日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【朝鮮戦争】あわや第三次世界大戦!?なぜ朝鮮は南北に分断したのか

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【朝鮮戦争】あわや第三次世界大戦!?なぜ朝鮮は南北に分断したのか」というお話です。

 朝鮮半島はほぼ38度線に沿って走る軍事境界線を「国境」として、南北に分かれています。北側には朝鮮民主主義人民共和国、南側には大韓民国という2つの国に分断されており、国境から南北約2キロにわたって非武装地帯が設けられ、朝鮮戦争が休戦になってから60年以上経った現在も、人の立ち入りが禁じられています。
 なぜ朝鮮半島は北緯38度線を境にして2つの国家に分断してしまったのでしょうか。この国家分断の原因は日本の朝鮮支配とその後の米ソの争いにあった。

 1945(昭和20)年に太平洋戦争が終わるまで、朝鮮半島は35年間、日本が支配していました。
 それが日本の敗戦によって、朝鮮半島は解放されました。カイロ宣言の中には朝鮮の独立が明記されており、日本が敗戦した当日の8月15日、早くもソウルで呂運享を中心とした建国準備委員会が組織されました。
 そして翌9月6日には委員会が発展的に解消され、朝鮮人民共和国の樹立を宣言しました。
 こうして朝鮮半島主権国家として独立するかに思われました。

 ところが、そんな朝鮮人を頭越しに、アメリカとソ連の間で朝鮮半島の南北分断案が発生してしまい、南からはアメリカ軍が、北からは満州を席捲したソ連軍がそれぞれ進駐し、それぞれ9月には早くも軍政が開始されました。
 当初、日本に勝った連合軍は、朝鮮半島に独立国が成立するまで最大5年間、米英ソ中(当時は中華民国)で共同統治することを計画していました。しかし、アメリカとソ連の間で意見の対立が発生し、計画が思うように進まず、南北が分断されるようになってしまいました。
 この対立は「冷戦」と呼ばれるもので、アメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営の対立構造で、第二次世界大戦終結前からその対立は始まっていました。
 原爆投下によってアメリカに日本の権益をゴッソリ持っていかれたことに焦りを感じたソ連は日本がポツダム宣言受諾後も、千島列島を占領し続けるなどの悪行を続けました。
 ヨーロッパ方面でも東欧諸国が次々とソ連支配下に入り、共産主義化されていきました。これに対し、米英を中心とする資本主義陣営も同盟国を固めていきました。その過程で分断されたのが、敗戦したドイツだったのです。

 そんなソ連共産主義化は、東アジアにも及び、中国では毛沢東率いる中国共産党を支援し、アメリカが支援する蒋介石率いる国民党との内戦に勝ち、1949(昭和24)年に共産党が指導する中華人民共和国が成立しました。蒋介石率いる中国国民党軍は台湾に逃れました。
この対立は朝鮮半島にも及びました。

朝鮮半島に南北それぞれの政権が誕生したのは日本の敗戦から3年後の1948(昭和23)年でした。
まず、南側では選挙を経て大統領に選ばれた李承晩(りしょうばん)が、同年8月15日に大韓民国の樹立を宣言しました。
北側でも、ソ連軍の支援を受けた金日成(きむいるそん)が北側単独政権樹立へ動き、大韓民国成立の翌9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。
こうして朝鮮半島に住む同じ民族が南北2つの国家に分断されました。
さらに1950年1月にはアメリカが韓国と相互防衛援助協定を結び、同年2月には中国とソ連も中ソ友好同盟相互援助条約を結び、東西両陣営の緊張が高まっていきました。

長い間、朝鮮戦争は北と南、どちらが最初にしかけたのかが、論争の的となってきました。しかし、1990年初頭に冷戦が終結し、旧ソ連崩壊とともに公式文書が公開されたことで、北朝鮮が先に攻めていたことが判明しました。

北朝鮮が侵攻を決めたきっかけは、北朝鮮金日成ソ連スターリン、中国の毛沢東の3者の思惑が一致したためであり、祖国統一を希望する金日成に対し、ソ連スターリン書記長は朝鮮が統一されれば東アジアにおいて西側陣営を圧倒することが出来ると考えており、中国の毛沢東(もうたくとう)国家主席も自国の統一事業が一段落したことで、朝鮮支援にエネルギーを注げるようになっていました。

