよいのか全く見当もついていない「対米戦」に対して、「対英戦」において日本は戦略的にも戦術的にも(途中までは)文句なしの強さと快進撃を見せつけているからです。

 12月7日、イギリス軍の航空勢力圏に入った一行はナコン、シンゴラ、タベー、バタニ、コタバルとそれぞれの上陸地点を目指しました。

 そして同日深夜、コタバル沖合に兵力5300名の侘美浩(たくみひろし)支隊を乗せた船団がその錨を降ろしました。
 上陸用舟艇に乗り移った将兵は高波にもまれながらも次々にコタバルの海外に到着。浜辺一面に張られた鉄条網をかいくぐり、イギリス軍との戦闘が始まり、
 1941(昭和16)年12月8日午前1時30分。大東亜戦争が始まったのでした。
 これは、連合艦隊による真珠湾攻撃より1時間50分も前のことでした。
 以後、侘美支隊はシンガポールを目指して突き進んでいくのでした・・・。

 この知らせを聞いたシンガポールのイギリス東洋艦隊は、同12月8日午後5時35分に「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」の両戦艦を4隻の駆逐艦と共にシンガポールを出港。南方攻略のために南下してくる日本の上陸部隊輸送船団を撃滅するべく、北上していきました。

 当時、シンガポールとは「国」ではなく、「要塞」であり、「軍港」でした。イギリス最大のアジア拠点であり、背後には戦車が通れないほどにジャングルが生い茂るマレー半島があるため、難攻不落の要塞と唱えられており、仮に日本軍が上陸しても1年はかかるだろうとされていました。
 英首相のウィンストン・チャーチルは日本との戦争が間近だということで、12月3日にすでに「ウェールズ」と「レパルス」シンガポールに派遣していました。チャーチルは難攻不落のシンガポールと浮沈艦2隻が沈められるわけがないと思っており、これで東洋艦隊の防備は完璧だと確信していました。

 しかし、シンガポールを出港した「ウェールズ」と「レパルス」には、マレー半島の英軍飛行基地も日本軍に押さえられていたこともあって、航空機の護衛がついていませんでした。
 英国艦隊を率いていたのはトーマス・フィリップス大将は、名将として知られ、海軍軍令部次長からイギリス東洋艦隊の司令官に抜擢された人物です。
 フィリップス大将は航空機の護衛のない状態で日本の輸送船団を襲うとすれば、それは奇襲以外に方法はないと考えていました。

 日本海軍は戦争前から2戦艦には脅威を感じており、海上で仕留めようと、偵察機や潜水艦で捜索に乗り出しました。
 12月9日午後9時30分、南部仏印サイゴンから飛んだ日本の偵察機が敵味方不明の艦隊を発見。敵艦ではないかとはすぐに照明弾を放ち、攻撃態勢に入るも、南方に進出していた日本の艦隊と判明。
 一方で、すぐ近くを航行していた英戦艦2隻はその照明弾を確認しており、日本軍に見つかったと思い、フィリップス大将はコタバル沖で反転し、シンガポール向かい帰投しました。

 しかし、翌12月10日午前11時45分。日本の策敵機がシンガポールに戻る「ウェールズ」と「レパルス」を発見。
 南部仏印サイゴン及びツダウム基地から出撃していた日本の航空機(96式陸上攻撃機、1式陸上攻撃機)は直ちに攻撃に向かい、英戦艦に殺到しました。

 そして同日午後12時45分、本格的な戦闘が始まりました。
 日本の戦力は96式陸攻59機、1式陸攻26機。
 対するイギリスの戦力は戦艦1隻(ウェールズ)、巡洋戦艦1隻(レパルス)、駆逐艦4隻。
 日英はマレー半島・クワンタン沖で激突しました。マレー沖海戦の勃発です。

 日本の陸攻隊は次々に爆弾を落とし、魚雷を放ちました。
 護衛の戦闘機をつけていない英戦艦は対空砲火で応戦。「レパルス」は巧みに魚雷をかわすも、陸攻隊の猛攻をくらい、爆弾1発、魚雷14本が命中。
 一方の「ウェールズ」も爆弾2発。魚雷7本が命中。
 黒煙を噴きながら英戦艦は逃げ回ったが、午後2時過ぎに「レパルス」が沈み、「ウェールズ」も午後2時50分に大爆発を起こし、沈没しました。

