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【日中戦争6】東亜新秩序とは何か【近衛文麿】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日中戦争6】東亜新秩序とは何か【近衛文麿】」というお話です。
 今回は日中戦争の6回目ということで、東亜新秩序について詳しく解説していきたいと思います。

 

 まず、結論から。

 「東亜新秩序の建設」とは、第二次近衛声明として出された構想ですが、わかりやすく言い換えると、「円ブロックの建設」ということです。

 ブロック経済というのを、覚えていますか?

 1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落したことをきっかけに大不況は全世界に波及し、世界恐慌となりました。

 そんなとき、イギリスやフランス、アメリカなどの持てる国は保護貿易ブロック経済)を開始することで対処しました。当時、イギリスやフランスは世界各地に植民地を持つ超帝国主義国家で、アメリカは広大な国土を持つ資源大国でした。


 ブロック経済とは、他国からの輸入品に高い関税をかけることで、国内への流入を防ぎ、輸出入を本国と植民地との間だけで行うとする経済圏(ポンド・ブロックやドル・ブロック)をつくり、経済の回復・維持を図る政策のことです。

 しかし、そんなブロック経済は「持てる国」しかできない政策で、植民地を持たないドイツやイタリア、日本などの「持たざる国」は苦境に陥りました。

 そこで、日本も、満州中華民国を事実上の植民地にして、自国の経済を保護するブロック経済(円ブロック)を始めようということです。

 しかし、植民地なんて言葉を使うと搾取や侵略のイメージが強く、印象が悪い。そこで、「日本・満州中華民国が結束してt互いに経済活動を行う新しい秩序をつくりましょう」と呼びかけるようにしたのです。現代でいうTPPみたいなものです。

 

 では、ここからは、第一次近衛内閣を見ていきながら、東亜新秩序についてもう少し詳しく解説していきたいと思います。

 1938(昭和13)年1月16日、近衛文麿首相の名で以下のような声明が発表されました。

「帝国政府は南京攻略後、中国国民政府に反省の最後の機会を与えたが、みだりに抗戦を策している。」

 そのうえで、近衛は言いました。

「爾後、国民政府を対手(相手)とせず」

 この捨てセリフのような言葉は、今後、中国国民政府との和平交渉は一切行わないという意味で、この声明が止めを刺し、日中戦争の和平交渉として働いたドイツ人駐華大使トラウトマンによる工作は白紙に戻ってしまい、近衛は日中戦争を政治的に解決する糸口を完全に絶ったのでした。

 

 一方で、戦場では日本軍の快進撃が続いていました。

 南京を占領された蒋介石は、なおも徹底抗戦をする姿勢を見せました。そこで日本軍は1938年3月山東省南部の徐州方面に向かいました。徐州は世界有数の大河である黄河流域に広がる重要拠点であり、日本軍はここを占領すれば、いいかげん国民政府も降伏するだろうと考えたのです。

 日本軍は北京・天津方面から南下してくる北支那派遣軍と、南京方面から中支那派遣軍による挟み撃ち攻撃を加え、近代兵器による作戦も功を奏し、あっという間に徐州を占領してしまいました。

 中国軍は不利を悟るや、潮が引くように退却していきましたが、驚くべき行動に出ます。それは、近くを流れる黄河の堤防を破壊し、大量の水を溢れさせ、日本軍の追撃を振り切ろうという作戦です。
 結局、日本軍は追撃を諦め、徐州作戦は終了することになりました。

 

 徐州作戦は勝利こそしたものの、またしても中国主力軍を撃破することが出来ませんでした。
 蒋介石は再び、政府機関を湖北省(現在の武漢市)に移し、徹底抗戦の姿勢を見せました。

 湖北省には武漢三鎮と呼ばれる3大都市があり、それぞれ武昌(ぶしょう)、漢口(かんこう)、漢陽(かんよう)という名前です。この3大都市は昔から外敵を防ぐ重要な拠点だったので、三鎮と呼ばれていました。