3者のスタンスとして、スターリンは武力で南を解放することには慎重だったが、金日成ソ連・中国が後ろ盾についてくれたことでやたらと強気になり、毛沢東も朝鮮を支援するとの合意が得られたことで、南への侵攻が決定されたというのが真相のようです。
もうひとつの要因はアメリカのアチソン声明です。
同1950(昭和25)年1月のアメリカのディーン・アチソン国務長官アメリカ(西側陣営)の防衛ラインを発表しました。
アメリカの極東防衛ラインはアリューシャン列島~日本列島~琉球王国(沖縄は当時はアメリカが占領していた)~フィリピン~オーストラリアを結ぶ線であり、これを守る」
アメリカとしてはこれでソ連共産主義勢力を食い止めようとしたのです。
このアチソン声明を聞いた金日成朝鮮半島を統一のために開戦を決定しました。
「米軍の防衛ラインには朝鮮半島と台湾が除外されているではないか。最前線の韓国を見捨てたな。今こそ朝鮮半島を我が手中に収めるときだ。」
米軍の介入を懸念していた金日成は、アチソン声明を聞いてチャンスとばかりに韓国に攻め入りました。
アメリカはここにきて、ようやく自分たちが危機的状況に立たされていること悟ります。
なぜ、日本が明治以来、朝鮮半島満州支配下におくため、多大な血を注ぎ込んだのか。それを今度はアメリカが身を持って体感することになりました。

1950(昭和25)年6月25日午前4時、北朝鮮の人民軍が38度線を一斉に南下して、韓国に攻め入りました。北朝鮮軍の兵力13万5000人に対して、韓国軍は約9万8000人でした。装備的にもソ連軍の支援を受けている北朝鮮軍に比べ、韓国軍は明らかに劣っていました。
北朝鮮軍はソ連のT34戦車を先頭に進撃し、韓国軍は対戦車砲やバズーカ砲で反撃するものの、T34戦車の分厚い装甲にまったく歯が立ちません。
これにより、北朝鮮軍は開戦からわずか3日でソウルを占領し、一挙に半島統一に向けて南進していきました。

北朝鮮軍の全面的な韓国への侵攻に対して、国連安全保障理事会は6月25日午後5時(米東部時間)、北朝鮮に対し戦争行為の即時停戦と38度線への撤退を要求する決議を採択しました。
しかし、拒否権を持つソ連は、常任理事国の1つに入っている中華民国が台湾に逃れ、大陸に成立した中華人民共和国と合同しないことに抗議しして、出席をボイコットしていました。
これによって、7月7日には国連軍の創設がすんなりと決定し、国連軍の朝鮮派遣が始まりました。
国連の加盟国は、主力となるアメリカが任命する司令官の指揮下に部隊を派遣するよう韓国された。
トルーマン米大統領が国連軍事最高責任者に任命したのは、日本に駐留していたマッカーサー元帥でした。
マッカーサーは9月15日、仁川逆上陸作戦を決行しました。
仁川は朝鮮半島西岸・北緯38度線よりやや南に位置しています。半島南部の釜山周辺に追い詰められて潰滅寸前の韓国軍を攻撃する北朝鮮軍を、背後から包囲して孤立させようという作戦です。軍部内には仁川は潮位の干満の差が大きく戦術的に困難であるなどの異論があったが、マッカーサーは押し切った。
マッカーサーは上陸直前には半島東側に船舶を集めて囮とし、仁川に250隻の艦隊で4万人の国連軍の上陸を成功させました。
混乱する北朝鮮軍は散り散りになって北に敗走し、追撃する国連軍は38度線を超えて北へ進撃していった。これは安保理決議の内容(現状回復)に反する軍事行動である。国連は、国連軍による38度線の突破を事実上認める決議を後追いで採択し、朝鮮戦争は新しい局面に突入しました。
1950(昭和25)年9月、朝鮮戦争は国連軍の参戦により、一気に韓国が形成を挽回しました。38度線を突破した国連軍は、10月20日には北朝鮮の首都・平壌を占領し、北朝鮮軍を中国国境付近であるの近くまで追い詰めました。
しかし、ここで中国軍が朝鮮戦争に参戦してきました。毛沢東国家主席中国人民解放軍の中に「義勇軍」を組織して、「抗米朝援」のスローガンのもと朝鮮に送る決定をしました。政治的な配慮から義勇軍としているものの、実質的には中国人民解放軍である。
中国義勇軍は18万にもおよぶ大兵力でひそかに待機し、鴨緑光(おうりょくこう)を超えて北上してくる国連軍を迎え撃った。