 浮沈艦と呼ばれた「ウェールズ」は開始からわずか2時間で撃沈されたのでした。

 「ウェールズ」の乗組員は駆逐艦で脱出するも、フィリップス大将だけは、このまま艦に残ると言い、「ウェールズ」と運命を共にしました。

 この最中、日本軍は一切の攻撃を加えませんでした。日本軍の損害は陸攻を3機喪失しただけで、圧倒的な勝利を収めたのです。
そして日本軍は航空機より海に花束を放ち、犠牲者の冥福を祈りました。

 この知らせを聞いた英首相のウィンストン・チャーチルは衝撃を受け、号泣してしまったようです。彼は以下のように回顧しています。

「戦争の全期間を通して、私はこれ以上のショックを受けたことがなかった。我々は至るところで弱く、裸の状態であった。」

 今回のマレー沖海戦では、日本の航空機がイギリスの最新鋭の戦艦を沈めてみせたことで、それまで不可能とされていた「航空機で船は沈められる」という実験結果を英米に示してあげたことになりました。
 真珠湾では、碇泊中の戦艦を航空機で撃滅しましたが、今回は作戦行動中の戦艦が航空機に沈められるというのは史上初のことで全く衝撃的でした。

 以後、アメリカは航空機の大量生産に乗り出し、海上戦では空母を重視した戦法を行うようになります。大艦巨砲主義の戦法から、航空機重視の戦法に切り替えたのです。戦艦を2隻作るのと、航空機を100機作るのではどちらがコスト安か。それは航空機です。アメリカは航空機産業だけでなく自動車産業も発達していたので、航空機を大量生産するのは難しくありません。


 しかし、一方の日本は、長年艦隊中心で訓練してきた頭を転換することが出来ず、いつかどこかで起きるであろう東郷平八郎のような艦隊決戦をずっと意識しているだけでした。
東郷平八郎・・・日露戦争連合艦隊司令長官として日本海海戦を指揮した人物)

 

 したがって、航空機が敵艦隊を撃滅するという大きな戦果を上げたという報告や、戦果の写真を見ても、上層部は「よくやったな。」程度にしかとらえることが出来ず、現場の軍人は航空機の優位性について薄々気づいてはいても、上層部の圧力や、大多数の意見に押されて、歯向かうことが出来なかったのでしょう。

 日本人とは、教えられたことを忠実に実行することは非常に得意です。語弊を恐れずに言うと、‘優秀なマニュアル人間‘といったところでしょうか。
 一方で、教えられていないことに対し、柔軟に対処することは苦手としているのではないでしょうか。

 ・・・まぁ、日本人に限った話ではないかも知れませんね。

 というのも、失敗から学ぶのは簡単です。失敗すれば人はその状況を打破しようとあれこれ考えるものです。しかし、成功から学ぶのは非常に難しいものです。人間は成功を体験すると無意識に過信してしまいます。
 頭では分かっていても中々できないのが、これです。

 勝ち続ける組織の特徴として、「過去の栄光にしがみつかないこと」いうのがあるのは、当ブログでも度々述べてきています。
 かつて織田信長桶狭間の戦いで奇襲攻撃によって駿河の名門・今川義元を打ち破り、一気にその名を全国に轟かせました。
 しかし、信長はその後、奇襲攻撃を人生で二度とやりませんでした。

 今回のマレー沖海戦で、海軍がイギリス東洋艦隊の主力を開戦劈頭で撃滅したことは、アメリカ太平洋艦隊を真珠湾に屠ったことと同じくらい大きな戦果でした。
 しかし、圧倒的な勝利を収めたがゆえに、航空機の優位性に気づかないばかりか、「英米もこんなものか」と見くびるようになってしまいました。
こうした成功体験や過信が後のミッドウェー海戦での大惨敗の遠因になっていくのでした・・・・・。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。


参考文献
大間違いの太平洋戦争    倉山満=著 KKベストセラーズ
手に取るようにわかる 太平洋戦争   瀧澤中=著  日本文芸社
日本の戦争 解剖図巻   拳骨拓史=著  X-knowledge
太平洋戦争「必敗」の法則 太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史  中村達也=著  アルファポリス
20代で知っておくべき「歴史の使い方」を教えよう 千田拓哉=著 Gakken