 日本軍はすでに華北・華中のめぼしい地点は占領し、残るは武漢三鎮と広東ぐらいしかありませんでした。
 日本軍は武漢三鎮を占領すれば、さすがの蒋介石も日本に屈するだろうと考えました。

 そして、同1938(昭和13)年8月22日、昭和天皇による攻略の大命が下されると、中支那派遣軍はすぐに南下し、武漢を目指しました。

 たいていは日本軍が勝ち進んだが、なかには日本軍の1個師団が全滅するのではないかと思うほどに、中国軍が善戦したこともあった。しかし、海軍航空部隊の空爆が陸軍の進撃を助けたこともあって、日本軍は10月23日、漢口を占領しました。

 その後も、日本軍の快進撃は止まらず、武昌も占領。そして10月27日には武陽も占領し、作戦は終了しました。

 漢口には中国政府が臨時で置かれていましたが、市街戦を避けて予定通り重慶に脱出、以後、国民政府は重慶を首都とするようになりました。

 同じ頃、別部隊が広東市(現・広州市)を10月21日付で占領した

 こうして日本軍は、盧溝橋事件以来1年半で華北・華中の主要都市を制圧することに成功しました。

 しかし、徹底抗戦をきめる蒋介石は一向に降伏する気配がありません。このまま国民政府との戦争を続けてしまうのか。

 日本は今後、どうすれば良いのか途方に暮れてしまいました。

 一方で、ここまで占領地を広げた日本は世界に対して、この戦争の大義名分を示す必要に迫られました。
 そこで、近衛首相は1938年11月、新たな構想を第二次近衛声明として発表しました。それは以下のようなものでした。

「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」

 これは日中戦争終結後、日本・満州中華民国の3国を統合した経済圏(円ブロック)をつくろうと呼びかけるもので、3国が互いに手を取り合って経済活動をやっていこうとする東アジアの新たな秩序を示したものでした。

 さらに、この新秩序は経済分野だけでなく、ソ連をはじめ共産主義勢力に対抗するべく3国がお互いに防衛や文化の面で助け合うという目的も含まれていました。

 これを実現するために我が国は中国と戦争状態にあるのだと近衛は国内外に主張したのです。

 しかし、あくまでこれは大義名分であり、この第二次近衛声明には本音としての最大目的が別にありました。

 第二次近衛声明は以下のような続きがあります。

「国民政府といえど、従来の指導政策を変更し、その人的構成を変更して更生の実を挙げ、新秩序建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するもあらず」

 これは、中華民国政府がこれまでの政策をすべて放棄し、指導層の人材も変えて新たな組織として東亜新秩序に参加したいというのであれば、その意向を日本は拒否しませんよという意味です。

 つまり、この声明は、10カ月前(同年1月)に出された第一次近衛声明を撤回するもので、もう一度、国民政府と和平交渉を行おうというものです。

 近衛は国内の戦時体制を整えつつも、日中戦争を収拾させようとしていたのです。

 

 しかし、結果は思わぬ展開も招いてしまいました。
中華民国蒋介石総統は近衛の言う「東亜新秩序の建設」に激しく反発、こう非難しました。

「この新秩序こそ中国が奴隷国家に成り下がり、日本と‘日本がつくりあげた満州偽国‘と連絡して完成するのである。東亜の新秩序とは東亜の国際秩序を破壊し、奴隷的中国をつくりだし、太平洋を独破し、世界分割企図を遂げんとする総名称にほかならない」

 そんな中国の徹底抗戦を支えた要因の一つが、アメリカやイギリスによる軍需物資の支援であり、その輸送ルートは仏印(フランス領インドシナ)を通るルートで、現在のベトナムのハイフォン港で陸揚げされ、雲南鉄道(ハノイ雲南省昆明)で中国領内に運び込まれました。

