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【盧溝橋事件】なぜ石原莞爾は日中戦争に反対したのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【盧溝橋事件】なぜ石原莞爾日中戦争に反対したのか」というお話です。

 

 盧溝橋とは、北京から南西に約5キロに位置する橋で、永定河(えいていが)とよばれる川に架かっています。

 ヨーロッパではマルコポーロ橋と称されているくらい非常に古い橋です。

 1937(昭和12)年7月7日の七夕の夜、盧溝橋湖畔の一帯で日本軍は夜間演習を行っていました。日本は1894(明治12)年の日清戦争に勝利したことで、日本軍は中国に兵を置くことを認められていました。

 一方、中華民国側は国民党の国民革命軍が訓練をしていました。

 午後10時40分頃、訓練中の日本軍にむけて小銃弾が数発飛んできたことで事態は大きな騒ぎになります。

 小銃弾は明らかに中国軍が駐屯する竜王廟(りゅうおうびょう)付近から射撃されたものでした。

 中隊長の清水節郎大尉はただちに非常呼集をかけ、135名の隊員を集合させました。

 その最中にも十数発の小銃弾が撃ち込まれました。

 点呼して人数を確認すると2等兵1人が行方不明となりました。

 中国軍に拉致されたのではないかというので、清水中隊長はただちに兵士たちに応戦準備を命じ、日本軍は革命軍に発砲しました。

 すると、革命軍も反撃しました。

 こうして両軍が衝突するきっかけとなりました。

 これが盧溝橋事件です。

 ちなみに行方不明だった2等兵は、便意を催して持ち場を離れ、戻ってきたら撃ち合うになっていた、という笑い話のような落ちがあります。

 結局、行方不明の2等兵は無事であることが確認されたが、発砲された事実をもとに中国軍へ厳重抗議する姿勢は変わりませんでした。

 この盧溝橋事件がきっかけとなり、日本と中国の全面戦争が始まるわけですが、柳条湖事件で始まった満州事変と同じ形のように思えます。しかし、今回は先に発砲したのは、中国側です。

 これは中国共産党員が国民軍と日本軍を戦わせるために発砲したという策略説がありますが、これは中国による日本に対する挑発だったのでしょうか。

 そもそもなぜ、日本軍と中国軍が近くで軍事演習をやっていたのでしょうか。
そんな状況ならば、数発の実弾が撃ち込まれたとしても不思議ではありません。

 いずれにせよ「衝突」は小規模でした。日本政府は不拡大方針を掲げ、間もなく、7月11日午後8時の時点で、現地中国軍と日本公使館駐在武官との間で行われ、停戦協定が成立しました。

 こうして盧溝橋事件そのものは、収束しました。

 ところが、この事件を利用しようとする日本政府と日本軍部は別の解決策をもくろんでいました。

 盧溝橋事件が起きたとき、近衛文麿内閣は、これを北支事変と名付けました。

 現地では停戦協定が結ばれたにも関わらず、陸軍省参謀本部は「この際、3個師団を現地に派兵し、中国を徹底的にたたけ」と主張するようになりました。

 その背景にあったのは、二・二六事件鎮圧で、陸軍の主導権を握った統制派による対中国政策にありました。

 つまり、この小さな軍事衝突を利用して、「年来の目的」を果たそういうのです。

 統制派の陸軍の「年来の目的」とは、北支(万里の長城から南の中国北部)に中華民国政府とは切り離された親日政府を樹立し、日本が思うようにコントロールして、経済的な収奪を行うことでした。いわゆる華北分離政策です。