それでも国連軍は敵陣の真っただ中を突撃していきました。
対する中国軍は数にものをいわせて前進していった。
機関銃による一斉掃射にも真正面から突撃し、死体の山を築きながら、中国軍は前進してきた。その間も中国軍は増え続け、休戦までに約350万人にのぼった。
これには国連軍もたまらず、敗走せざるを得ませんでした。
同1950年11月30日、トルーマン米大統領は、中国軍の参戦はソ連の示唆によるものだと判断した。
実際にソ連の兵士が中国人民義勇軍の軍服を着て、朝鮮人民軍のマークのついた戦闘機に乗り込んで、参戦していました。つまり、朝鮮戦争とは、国連軍・韓国軍と朝鮮軍・中国軍・ソ連軍という、まるで第3次世界大戦をうかがわせるような対立構造だったのです。
トルーマン米大統領朝鮮戦争勃発時から終始一貫して、朝鮮戦争を第3次世界大戦の避けるためにあらゆる手段を講じてきました。
このまま戦争が続くようなら、満州に原爆投下も辞さないという姿勢を見せました。

こうして朝鮮戦争は38度線で膠着状態が続くようになり、両陣営ともこのまま戦争を続けていれば、被害が拡大するだけだと判断するようになりました。
そんな中、朝鮮戦争が勃発してから1年を迎えようとする1951年6月23日、ソ連国連代表のマリクが休戦に関して討議するべきであると述べた。
その放送は、スターリンの肖像を背景にマリクが話すというかなり威圧的なものでした。
これに対してアメリカ政府は当初、ソ連の真意を模索するべきだと慎重な対応をみでたものの、戦争継続は好ましくないと判断し、北朝鮮に休戦会談を提案し、7月10日、北朝鮮領の開城で休戦会談が開かれました。
南側代表は国連軍(実質的には米軍)と韓国軍、北側代表は北朝鮮と中国軍で、場所は38度線付近にある板門店で会談が行われました。

休戦交渉は困難を極めた。休戦ラインはどこにするのか、互いの捕虜はどうするのか、休戦監視委員の構成はどうするのか、休戦から恒久的な解決にいたるにはどうするのかなどが争点となった。

両陣営とも互いに譲らず、休戦交渉は断続的に開かれた。
結局、休戦協定の調印式が行われたのは、交渉開始から2年が経過した1953(昭和28)年7月27日でした。

休戦協定締結が進んだのは、1952(昭和27)年11月に当選したアイゼンハワー倍大統領による積極的な働きかけがありました。28年にはソ連スターリン書記長も死去し、これも休戦実現を後押しした。

こうして2年間トータル1000時間を超える討議の末、朝鮮戦争は休戦となり、ほぼ38度線にそった軍事境界線が韓国と北朝鮮の「国境」となりました。
結局、3年1カ月も続いた朝鮮戦争の被害は現在でも正確に把握されていません。しかし、民間人も含めて300万人以上が犠牲になったことは確かで、生き別れとなった離散家族も1000万を超えています。

朝鮮戦争は現在でも休戦状態であり、繰り返しますが、韓国は「統一なき休戦」に反対して調印をしていません。つまり、いつまた戦争が再開されるかわからない状態なのです。

以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
昭和を変えた大事件 太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
総図解 日本の近現代史  倉山満=編   新人物往来社
嘘だらけの日米近現代史 倉山満=著 扶桑社新書