 1938年には、もう1つの輸送ルートとしてビルマルートが開拓され、ラグーン(今のヤンゴン)に陸揚げされた物資は鉄道によって北ビルマまで運ばれ、以後、陸路トラックで雲南省まで運び込まれるようになりました。

 そんなイギリスやアメリカも、第二次近衛声明に強く反発しました。

 イギリスは、中国に多くの権益を持っており、日中戦争が拡大することは何として避けたいところでした。イギリスはすでに中国に莫大な投資をしており、その工業基盤が戦争によって破壊しつくされてしまってはたまったものではないからです。

 イギリスは満州事変以来、日本の中国権益には一定の配慮を示し、日英同盟の復活も呼びかけるなど、日本を懐柔する手段を取り続けてきました。しかし、今回の声明発表とともに、日本を敵視するようになっていきました。

 

 一方、アメリカは第一次世界大戦後、9ヵ国条約を理由に門戸開放を唱えて中国市場の獲得をひたすら主張していました。満州事変に続く日本の権益獲得や、日中戦争による日本の勢力拡大に強い反発を示しました。

 しかしながら、アメリカにとって、日本と中国が戦争をしてくれるのをむしろ好都合で、中国側を支援することで蒋介石に恩を売り、傀儡化させたうえで、日本との戦争で国力を疲弊させ、‘そのとき‘がきたら中国権益をごっそりと手に入れてしまおうと策略していました。

 しかし、そんな支援をしているはずの中国側が日本に惨敗を期している。このままでは日本に中国権益を全て奪われてしまう。

 そうなると、イギリスやアメリカにとって日中戦争の拡大は、自国に市場と権益が脅かされることに他ならない。

 そんな中に出てきたのが、「東亜新秩序の建設」でした。こんな英米の権益を踏みにじるような声明は到底受け入れられるものではありませんでした。

 このように和平交渉の復活を期待した「東亜新秩序の建設」は結果的に火に油を注ぐことになってしまいました。

 こうした英米の反応を近衛は知ってか知らでか、翌12月に第三次近衛声明として近衛三原則(善隣友好・共同防共・経済提携)を示しました。
 これは、「近隣諸国(日本・満州中華民国)は皆仲良く、共産主義ソ連)に対抗するべく、経済連携をしましょうよ」という第二次近衛声明に念を押した呼びかけでした。

 しかし、1939年1月早々、近衛内閣は総辞職しました。

 こうした近衛の声明に対し、利害関係の一致する英米は、日本を共通の敵としてみなすようになっていくのでした。

 それでもイギリスは日本に譲歩した対応を取りました。

 その典型例が1939(昭和14)年6月に起きた天津英租界問題です。
 租界を封鎖されたイギリスは、東京でクレーギー駐日大使が有田八郎外務大臣と会談をし、こう結論付けました。

「英国は中国における現実の事態を確認する」

 イギリスは日本の要求を受け入れたのです。

 しかし、アメリカ政府は反日感情を高める一方です。
 米政府内では対日報復の1つとして経済制裁を科すべきだとする意見が出てくるようになりました。

 

 皆さんの考えるA級戦犯の中で最も有名なのは、東条英機でしょう。しかし、それ以上に戦争責任が重いのは、近衛文麿でしょう。

 近衛首相は、結果的に日中戦争を泥沼化させたばかりか、英米の反発をも招き、それに敏速に対応しないという失策をやらかしたのでした。
 この後、近衛は再び首相の座に就き、日米開戦を不可避なものにしてしまいます。日本をズルズルと、大きな戦いに巻き込んでいったのは、東条よりも、むしろ近衛なのです。
つづく。

参考文献
5つの戦争から読みとく日本近現代史 山崎雅弘=著 ダイヤモンド社
「昭和」を変えた大事件       太平洋戦争研究会=著   世界文化社
日本の戦争の歴史          中村達彦=著 アルファポリス
子供たちに伝えたい 日本の戦争   皿木喜久=著   産経新聞出版