 事件を聞いた日本軍司令部はこれをいい機会だと考えたのです。

 関東軍参謀長だった東条英機や、参謀本部の作戦課長の武藤章(むとうあきら)らは拡大論を唱えました。

満州は押さえてあるから、この機会に華北全体に日本の支配圏を広げよう。」

 このとき、陸軍の中で戦線の拡大に反対した人物がいました。

 それは、武藤の上司である陸軍参謀本部の作戦部長の石原莞爾です。

 石原は、満州事変を起こした一番に首謀者です。

「石原部長、派兵の命令を!!!」

「いや、いかん。日本は満州国の経営に専念すべきだ。今は中国と事を構えるときではない」

これに対して武藤は反論しました。

「あなたは満州でうまくやったではないか。それを盧溝橋だけに反対するのはおかしいのではないか。」

「だめだ。中国を刺激してはいかん。」

「もともと中国は無法地帯でしたが、今回の件で本格的な対日戦争を準備しています。このままでは我が軍は全滅するかもしれませんぞ。」

「・・・・うむ」

 結局、石原は中国への派兵を許可してしまいました。

 歴史の結果を知っている私達には、この石原の許可は間違いであったことがわかります。

 

 しかし、なぜ石原は日中全面戦争に反対したのでしょうか。

おそらく、石原は歴史から学んでいたのでしょう。

広い土地を持つ国に侵攻すると、間違いなく持久戦になります。

 

「私の辞書に不可能の文字はない」
 そう言ったのは、19世紀フランスのナポレオン・ボナパルトですが、その言葉の通り彼はヨーロッパ全土における戦争ではほぼ負けなしでした。

 そんなナポレオンが失脚したきっかけは、ロシアに侵攻したことでした。
 ロシアも中国同様、広大な国土を持った国です。
西側のモスクワは陥落できても、東側にも膨大な国土が広がっています。
そんなロシアとの戦争は持久戦になり、ナポレオンの兵力は著しく疲弊してしまいました。

 ソ連や中国のような大国は、日清戦争日露戦争のような極地的な戦いに負けることはあっても、国内での陸上戦では負けなしとなります。
敵国内に侵攻し、戦線を拡大すれば、国民意識ナショナリズム)を高めた国内の民間人も武装し、戦争に加勢してくるため、敵の兵力は必然的に増強されます。
そんな敵国全土を制圧するには、時間と労力がかさみます。
大陸国は、「点での戦い」はともかく、「面での戦い」ではほぼ無敵なのです。
かつて中国を占領したモンゴル帝国フビライハンは、内陸側から海岸線に追い込む形で中国大陸を侵略していきました。
しかし、今回の日本は全く逆で、海岸線から侵略しようとしています。
そんな戦法で、中国と真正面からぶつかり合えば、果てしない持久戦になり、日本の兵力や国力は著しく疲弊してしまうのは明白なことでした。

そして、‘日中戦争‘とは‘事変‘の延長でしかなく、明確な作戦目標も講和条件も決められていなかったことも大きな原因だったでしょう。
現代でこそ、日中戦争と呼ばれていますが、当時は北支事変や支那事変と呼ばれていました。
戦争と事変の違いは、宣戦布告をする大義名分がなく、講和条件も決められていないことですが、‘事変‘である日中戦争は、明確な講和条件も決められてなく、ただ占領地を広げていくだけ・・・・。
そのたびに兵力や兵糧を計算し、泥縄式につぎ込んでいく・・・・・。
支那事変は、終わりのない戦いへと発展してしまいました。
柳条湖事件に始まった満州事変の成功体験から、陸軍は中国を蔑視していました。
その事例のひとつとして、昭和天皇から「日本軍が本格的に出兵した場合、決着までどれくらいかかるか」と問われて、陸軍参謀総長は「一撃を加えれば、簡単に片付きますよ。まぁ3カ月以内で決着してみせます」と気楽に答えています。
それが、まさか戦争終結までの8年間まで長引くわけですから、とんでもない読み違いです。
参謀総長ですら、そう考えていたのですから、他の人も想像のとおりです。石原莞爾とは、そんな先を読むという分析力の優れた数少ない高級参謀だったのです。

 

参考文献
朝日おとなの学びなおし! 昭和時代         保阪正康=著 朝日新聞出版
100分でわかる!ホントはこうだった日本近現代史  田原総一郎=著   ポプラ社
子供たちに伝えたい 日本の戦争           皿木喜久=著 産経新聞出版
仕組まれた昭和史 日中・太平洋戦争の真実      副島隆彦=著  日本文芸社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史          中村達彦=著 アルファポリス